第117号
広島芸術学会会報 第117号
重層的な文化の地層~台湾に移り住んで、旅して
亀井 克朗
台湾に移り住んで、気がつけば九年目になる。この間に様々のことを見聞きしてきたが、この地はその都度違う相貌を見せ、飽きない。台湾が様々な面で刻々と変化しているということもあるが、それだけでなく、未知の側面が見る度に掘り起こされてくるということがある。
旅行好きの妻やその両親の好ましい影響もあり、折々に、台湾の各地を巡っている。私の住む台南はもとより、台北、高雄は疾うに行き尽くし、東部や島嶼にも足を伸ばす。いつでも有名な観光地よりは、メインストリームを外れたところに、思わぬ出会いがある。
台湾屈指の観光スポットであり、近年は大陸から大挙して中国人が来訪する阿里山(アーリーサン)を訪れた時もそうだった。二千年を越す樹齢の神木には無論感動したが、それに劣らぬ強烈な印象を受けたのは、阿里山から少し足を伸ばして辿り着いたある原住民の一部族の里だった。そこに残る今も現役の祭りの舞台も興味深かったが、何よりもその土地の空気や人々の居住まいの静かな力に圧倒された。
平(ピン)溪(シー)で見た空に浮かぶ提灯の幻想的な光景は忘れられないが、そこからさらに東部を南に下って訪ねた、原住民の別の部族の発祥の地とされる里もまた忘れ難い印象を残す。原住民の習俗を手っ取り早く見聞きしたければ、台北に博物館があるし、台中から二時間の九族文化村にも古代の住居の展示がある。しかしそれらの人工的な展示に飽き足らず、その展示がモデルにした住居の元あった場所を手探りで探し出し、僅かな予備知識を携えて訪れたのであった。
そうした地に行く度に、思いも寄らぬ発見がある。別の折、通りすがりのつもりで寄った北部の金山という町には、地図やガイドブックからは想像のつかない賑わいの市が待ち受けていた。
遠く離れた土地だけではない。近頃も、住まいの近隣を散策して、樹齢百年の木や土地の由来などを発見した。台湾には多様で重層的な、隠れた文化の地層がある。
これらのものは、主動的に探せばこそ見出せるものであり、その意味で主動は必須であるが、同時に、偶然の出会いや思わぬ発見に対しては受動である。主動と受動の交差は、芸術の創作や鑑賞にも言えることである。
よそものの視線は偏差を含みもする。しかし、よそものの視線にこそ映る本質というものもある。それもまた、この間、教えることを通じて学んだことの一つである。
(かめい かつろう/興國管理學院應用日本語学科專任講師)
第98回例会報告
研究発表①
二つの展覧会から見た具体美術協会の評価
―日本国際美術展・現代日本美術展への出品を通して―
発表:神戸大学大学院芸術学専修 植松 篤
報告:ふくやま美術館 谷藤史彦
戦後美術における具体美術協会(以下、具体)は、彼らが積極的に海外へ自らの作品集を継続的に送っていたことも奏功して、国際的な評価が高いことはよく知られている。それに比して、国内での評価がそれほど高くないとされてきている。実際はどうだったのだろうか。
発表者は、1950年代から1970年代にかけての現代美術の展覧会として権威があったとされる日本国際美術展および現代日本美術展に出品された、具体の作家たちの作品とその受賞、批評を追い、具体がどのように評価されてきたのかの実態を調査した。
日本国際美術展は、美術団体連合展とサロン・ド・メが合流して開催された国際展で、招待制として最初はフランスを中心とする7カ国が参加して1952年から始まった。前衛的な傾向は少なく、総花的・網羅的であった。1954年からは、日本国内の作品を中心とする現代日本美術展が始まり、以後、日本国際美術展との隔年開催(ビエンナーレ方式)となり、また受賞制度も導入されことになっていった。招待作家の選考は、大家・中堅が中心であり、新人に門戸が開かれていなかった。その後、コンクール部門ができ、3000点もの作品が集まるようになっていった。その中で、招待作家として吉原治良・白髪一雄・元永定正など具体の中心メンバーが出品し、さらにはコンクール部門にはヨシダミノルなど具体後期の新人たちも参加して入賞するようになっていた状況が報告され、日本国内においても具体の作家たちが受け入れられ、評価されていたことを強調した。
今回の発表で、報告者が気になったのは、その焦点が日本国際美術展および現代日本美術展の成立と推移そのものに置かれてしまった点である。また、具体の”評価”について新しい知見が示されなかったのも残念な気がした。
研究発表②
感情の現象学 ―感性と理性の2元論を越えて―
発表&報告:広島大学大学院総合科学研究科 鎌田 勇
デカルト以来の西欧近代合理主義は、平等、民主主義を導いた反面、感情を理性より下位の心的機能と見なしてきた。合理主義はやがて経験論的功利主義に取って代わられ、経済学の自由主義・市場主義や心理学の行動主義を生み出し、計算づくの「自己中心的」「知的」「合理的行動者」としての人間像が現代を支配するまでになった。しかし昨今、脳科学や心理学、そして経済学で感情の役割を見直す動きが強まっている。本報告はそうした最新の「感情の科学」を概観すると共に、現象学的に感情経験を捉え、感情の役割の再評価では不十分で、知性と感情の分割自体が恣意的であることを訴えた。
感情科学の紹介と共に、「退屈」体験を現象学的に記述し、また出席者に思考実験で感情と知性の絡み合いによるモラル判断を経験してもらった。限られた時間での広範な議論となったため、「検証が十分ではない」という質疑応答での指摘もされたが、既に科学的データは多く提出されている。その紹介はできなかった。また現象学自体も(経験論に対峙する)合理主義の末裔として、理性の発生の場を知覚に求め、感情を十分検討してこなかった。こうした議論は今回の発表には十分盛り込めなかった。報告者は、今後論文によってそれを補う予定でいる。
〈寄稿・エッセイ〉
桜の国 Ⅱ
広島大学 袁 葉
(一)
交差点の信号が目前で黄色に変わり、タクシーはスピードを緩めた。もうちょっと急いでくれたらパスできたのにと、私は内心思った。イライラする気持ちを抑えようと、まぶたを伏せる。
「色が、微妙にちごうとるねえ」―運転手さんの声だ。何ごとかと目を開けてみると、彼はハンドルに顔を寄せるようにして、川土手に咲いている二本の桜を見上げている。「こっちのはちょっと白っぽうて、向こうの方はもう少しピンクがかっとるね」
桜のある風景にも年々目が馴染んできている私は、それを聞いてハッとした。「そう言われてみるとそうですね、さすが…」と言って、心の中で「日本人ですね」と呟いた。窓ガラスを開けてみると、若葉の香りを含んだ微風が頬を撫でた。そして、桜の花びらがひとつ私の手にとまった。車が動き出すと、その花びらは再び旅立っていった。
桜を愛でるあの一言のおかげで、春のワン・シーンが私のみずみずしい思い出となっている。
(二)
「もうすぐ桜の季節ですが、いかがお過ごしでしょうか…」と、知人に手紙を書いているところへ、玄関のチャイムが鳴った。京都に住む友人から小包が届いたのだ。開梱すると、私の好物の京漬物などの品物に、手紙が添えられている。
「桜のつぼみが日々膨らんできていますが、いかが…」
都のたたずまいが、桜の風景と重なって目の前に広がってきた。急に自分の書き出しが、味気ないものに思える。早速この文を拝借して、書き換えることにした。
翌日から急ぎの翻訳の仕事が入り、出すはずの手紙はそのままバッグの中に眠ることになってしまった。気がつくと、三、四日も経っていたろうか。
まさにポストに封筒を入れようとした時、急に桜の咲き具合が気になった。辺りを見渡すと、数軒先の家の塀から、しなやかに伸びている桜の枝が目に映った。そこへやってきて仰ぎ見ると、なんと花びらがほころび始めているではないか。こんなにうららかだと、すぐ満開になるかも…。結局ポストには寄らず家に戻った。
再び机の前に座り、ペンと便箋を取り出した。「もうすぐ桜の花びらが舞う季節となりますが…」
時候の挨拶から手紙を書く習慣は、日本独特の文化だ。一通の手紙を一週間のうちに二度も書き換えた私は、季節の微妙な変化にも胸をときめかせる日本人の繊細な心に触れたような気がした。
電子メール全盛の今日とはいえ、文具店に並んだ四季折々の便箋の彩りに、いつも目を奪われる私である。
〈インフォメーション〉
わが学会提案のテーマ「芸術と地域」で企画されたシンポジウム(オーガナイザー:金田会長)の開催をお知らせします。シンポジウムは公開です。参加ご希望の方は、念のためFAX(082-506-3062)あるいはEメールで、本学会事務局(大橋啓一事務局長)までご連絡ください。Eメールはこちら
●藝術学関連学会連合2012年度シンポジウム
「地・人・芸術-<芸術と地域>を問う-」
主催:●藝術学関連学会連合
意匠学会/国際浮世絵学会/東北藝術文化学会/東洋音楽学会/
日本映像学会/日本演劇学会/日本音楽学会/日本デザイン学会/
比較舞踊学会/美学会/美術科教育学会/美術史学会/舞踊学会/
広島芸術学会/服飾美学会
●日本学術会議哲学委員会 藝術と文化環境分科会
共催:仙台市博物館
■会期:2012年6月16日(土) 13時~16時30分
■会場:仙台市博物館ホール 入場無料(申し込み不要)
(仙台市青葉区川内26番地)
【内容】
総合司会 平山敬二(東京工芸大学、美学会)
開会挨拶 西村清和(藝術学関連学会連合会長、日本学術会議会員)
外山紀久子(埼玉大学、日本学術会議連携会員)
趣旨説明 金田晉(東亜大学、広島芸術学会)
パネリスト 渡部泰山(大原螢)(山形大学、東北藝術文化学会)
報告「地域と演劇――文化・芸術活動の起点にあるもの」
奥中康人(静岡文化芸術大学、日本音楽学会)
報告「地域社会にとっての音楽文化―石巻市の大沢楽隊を巡って―」
吉村典子(宮城学院女子大学、意匠学会)
報告「芸術と地域――英国都市再生の事例から」
芳賀満(東北大学、美術史学会、日本学術会議連携会員)
報告「地域復興の為の芸術の力-
①高台移転に伴う埋蔵文化財発掘調査の社会的意義
②文化庁の「文化財レスキュー事業」の意義と問題点
③災害対策基本法への文化財の観点の付加
④ゲニウス・ロキと災害モニュメント」
ディスカッション コーディネーター 金田晉/平山敬二
閉会挨拶 内山淳一(仙台市博物館学芸室長)
シンポジウムオーガナイザー:金田晉/平山敬二
【趣旨】
現代芸術の状況はますますグローバル化している。作家の活動も、プレゼンテーションの仕方も、享受者あるいは参加者の期待も、また状況全体に対するさまざまな言説もグローバル化している。だが昨年3月11日東日本太平洋沿岸を襲った大津波、さらに福島の原発事故による放射線汚染に直面して、私たちの社会的、文化的営為がいかに大地locusに支えられてきたかを思い知らされた。しかも銘記しておかねばならない、世界を揺さぶる作品やディスクールは、創造主体の生きる「ここ今」という土locusの匂いをなおそこに留めていることを。
そもそもグローバル化自体が広大な宇宙の中では地球という一つのローカルなミュートスであることにかわりなく、逆に地locusに生きることがグローバル化を超えて広大無辺の世界に届くというパラドックスは、少なくとも芸術の世界では真実である。本シンポジウムは東北の歴史文化の拠点仙台市博物館で、「芸術と地域」をテーマとして開催される。
半世紀以上にわたって日本がひたすら走り続けてきた国家建設が今岐路に立たされている。長く文明開化にエネルギーを送り続けてきた「地域」が衰弱し、機能が低下している。国政は「地域振興」という名の下に数々の政策を立法化し、地域の活性化を講じてきたが、真の解決を見出してはいない。それらがいわば外からの提言、対処策、財政措置にとどまっていたからではないか。在所不明の地域活性化の提言を行ってきた識者の責任も重い。
地域には地の息遣いが聞こえ、声が響いてくる。そこに生きた人々の生への意志と功業が地域固有の文化と歴史を形成してきた。爾来、開催地東北地方には豊かな民話伝説が伝えられ、さまざまなジャンルにおいて、その地域だからこその素晴らしい作品と作家が生まれてきた。だがそこだけでない。さまざまな地方でかずかずの努力が積み重ねられ、民俗芸術の域をこえて、かずかずの芸術が伝統として実を結んできた。挫折もあり、成功もあり、ヴァイタルなエネルギーを伴うさまざまな試行、運動が今も続いている。それら各地の総和と余剰を、芸術学の視点から考えてみよう。地locusの力を際立たせ、地域の活性化への内発的な道筋を共有できるのではないか。
現代史の節目に、フランシス・ベーコンがスコラ哲学の模倣原理から脱するために、しかも自然と向かい合うことをやめないために使用した技術(芸術)の定義「自然に付加された人間l'homme ajouté à la nature」が浮上する。ゴッホは画家になることを決意する鉱山の都市ボリナージュで、「芸術、それは自然に付加された人間である。ぼくは芸術についてのこれ以上の定義を知らない」と弟テオに書く(1879年)。大戦の跡生々しい1945年のパリでメルロ=ポンティは、生涯郷里エクスの山や湖を描きつづけたセザンヌの方法にことよせて、この芸術の定義を「古典的」と記して自らの哲学の位置を見定めた。その近みに宮澤賢治の夢を置いてみよう。1926年かれは東北の一角花巻にいて「羅須地人協会」をおこし、肥料の科学に専心しながら、「地人芸術」を構想し、地locusから発して音楽、絵画、彫刻、演劇、舞踊すべてのジャンルへと放射する総合芸術を志向した。私たちはそれをヒントに、本シンポジウムのタイトルを選んだ。
今日、危機の時代に、私たち芸術学関連学会連合はそのカヴァーする多様なジャンルからそれぞれの切り口で<地域>を問い、時代の隘路を切り開く可能性を考えたい。
第116号
広島芸術学会会報 第116号
韓国で漢字について考える
長迫 英倫
昨年の世相を表す漢字に「絆」が選ばれた。今では神聖視されている感さえある。だが、ご存知だろうか。絆とは元来は家畜をつなぎ止めておく縄のことであり、転じて自由を束縛するものを意味するようになったことを。恩や愛情の繋がりという意味を担っているのは、漢字文化圏の中で日本だけだという説もある。
韓国での生活も四年目を迎える。この間、かえって漢字について考えることが多くなった。確かに韓国では漢字の使用頻度はきわめて少ない。しかし、漢字文化は日本よりも根深く残っている。例えば、日本では「綜」と「総」は区別されなくなったが、韓国では前者を종(ジョン)後者を총(チョン)と、表記上も発音上も区別する(それぞれの語義は紙幅の都合上割愛する)。
芸術学会に因んで、「美」という漢字にまつわる体験を紹介したい。「美」という文字は「羊」と「大」から成る。そして、大きな羊は「美味」だから「美」という字ができた、という説がある。私は、大学で美学を専攻してこの説に触れてから、二十年近く悩み続けてきた。「大味」という言葉が象徴するように、大きさと美味しさとは別次元の問題だと思ったからだ。しかし、韓国で暮らすうちに「大きな羊は美味しい」ということを文字通り体得した。古代中国において、羊は天に捧げる犠牲であった。翻って韓国では今も、中秋節や正月になると家族が一堂に会し、祖先に供物を捧げて会食する。多人勢で食事をする機会が多い韓国では、大きな羊は二つの意味で美味しい。まず、家族全員の胃袋が満たされる幸せを思えば、大きな羊はそれだけで美味しい。第二に、韓国語で「美味しい」は「맛있다(マシッタ)」なのだが、日本語に直訳すると「味(맛)が在る(있다)」となる。羊が小さく一人あたりの分配量が少なくなれば、たとえ肉片を口に入れたとしてもその味を感じることさえ難しくなるだろう。
漢字のみならず、「家」にまつわる言葉(家族、相(あい)舅(やけ)、姨母・姑母)など、韓国で生活していると、かえって日本文化に関する知識を実体験することができる(自己宣伝になって恐縮だが拙著『それでも不思議な韓国』も参照されたい)。こうした体験こそまさに「美学」をすることだと思い、日々の生活を楽しんでいる。
(ながさこ ひでのり 釜山科学技術大学校・観光日本語通訳科 専任講師)
第97回例会報告
研究発表①
19世紀における自然科学の作品化と「崇高」
―アーダルベルト・シュティフターの文学
発表:日本学術振興会 特別研究員 中野 逸雄
報告:広島大学名誉教授 嶋屋 節子
標記の研究内容を理解するにあたり、「崇高-das Erhabene」の概念と役割を適切に把握する必要があることを発表者は指摘した。人が世界の現象を正しく認識できるのは、カントの『判断力批判』において指摘された「崇高」の感覚は不可欠であると解釈される。さて、カントのこの著作に占める「崇高の分析論」の記述は、因に岩波文庫『判断力批判』(上)のp.144-217にわたり、同著(下)の[索引] p.48-51では、「崇高」の多面的使われ方が理論的に整理されている。人間と自然のかかわり方を新しく切りひらいたこの「崇高」なる知的遺産を、シュティフターは作家・画家として継承し発展させ、彼の文学作品に独自の生気を与えた。
年代的に見ると、シュティフターの初期の作品は、『石さまざま』のタイトルで1853年に出版されている。「崇高」との関連で注目すべき箇所は『序文』の中に点在している。その冒頭を引用する。「私が作家として小さなものばかりを材料にし、描く人物もありふれていると非難を受けたことがある。. . だとすれば私は今回、読者に一層小さなものを提供することになるわけだ . . 」しかし、ここに収められた『水晶』《クリスマスイヴの日に祖母を訪ねた帰り道、雪が降り始め、幼い兄と妹が氷河を抱く山岳地帯に迷い込んだ。夜中に雪が止むと満天の星空。突然、耳をつんざく轟音そして氷の割れる凄い音が響きわたる。突然、天空に光が広がり、赤や緑の色を増し、弓形に揺らぎ踊って夜空に消え去る。やがて待望の日の出、そして二人は救出》。このような希有な体験には大・小の尺度は無用であろう。この場合には、カントの定義した次の表現が妥当であろう:1. 美学的判断において自然が崇高と判断されるのは自然の強大な威力をすら、我々と我々の人格性に対する強制力とはみなされないような力を、我々の中に喚起するからである。岩波文庫『判断力批判』(下)、[索引] p.48、2. . . 自然のもつ力学的崇高さは、我々の精神力を日常時とは様変わりに高め、別種の抵抗力を引き出す。p.50。
さて、発表者はシュティフターの崇高表現がカント的伝統の下にあることを確認した上で、この作家が自然科学への関心と知識を増すにつれて、目の前の小さな自然に内包される空間現象、時間表象の無限を表現する熱意が強まっている事実を確信する。シュティフターは『1842年7月8日の日食』の記録において、自然の道徳的威力を典型的な数学的崇高の形式で表現していた。更に、彼は、自然科学が開拓した自然界の新事実を基盤にして、「無限」の表象を「構想力」を駆使してイメージ化する試みをくりかえしていたのだ。かくして1857年、彼の全力を傾けた長編小説『晩夏』が誕生した。(だが、報告者はこの作品を読んでいない。)
研究発表②
ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの「夜の絵画」について -その闇の意味-
発表&報告:ふくやま美術館 学芸員 平泉 千枝
「夜の絵画に秀でた画家」―これは18世紀、フランス、ロレーヌ地方の修道士ドン・カルメが、著作でおよそ一世紀前に没した同郷の画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593-1652)を評した言葉である。かようにラ・トゥール芸術において強い印象を残すのは、聖人や聖女の姿、聖誕の情景が暗闇から蝋燭やランプのわずかな光によって浮かびあがる、いわゆる「夜の絵画」であり、従来この画風形成は、大胆な明暗画法で一世を風靡したイタリアのカラヴァッジョや追随画家たちなど、国際的なカラヴァッジョ様式流行から影響を受けてなされたものとして、主に様式論の文脈で捉えられてきた。今回はこれに加え、ロレーヌの古文書館等の調査をもとに、地域特有の思想背景に着目した。17世紀当時、ロレーヌは地理上プロテスタントに対するカトリックの砦と目され、多くの修道会が進出したが、特に画家の生地の有力者が支援したのが跣足カルメル修道会であった。同会の創立者の一人、修道士の十字架のヨハネ(1542-1591)は、魂が神との合一にいたる修練の過程を「暗夜」になぞらえた著名な神秘思想家であり、発表ではこの「暗夜」の思想や、そのロレーヌへの伝播、修道会周辺での絵画の受容、あるいはラ・トゥール絵画に見られる特徴的な表現の検証から、ラ・トゥール絵画の闇は、単なる表現上の効果以上に、神秘思想などの宗教的な含意の面からも読解できるのではないかと論じた。
〈インフォメーション〉
●芸術展示「制作と思考」第8回展
3月20日から広島県立美術館で
テーマは《ホット・ジャパン ─ 粋と野暮》
広島芸術学会恒例の芸術展示「制作と思考」第8回展を開催します。今回のテーマは《ホット・ジャパン ─ 粋(いき)と野暮(やぼ)》。会員の皆さまから募集した作品を一堂に展示します。皆さまのご来場をお待ちしています。
■会期:2012年3月20日(火)~25日(日) 毎日 9時~17時(金曜日は19時まで)
■会場:広島県立美術館 県民ギャラリー(広島市中区上幟町2-22)
■問い合わせ:ひろしま美術研究所内 芸術展示実行委員会事務局
TEL082-506-3060 FAX082-506-3062 Eメールはこちら
●特別展「シャルロット・ペリアンと日本」
20世紀モダニズム建築の巨匠、ル・コルビュジェとともに建築室内デザインで優れた業績を残したフランス人建築家・デザイナー、シャルロット・ペリアンの展覧会。
■会期:~3月11日(日) 10時~17時 *入館は閉館の30分前まで。月曜日休館
■会場:広島市現代美術館(広島市南区比治山公園1-1)
■観覧料:一般1000(800)円、大学生700(600)円、 高校生500(400)円、 小中学生・65歳以上無料。( )内は前売りおよび30名以上の団体料金
●新刊紹介『それでも不思議な韓国―やさしい日韓比較文化考』
文芸社 1260円(税込)
著者は広島芸術学会会報116号(今号)の巻頭言を執筆した長迫英倫氏。電子書籍としても出版されている。スマートフォンやタブレットからはSHAPのGARAPAGPS(http://galapagosstore.com/web/btop)より756円(税込)で、パソコンからは文芸社のBOON-GATE(http://www.boon-gate.com)より525円(税込)で購入できる。
第115号
広島芸術学会会報 第115号
「ZERO」グループと「具体」
越智 裕二郎
本年10月3日、元永定正氏が亡くなった。入退院を繰り返していることは聞き及んでいたが、9月末に兵庫県立美術館で開催された「REFLEXIONEN」、ドイツの「ZERO」グループと「具体」グループをほぼ同室に並べた展覧会場で氏の作品を拝見、中に今年の年記の入った作品も並び、それらが晩年とか衰えというものを全く感じさせない作品であることに驚いた私は,「氏はまだまだ生きる!」と確信した直後であっただけに、その訃報には虚を突かれた思いがした。聞けば病院でもキャンヴァスのサイズは小さくなったとはいえ、最後まで絵筆を放さなかったとか。
同展会場室の中心は,ドイツの「ZERO」グループ、創設者のオットー・ピーネとハインツ・マックに加えてギュンター・ユッカーの3人。「ZERO」とはいうまでもなく戦後ドイツのデュッセルドルフで、第2次世界大戦前の「表現主義」など過去の絵画を捨象し、物質そのものや光を素材とするアートに取り組んだグループであり、1957年に結成1966年には解散したが、ヨーロッパのフォンタナやイヴ・クラインなど当時多くの作家がこのグループと関わりを持ち、展覧会に参加していた。
オットー・ピーネ氏はさすがに車椅子を使っているお姿をちらりと拝見したが、まだまだかくしゃくたるご様子に見え、また作品も天井高7m20cmを最大限使ったキネティック・アート、真っ暗な部屋の中で迫力も十分、見応えのある作品であった。ハインツ・マックもステンレスの板を90度曲げたものをずらりと床に並べ、ギュンター・ユッカーは、釘を垂直に立てた手馴れた作品で3人三様の存在感を示していた。
兵庫県立美術館では2004年、「具体」回顧展をひさびさに開催した折、同展を見て当時館長の木村重信氏が、「美術史史上「前衛」と呼ばれた作品でも時代が経てば古色を感じてくるのに、なぜか「具体」は古びを感じさせないね」という感想をもらされた。そのときは軽く耳に留めた言葉が、今回この2つのグループを併置した展覧会を見た時、まことに適切な評語として私の脳裡に浮かんできた。
「具体」とは、今となっては変なグループ名であるが、素材の物質までアートの射程にいれる宣言と理解すれば、これまたほぼ同時にドイツで生まれた「ZERO」と通底することは自明である。昨今、「ZERO」やオランダの「NULL」、日本の「GUTAI」を併置する展覧会が世界各地で開催され始めたことは承知しているが、この2011年という50年をたった今でも、戦後「超新星」の爆発のように光芒を放ったこれらのグループが、その切れ味、光たるや、輝きを失っていないことに改めて感じ入った次第である。
(おち ゆうじろう 広島県立美術館館長)
第96回例会報告
広島県立美術館 学芸員 永井明生
「大野ギャラリー」と「ヒロセコレクション」を巡る第96回例会(野外例会)は、2011(平成23)年11月5日(土)に実施された。午後1時、待ち合わせ場所の広島駅新幹線口前に7名が集合。あいにくの雨模様ではあったが、お互いの近況を報告し合うなど和やかな雰囲気のなか、車2台に分乗して目的地へと向かう。
まずは広島市中区西白島町の大野ギャラリーへ。株式会社大野石油店の本社屋3階に併設された同ギャラリーは平成10年にオープン、日本洋画界を代表する画家の一人である小磯良平の充実した作品群で名高い。約350点もの小磯作品のコレクションは、神戸市立小磯記念美術館や兵庫県立美術館に継ぐ日本有数の規模として知る人ぞ知る存在である。当日は、同ギャラリーの笠岡めぐみ学芸員によるわかりやすい解説を拝聴しながらの鑑賞となった。コレクションの始まりは約40年前、同社会長がデパートで見て魅了された小磯良平の版画であったとか。その後、小磯作品にしぼりコレクションを拡大、各時期の代表的な作品を網羅していったという。作品を購入するのは決まって大阪の某有名画廊。その画廊の受付嬢として働いていた中村悠紀子氏(昭和60年の日航機事故で逝去)が小磯作品のモデルとしてしばしば描かれているのは有名な話だが、同画廊の娘を描いた作品も同ギャラリーにあり、この作品の購入を最後に作品収集が終了した、などといった興味深いエピソードも披露された。画業初期の貴重な素描・リトグラフ、昭和10年代の女性像などに始まり、赤坂迎賓館の壁画に関する習作にいたるまで、時期や作風等によって系統立てて展示構成がなされている。7名の会員は、小磯良平と親交のあった太田忠(広島出身の洋画家)のこと、小磯作品とフェルメールのそれとの類似性などなど、自由な感想や想像(?)を披瀝し合いつつ、最後は競い合うかのように各人がポストカードを購入、気持ちよく同ギャラリーをあとにした。
続いて、広島市中区千田町のヒロセコレクションへ。こちらは今年の8月6日にオープンしたばかりの現代美術の画廊。医師の広瀬脩二氏が約30年前から集めた個人コレクションを8月の「トニー・クラッグ展」を皮切りに順次公開していく予定で、例会当日は第2弾の「ダニエル・ビュレン展」が開催中であった。ダニエル・ビュレンは、1986年のヴェネツィア・ビエンナーレで金獅子賞を受賞するなど、国際的に高く評価されるフランスのアーティスト。真っ白な壁面に囲まれた会場に、紅白の麻布と木材を使用した「部屋の中の部屋」(1985年)など、作品が今・ここに存在する意味を根本から問うような刺激的な作品が並ぶ。広瀬氏ご本人から、殿敷侃(広島出身の現代美術作家)の示唆によってコレクションを開始したこと、原始美術への関心も高く当初それらを収集していたこと、海外でのハンス・ハーケといった著名アーティストとの交流など、貴重なお話をうかがいながらの鑑賞。毎回一人の作家に限定し、その作家の作品を堪能できるような展示の工夫をこらすなど、ご自身のコレクションの示し方に関する強いこだわりや思い入れが感じられた。
広島市内にある特徴的な個人コレクションを「はしご」する形となった今回の例会。対照的とも言える国内外2作家の世界を味わい、その余韻に浸りつつ、充実した心持ちで散会した。
●大野ギャラリー
住所:広島市中区西白島町22-15 大野石油店 本社ビル3階
開館日時:水曜日(祝祭日は除く)10時~16時
入場料:無料
電話:082-221-9107
●ヒロセコレクション
住所:広島市中区千田町3-9-1
開館日時:金・土・日曜日14時~18時
入場料:500円(学生300円)
電話:082-240-2450
<寄稿>パンダの国から「大キリン」(第113号の続き)
広島大学 袁 葉
(二)
大震災と大津波、さらに原発事故に襲われたにもかかわらず、日本人が冷静さと秩序を保っていることを、中国や香港のマスコミやネット上では、連日絶賛している。
『環球時報』のホームページは、民族主義的論調で知られるが、それでも「東日本大震災」を気遣う書き込みがほとんどだった。
「被災地の日本人民のために、祈っています」「日本人は頑張るはずだ。こんなことで泣かない」「四川大地震の際に、日本は救援の手を差し伸べてくれた。災害に際しては(日本を嫌う」民族的感情を抱くべきではない」「困難な時に発揮された、日本人のマナーの良さを見習わなければならない」などなど。
中国では古来「衣食足、知栄辱」という。なぜ日本人は、衣食が足りない状況下でも礼節を守れるのか? 教育力、神道、儒教の影響や「恥の文化」、単一民族と共同体の構造などの角度から考えて、自分なりの答えを出してみた。
かつて勤務した「中国マスコミ大学」の先生にこの話をしたら、『大震災を通して見る日本人の国民性』と題して、学生たちに話をすることになった。
当日、100分間の特別講義の最後に、学生たちにこんな質問をした。
「世界最大級のオンライン旅行会社のエクスペディアは、09年各国観光客の評判を調査した。3年連続で最良の観光客に選ばれた国はどこでしょうか?」すると、全員が口々に「日本」だと答えた。
それを聞いて、飛行機でもらった3月19日付けの『労働者日報』の記事が脳裡をよぎった。
「大震災に見舞われながらも、日本人の冷静さ、秩序の良さは、大震災そのものより、ある意味では、我々をもっと震撼させてくれた。」「大震災時に表れたその優れた資質は、何よりの国家宣伝となっている。」
もし震災前だったら、学生たちからすんなりと「日本」だという答えが出てきただろうか…。
(三)
数日後家に届いた町内新聞に、「居民の祈願」という東日本大震災に関する町民の投書コーナーがあった。そのほとんどは、日本が今日の苦境から一日も早く抜け出すために、できるだけの援助をしようと書かれている。
中国のネットによれば、義援金の寄付者の中には、出稼ぎ労働者もいれば、お年玉を全部出した小学生もいる。また、四川省は官民とも援助の動きが迅速だったという。
中国政府はガソリン1万t、ディーゼル油1万tの無償援助を追加した。「日本人民と世々代々の友好関係を築こう」というフレーズも新聞に久々に登場。
現地に入った中国の救援隊員が食料品を購入しようとした時、「はるばる協力に来てくださったんだから…」と、被災者は代金を受け取らなかったといったエピソードを通して、「とにかく、これまでの日本人民への偏見が、尊敬の念へと変わってきた」と述べた中国マスコミ省に勤務する友人の話が、とても印象に残った。
日本に帰ってから、テレビで見たある映像。青空を背景に赤い生コン圧送機が、福島原発の4号炉に注水作業をしている。62メートルもの高さがあり、修復作業の現場では「大キリン」とか「無名の巨人」と呼ばれているそうだ。中国の無償援助によるものだ。北京で見たニュース~上海港でこの「大キリン」が船に搭載される際、中国人の作業員たちの一刻を争う仕事ぶりと真剣な眼差しが、再び目に浮かんできた…。(第114号に掲載予定でしたが、都合により今号の掲載になりました)
第114号
広島芸術学会会報 第114号
アントニオ・ロペス展を訪れて
吉本 由江
この夏、マドリッドのティッセン・ボルネミサ美術館では、国内では18年ぶりとなるアントニオ・ロペス(1938~)の大規模な回顧展が開催され、好評を博している。ロペスはマドリッドの街並みを写実的に描いた風景画で知られ、日本でもドキュメンタリー≪マルメロの陽光≫が紹介された。
このアントニオ・ロペスにベラスケス賞が授与されたのは2008年。今回の記念回顧展ではロペス作品の全貌が概観できる。
会場ではまず初期の魔術的リアリズムの作風に驚かされた。その内の一点≪アトーチャ≫に関し、ロペスは、人気のない街に一組の裸体の男女が抱き合う姿を描き加えたのは「遠くからでは見えない街の内部で進む様々な生の営みを示すため」であり「後年には奥に(風景という)対象を描きこむ中で同じ感覚を表現できるようになったと思う」と述べている。展示された風景画(完成作品)に、細部描写と大まかな塗りの部分が隣り合っている作品があることからも、ロペスの絵画が、対象のすべてを細密かつ均一に再現するリアリズムとは異なることがうかがえる。屋外で風景作品を描く際、ロペスは、適切な光の状態が得られる瞬間に合わせてキャンバスを構え、描き加えるという過程を繰り返す。制作が数年にわたる場合でも、試みられるのは、今・現在の把握とその表現であるという。
近年、ロペスは、人体をテーマとした巨大彫刻を数点公共の場に提供した。ロペスの彫刻のいくつかはアルカイックで、彼が傾倒するギリシャ・ローマの古典美術が、理想の身体の表現としてよりも、原初的な生の表現として捉えられているようで興味深かった。それは、ロペスが乾燥した気候の故郷トメリョソの生活から多くの画題を得ている点や、モデルの多くが家族である点、マドリッドの風景においても、当初は、殺伐としているが見慣れた風景というテーマの近親性からマドリッドの遠景が選ばれた点と軌を一にしているように思われる。
自分に絵を描かせるものは感情だと語るアントニオ・ロペスは、基本的に英雄的要素のない日常の今を飽くことなく追求する。数年先に開かれると聞く日本でのロペス展が待ち遠しい。
(よしもと よしえ・バルセロナ自治大学大学院)
〈広島芸術学会第25回大会報告〉
●研究発表①
伝統工芸産業における芸術家の「創造性」の変容について
-石川伝統工芸イノベータ養成を一つの事例研究として-
発表:広島大学大学院博士課程後期 廖 偉汝
報告:九州大学大学院博士後期課程 大山智徳
とても美しいパワーポイントを駆使しながら伝統工芸による産業活性化、さらに政策にまで言及するスケールの大きな勇気ある発表であった。
その一方で、伝統工芸(芸術学)と産業社会(経済学・社会学)、さらに政策(政策学)といういわば三つの学問的蓄積のある学問の接続にはいくつかの難しさを感じさせられた発表でもあった。これは越境的な学際的研究にみられる普遍的な困難であるので、今後のわれわれの研究のためにもいくつか気づきを記してみたい。
まずは伝統工芸の概念を芸術学の概念で定義すること。その上で新しい伝統工芸についての概念を提示されるとよりわかりやすく、より説得的になったのではないだろうか。
次に産業社会モデルのさらなるヴァージョンアップを図ること。フロアーからの質問でもあったが、高級文化と大衆文化、芸術家と職人という二項対立モデルが現代社会でも有効な概念足りうるのだろうか? デリダの「脱構築」を経験したわれわれにとって二項モデルへの回帰はそれなりの理由がほしいと思う。
政策。これは政策情報のより高いリテラシー(情報解読能力)が必要だろう。
発表者の試みは極めてスケールが大きい。それだけに遠回りでもいいから焦らず、それぞれの学問分野で学会発表、論文発表等を繰り返され、ライフワークとして三つの学問言説の統合を試みられてはいかがだろう? そのためには大学院での仲間はもちろん、広島芸術学会のメンバー、それぞれの学問分野に詳しい方々と異種交流をされるのもいいかと思う。
いずれにせよ、今後のご活躍を期待させるスケールの大きな発表であった。
●研究発表②
日本におけるオルガン文化(楽器、作品、オルガン界)
―1945年以降を中心に―
発表:エリザベト音楽大学大学院博士後期課程修了 佐々木 悠
報告:お茶の水女子大学大学院人間文化創成科学研究科研究院研究員 大迫知佳子
佐々木氏の発表は、日本におけるパイプオルガン(以下、オルガン)文化形成の歴史的過程について、特に、日本人作曲家によって1945年以降に作曲されたオルガン作品の諸相を考察することにより、解明するものであった。
氏の日本人作曲家への聞き取り調査と、諸オルガン作品の自筆譜(未出版)という貴重な資料の収集・分析からは、創作が盛んになった1945年以降のオルガン作品における、革新的な音を生み出す4つの「新しい演奏技法」が抽出・分類された。それらは即ち、①装置の操作、②楽器内部の改造、③装置の付加、④声の使用である。発表では、これらの技法の効果を、発表者自身のオルガン演奏の映像によって実際に視聴させることで、「オルガン」、「オルガン作品」、「演奏者」、「聴衆」という、氏の定義したオルガン文化を形成する主要諸要素が、眼前に集約される形となった。
発表の最後に、オルガン文化の現状を巡り、「日本において、オルガン作品の創作・普及、及びホールへの楽器の設置が進んでいない」という問題提示がなされた。佐々木氏によると、西欧諸国での状況とは異なり、日本における「オルガン(文化)は、教会とは別に発達した」。しかし、フロアからの質問でも触れられたように、キリスト教という宗教的背景とこの問題とは無関係ではないとも考えられる。これらの点を詳察したさらなる報告が待ち望まれる、興味深い問題を提起した大変貴重な発表であった。
●研究発表③
アメリー・ノートンの自伝的小説と日本
発表:バルセロナ自治大学院生 吉本由江
報告:九州大学大学院博士後期課程 大山智徳
アメリー・ノートンという日本ではあまり馴染みのない小説家の自伝的小説を「日本性」をキーワードに論理的に構成された完成度の高い発表であった。
いくつかの作品は日本語に翻訳されているとのことだが、私は彼女の作品はもちろん、名前さえも聞いたことがなかった。
そのことを十分理解された上で、作品の大まかなストーリーと彼女の使った技法(私小説でもなく~、自伝でもなく~)を説明されながら緻密な読解を展開された。
作品はまさに自伝「的」でありながら大胆なフィクションも交えるという方法に支えられている。ストーリーは彼女自身の再構築されたライフ・ナラティヴで構成されているという。内容のみならず、こうした方法意識で切り開かれた言説に触れたいと思ったのは私一人ではないだろう。
発表者のノートン読解は小説の構造への新たな亀裂を生じさせた。それは「トポロジー」の概念にこめられた思いにも表れている。
内容とともに「私=語り手=主人公」という日本固有の私小説の構造を意識しつつ、プラスフィクションという構造をもたらしたノートンの小説形式に新しい文学構造を見られたからであろう。
論文として発表されるのが待ち遠しいすばらしい内容であった。個人的には発表者によるノートンのすべての作品の日本語の翻訳をしていただきたいと思う。
今後のますますのご活躍を期待したい。
●特別講演
美術館の危機管理 -東日本大震災を踏まえて-
発表:宇都宮美術館学芸課長 浜崎礼二
報告:ふくやま美術館 谷藤史彦
本年3月11日の東日本大震災の甚大さは、身をもって体験しないとわからない部分がある。今回は、宇都宮美術館の管理職として震度6強という想像を超える地震を体験した浜崎礼二氏の体験談と、そこから得られた貴重な教訓を聞くことができた。
まず、当日の宇都宮美術館の状況から話を始めた。
「関東地方は地震が多いので、地震対策は日常的にできていた。最初の小さい揺れが次第に大きくなり、学芸員室の本棚から全ての本が落ちた。すぐに展示室に行き、お客さん(50人程)を中央ホールに集めたが、皆さんは腰が抜けて動けない状態だった。いつもの通りには何もならないと感じた。外への避難も、各々のお客さんの状態が違うので、何度も往復して誘導しなければならなかった。
そのうち停電になったが、展示室などの作品の状況を見て回った(詳細なチェックはそもそも無理)。作品が落ち、スポットライトが外れていた。館内放送を一度したが、二度目はできなかった。全職員の確認もできなかった。
2回目の地震が来て、職員も外に避難した。市内の信号は消えているようだった。地震の情報はほとんど掴めなかったが、携帯のインターネットだけが通じ、多少の情報がとれた。午後4時頃に全てのお客さんが帰った。ケガをした人がいなかったのが幸いだった。消防車も救急車もすぐには来られない状況だったからだ」
この大震災の直後、今までの危機管理体制を根本的に見直す必要に迫られたという。避難マニュアルを更新した後に何度も地震があったが、避難はスムーズに行くようになった。非常時には連絡手段が断たれ、上意下達の命令系統は崩れてしまうので、それぞれの職員が現場で自主的に判断して迅速に避難誘導するようにしたという。
また、美術作品の保全の問題についても次のような報告があった。
「落下した絵画は額縁を損傷した。ヒートンは直角に曲がり、ワイヤーで拝み止めをしていない作品は、1点吊りとなり大きく振れた。収蔵庫の絵画ラックの長いS管は、大きく振れ、危険だった。彫刻は、腰に紐を回して壁に結び付けたものや、群像の間に緩衝材を入れサラシで巻いていたものは、無事だった。箱に入った作品も安全だった。その後、絵画ラックの作品は、下のほうを紐で固定するようにした」という。他館からの情報によると免振台やEQガードは有効だったとのことだ。
こんな大震災の後、福島県立美術館のジブリ展で4万人以上の入場者を集めたようだが、そのニュースに光明を感じたと述べたのが印象的だった。
〈インフォメーション〉
●美術展
★杭谷一東 彫刻展「水の神とあそぶ。」
会期:10月8日(土)~16日(日) 10時~20時 会期中無休
会場:アシダ画廊(東広島市西条土与丸3丁目4-12 TEL082-423-9536)
広島県世羅群世羅町に生まれる。円鍔勝三氏に師事。1962年に日展に初入選、以後、連続8回入選。1969年にイタリア国立アカデミー彫刻科に入学。その後もイタリアを拠点に制作を続け、世界的な数々の賞を受賞。瀬戸田町にある耕三寺に 白い大理石の庭園「未来心の丘」(5000平方メートル)を制作したことでも知られている。
★堀 研 スケッチ展「イタリアの風」
会期:10月26日(水)~11月1日(火) 10時~17時(土・日曜日は16時まで)
会場:広島市立大学芸術学部資料館5階展示室 TEL082-830-1507 入場無料
広島市立大学芸術学部油絵専攻の堀 研教授が2004年、2007年、2010年にイタリア古美術研究旅行で学生に同行した折、自由時間にスケッチしたパステル、水彩、鉛筆スケッチから厳選した40点あまりを展示する。10月29日(土)、30日(日)の両日、13時から、作家によるギャリートークが実施される。また、29日は市立大学ミニ・オープンキャンパスも実施中で、この機会に是非、お立ち寄りくださいとのこと。
★第12回 創手人展
会期:11月1日(火)~6日(日) 9時~17時
会場:広島県立美術館 県民ギャラリー 入場無料
創手人(つくりてびと)染めグループは平成元(1989)年に発足し、23年間平成と共に活動してきた。幅広い染色表現を模索し、隔年の展覧会では毎回異なるテーマでインスタレーションを制作している。今回展では、紙布を素材とした草木染めのタペストリーを発表する。
★ウクライナの至宝 スキタイ黄金美術の煌き
ロシア皇帝を魅了した黄金の民――ウクライナを駆け抜けた遊牧民戦士スキタイ。
会期:~11月13日(日) 会期中無休
開館時間:9時~17時(金曜日は20時まで開館)
会場:広島県立美術館
入館料:一般1200(900)円、高校・大学生800(600)円、
小・中学生600(400)円。( )内は前売り・団体料金
★第3回 吉富蔵 ART展
会期:11月7日(月)~18日(金) 10時~16時 入場無料
会場:賀茂鶴酒造(株) 吉富蔵敷地内(東広島市西条土与丸2-7) 駐車場あり
連絡先:事務局・大成大輔 TEL090-2860-7216
★秋期特別展「高島北海とアールヌーボー」展
会期:前期 ~10月17日(月) 後期 10月19日(水)~11月28日(月)
開館時間:9時~17時(入館は16時30分まで)
休館日:毎週火曜日
会場:第1会場「三之瀬御本陣芸術文化館」 第2会場「蘭島閣美術館1階」
(いずれも所在地は呉市下蒲刈町三之瀬)
入館料:一般1000円、高校生600円、小・中学生400円
●コンサート
3周年記念公演
★東アジアの現代音楽祭 2011 in ヒロシマ ~日本と中国の作曲家の現在~
日時:2011年10月22日(土)
会場:アステールプラザ・オーケストラ練習場
1.トークセッション(17:00~17:45)<中国と日本における現代音楽の現状と展望>
2.コンサート:現代の室内楽作品展(18:00~20:00)一般2,000円 学生1,000円
日本、韓国、中国をはじめ東アジア諸国の文化・芸術の潮流に触れ、“多文化社会と共生”の相互理解のもとに、現代の室内楽作品展を開催。招待作曲家として福士則夫(日本)、ZOU Xiangping(四川音楽学院)、CHAN Ming-Chi(上海音楽学院)を、また招待演奏家として福田輝久(東京・尺八)を招聘。日本と中国の若い作曲家と広島の優れた演奏家とのコラボレーションも“見どころ、聞きどころ”。 (音楽監督:伴谷晃二)
●新刊本
原田佳子『厳島の祭礼と芸能の研究』
(A5版 496頁)芙蓉書房出版 7500円(税込7875円)
<概要>
厳島と厳島神社の歴史・自然・文化財などに関する記述や研究は、極めて多い。平安時代の古文書「厳島文書」、紀行文「高倉院厳島御幸記」をはじめ、『芸藩通志』などの地誌や案内記、近代以降は、歴史や建造物・宝物・弥山原始材の自然などに関する数多くの研究や出版物がある。
しかし、厳島信仰と深く結び、神社の中心的活動である「祭礼」と、祭礼に伴う「芸能」
については、今まで本格的な研究がされていない。「祭礼」は行為であり、「芸能」は視覚的聴覚的、瞬間的芸術なので、文字や形として残らないので研究が困難なためと考える。
従って本書は、室町時代から江戸時代にわたる厳島神社の年中行事の記述の中に、祭礼と芸能を探り、現在のそれと比較検討し、総合的体系的に研究、長年の現地調査と文献調査によってまとめている。
2編12章から成り、第一編は江戸時代に「大小百余あり」と言われ、現在は年間60余
度ある祭礼行事の内容と変遷、祭礼に伴う芸能の変遷を述べている。第二編は平家の時代から八百数十年の歴史を持つ「舞楽」と「管弦」の招来、歴史と現在、四百数十年の歴史を有する「神能」の起源、歴史、内容と現在を、各々曲目・場・装束などの文献と造形資料を交え、多角的に論じている。また、明治初年の神仏分離と神社制度の変革、社会変動によって失われた芸能「神楽」「東遊」「延年」の歴史と内容のほか、神社周辺の厳島の芸能「宮島おどり」「宮島歌舞伎」の由来、特色、内容と現状などを記している。
本書の特色は、厳島の祭礼と芸能に関する造形資料の収集に努め、図絵や写真(図版208点、うちカラー47点)を多用し、視覚的に捉え、具体的に論じている点であろう。また、これまでの厳島研究に根源的な研究を加え、厳島の芸能を日本の芸能史の中で捉えたことは、今後の研究に示唆を与えるものであろう。
本書は、神とともに人びとが楽しみ和合する芸能の意味と価値を明らかにし、現在、年間300万人を超す来島者や、広く多くの人に、厳島が永く広範な階層や地域の人びとの信仰を集めてきた理由、日本の知恵と特性を考えさせる。
第113号
広島芸術学会会報 第113号
斎藤稔先生 瑞宝中綬賞 受賞のお知らせ
斎藤稔 広島大学名誉教授・広島市立大学名誉教授が、平成23年春の叙勲者に
選ばれ、西欧美術史並びに芸術学を基軸とする一連の研究業績に対し、瑞宝中綬賞を授与されました。先生は、広島芸術学会の設立当初から委員、またアドバイザーを歴任され、指導的役割を果たしてこられました。先生のご受賞は本学会にとりましても、まことに名誉な慶賀すべきことと思われます。ここに先生のご受賞に祝意を表しますと共に広く会員の皆様にお知らせいたします。
以下、先生の履歴と功績を簡単に記します。
略歴
1931年、東京生まれ。早稲田大学大学院博士課程修了。ミュンヘン大学、ミュンヘン国立美術史中央研究所留学を経て1965年、玉川大学文学部に奉職。1980年、広島大学学校教育学部教授、1987年、広島大学教育学部教授を歴任。1995年、山形大学教授。1997年、広島市立大学国際学部教授、同芸術学部大学院芸術学研究科教授。2003年、東北文化学園大学東北文化研究所教授。現在、広島大学名誉教授、広島市立大学名誉教授、アルス・ウナ芸術学会会長。
功績概要
ドイツ中世を中心とする西洋美術史の専門家として学問的経歴を開始。その後、長年にわたり西洋美術史と芸術学に関する重厚な人文学的研究を展開したこと。その研鑽を基礎に比較芸術学および比較文化学に関する国際的共同研究の確立・展開に寄与したこと。芸術文化の比較学に基づき、平和や都市やエコロジーの問題等に関する芸術学的認識に尽力したこと。以上の学問的業績が高く評価されてのご受賞です。
代表的著作
『美と知の饗宴―アルス(芸術)の真実を観る―』1997年、大風印刷
『人文学としてのアルス ―西洋における人文主義的藝術の系譜―』1999年、中央公論美術出版
『比較芸術学研究』全6集(共著)1974-1981年、美術出版社
『芸術学研究双書』全4巻(共著)1984-1987年、玉川大学出版部
『芸術文化のエコロジー』(編著)1995年、勁草書房
(以上、文責 青木孝夫)
第95回例会報告
西原大輔
2011(平成23)年5月29日(日)におこなわれた第95回の例会は、「井原線沿線の歴史と文化を訪ねる旅」と題した見学会だった。華鴒(はなとり)大塚美術館、造り酒屋天寶一の美術コレクション、廉塾、菅茶山記念館、ふくやま美術館の5か所を一日でめぐる充実した小旅行となった。
台風2号が近付き、前日から雨が降り続く中、広島駅新幹線口に集合した一行10余名は、午前9時にマイクロバスで山陽道を一路福山方面に向かった。最初に見学したのは、岡山県井原市の華鴒(はなとり)大塚美術館である。タカヤグループの社長大塚長六氏が1994(平成6)年に作ったこの施設は、展示室が3つほどの小さなものだったが、ロビーからは手入れの行き届いた美しい日本庭園を見ることができた。また、美術館は上田宗箇流の茶道に力を入れており、当日も茶席が設けられていた。この日は堂本印象展の最終日ということもあって、大変賑わっていた。
再びバスで移動し、神辺町湯野の池に面した洒落たレストランで昼食をいただき、改めて神辺の造り酒屋天寶一に向かう。ここではご主人のご好意で、所蔵するコレクションを拝見することができた。仕込みの樽が並ぶ中を通り抜け、裏の建物の2階に上がると、そこには小林和作や須田国太郎の作品を展示する部屋があり、陶磁器も多く並んでいた。小林和作の海の絵や、須田国太郎の雲崗の石仏を描いた作品が印象に残った。
ご主人によれば、須田国太郎は戦後しばしば天寶一に滞在し、絵を描いたという。その縁で、須田が描いた天寶一の先代の肖像画なども大切に保管されていた。造り酒屋にお世話になった須田だが、お酒はあまり飲めなかったそうである。天寶一のコレクションは、地方の素封家が画家を大切にもてなしていたことをうかがわせる貴重な作品群である。
神辺では、江戸時代の漢詩人菅茶山の黄葉夕陽村舎(廉塾)、そして菅茶山記念館を見学した。江戸時代の塾の建物がそのまま保存されており、西国街道の宿場でもあったこの町の文化水準の高さが印象に残った。神辺は、京都で活躍した日本画家金島桂華の故郷でもあることから、菅茶山記念館には何点か桂華の作品が展示されていた。また、最初に訪問した華鴒(はなとり)大塚美術館でも金島桂華の絵画を目にすることができた。
最後に訪れたのは、福山駅前のふくやま美術館である。学芸員谷藤史彦さんの案内で、一行はまず応接室で須田国太郎のスケッチ帳を見ることができた。大阪の大槻能楽堂で描かれた40枚ほどのクロッキーで、能の西王母や関寺小町、狂言の蛸を、観客席で短時間に写し取ったものだった。また、須田が神辺の廉塾を描いた油絵も拝見することができた。
ふくやま美術館では、企画展「森村泰昌モリエンナーレ、まねぶ美術史」を鑑賞し、午後5時の閉館時間まで滞在した。
朝から降り続ける雨の中、マイクロバスは午後7時頃に広島駅に戻り、一日の充実した行程が終了した。
(にしはら だいすけ・広島大学)
<寄稿①> ビューイングルーム ―魅力的な現代アートの別世界―
広島女学院大学名誉教授 原田佳子
去る5月31日(火)、芸術学会会員ほか数名の一行は、元広島市現代美術館副館長の竹澤雄三さんの紹介で、ビューイングルームを訪れた。2003年頃、倉庫を改装、以来、年数回、現代アートの展示をしているという。
倉庫の扉を入り、真っ白い天井と壁から成る展示空間に、一歩足を踏み入れ、立ち止まった。「え? ここは何処?」1980年代に初めて一人でニューヨークを訪れ、ソーホー(South of Houston Street)に住む画家のアトリエを訪ね、ギャラリーを観て回った時の興奮が蘇った。あの時の白いペンキを塗っただだっ広いギャラリーの壁面には一点、ジャスパー・ジョーンズの作品が掛けてあったのを鮮明に思い出した。そして、30年振りに現代アートの最先端の場に身を置く、歓喜ともいえる昂りを憶えた。
「ここは一体、何処?」ニューヨークじゃない。ヒロシマだ。わが家にも近い安佐南区の西原だ。大発見にうれしい驚愕の一瞬であった。
現代アートコレクター、佐藤辰美さんのことは、昨年7月の朝日新聞「be」のフロント・ランナーで紹介されていた。佐藤さんは、「自分流」を貫く世界的収集家と記されていた。ドイツ現代美術界の巨匠、ゲルハルト・リヒターや、「影」シリーズで脚光を浴びた前衛画家、高松次郎、コンセプチュアルアーティストの先駆者、河原温の作品をはじめ、若手アーティストの作品約2万点を収集。660㎡の倉庫を改装した私設美術館「ビューイングルーム」で、2004年から非公開の企画展を開催しているという。
佐藤さんの本職は、地元広島市に拠点を置く自動車部品の製造・販売をする会社、大和ラヂェーターの経営者である。26歳の時の古伊万里収集を手始めに、以後、中国の古代裂、俑などの古美術や骨董品、世界各地のプリミティブアートなどを幅広く収集してきた。30代前半、現代アートの面白さに目覚め、収集歴は30年に及ぶ。また同時に、「現代美術の研究」を目的として企画展のカタログなど、40数冊のアートブックを制作・出版している。「自分のための企画展」のカタログ、作家のための作品集というそれらのアートブックは、実は、コレクターや作家の思いを広く世間へ伝える窓口になっていると思われる。
さて、このたびの企画展は陶芸作家、大島文彦の作品展であった。大島は前衛陶芸家、八木一夫の流れを汲み、やきものの既成流通を批判し、自らを器屋と称している。金属、やきもの、さらに織物などの素材を用い、変化に富んださまざまな造形に施した「錆」が、何とも美しい。「錆は最高の塗装」と言われるが、現代アートに日本的な「侘」「寂」にも通じる「錆」の深い味わいを取り込み、絶妙な美を表現している。
それにしても、見事な展示技術である。作品の美を最高に引き出した現代アートの展示空間に感動した。佐藤さんは、「アートから刺激を受けるのが人生の喜び」と言う。
われわれにとっても、大いに「刺激」と新鮮な感動を受けた一時であった。
<寄稿②>パンダの国から「大キリン」(前半)
広島大学 袁 葉
(一)
風雪の中、日本の救援隊員が被災者を抱きかかえながら瓦れきの上を歩いてくる―近景は白い雪、その向こうには橙色のユニフォーム。厳寒の中にも暖かさ、力強さを感じさせられる。春休みの3月20日、里帰りした北京の実家での夕食後、テレビに浮かび上がってきた画像だ。
次は、一面廃墟と化した古里を呆然と見つめる女性の横顔。青空の下、本来なら彼女は庭で草木に水を撒いていたかも知れない。いや、魚屋で魚をさばいてもらっていたかも…
セリフはない。ただ一枚また一枚、ゆっくりと画面に現われては消えてゆく… 救出した赤ん坊を抱いた消防士の笑顔がフェイドアウトすると、スライドショーは終わった。悲壮感の漂う画像、静かに流れる音楽が私の心を震わせた。
画面はスタジオに戻り、「震災十日間」と題した北京放送局の特別番組の最中だと分かった。聴衆を前に司会者、ジャーナリスト、評論家によるトークショーが行われている。
「津波が来ます。早く逃げてください!」と、スピーカーから流れる遠藤未希さんの声。25歳の若い命を奪われるまで放送し続けていた。スタジオで再生された雑音交じりの音声に、涙を拭く聴衆の顔… 司会者のコメントが続く。
「私も人々に言葉で伝える仕事をしています。いざ危機に瀕した時、果たして彼女のように仕事を全うすることができるだろうかと自問していますが、なかなか答えが出ません。だから、彼女の勇気に心より敬意を表します。」
静まり返った会場に、遠藤さんへの大きな拍手が湧き起こった。
話題は原発事故直後の修復作業に赴く50人の作業員に移った。あと半年で定年となり、悠々自適の人生が待っているというのに、自ら志願したある消防隊員。娘からのメールが紹介され、「…父の決断を誇りに思います」と読み上げられると、再び大きな拍手が起きた。
防護服に身を包み、顔も知られず、名前も言わぬ。人類のために勇敢に戦う彼らのことを、中国のマスコミでは「福島五十勇士」と名付けた。「…この同じ地球の同胞に、敬意を捧げご無事を祈りたい」というジャーナリストの一言に、目頭が熱くなった。
番組を見終わると、中国の友人からの話を思い出した。
震災直後の数日間、中国で見たNHKの報道。日本のアナウンサーが、淡々と事実を述べようとする姿に新鮮な感じを受けたという。なぜなら、08年の四川大地震の時、最初の二日間はテレビを見るたびに、現地で惨状を伝える報道陣のコメントに涙を流さずにはいられなかった。両国の報道の仕方は、かなり違うという友人の感想。
また、さっきの番組で、叙情的に流れるスライドショーから、「静」の中に秘めた制作者の情熱が感じられた。もちろん、それは自国で起きた惨禍ではないという余裕のある番組作りなのかも知れないが、事実を述べた後のコメントも、それに応える聴衆の反応も、やはりストレートだと感じられる。
(続きは会報114号に掲載します)
第112号
広島芸術学会会報 第112号
「タスマニアの性と死と生 ~新設美術館MONAから浮かび上がるもの」
山下 寿水
本年1月21日、オーストラリア大陸南東に浮かぶタスマニア島に、ユニークな美術館が開館した。MONA(Museum of Old and New Art)と名付けられたその美術館は、文字通り「古代のアート」と「現代のアート」が展示室に併置されているという特色を持つ。
筆者は既に2月9日付の中国新聞にて、MONAと、同館所蔵の岡部昌生の作品《タスマニアのヒロシマ》について記したが、新聞紙上に載せるには忍びなくて割愛した「大人のディズニーランド」と呼ばれるMONAの一面について、ここでは紹介したい。
MONAは、数学者であり、ギャンブラーであり、アート・コレクターという、希少な肩書きを併せ持ったタスマニア出身の資産家、デビッド・ウォルシュによって建てられた。展示作品は「性と死」をテーマに掲げて蒐集されており、それらは眼を背けたくなるほどの暴力的な空間を生成していた。
例えば、ヴィム・デルヴォイエによる、食物を体内で消化する過程がガラス容器の中で再構成された人糞製造機《クロアカ》は臭気を撒き散らし、はたまた、ヤニス・クネリスによって吊り下げられた動物の肉塊は、今まさに血がしたたり凝固している様が視界に入り、動揺を誘う。
他にも、石膏で象られた数百人分の女性器、数体のミイラなどが連なり、(美術館が地下に建造されていることもあり、)「アングラ」という言葉を自然と想起させた。
それらの凄惨な展示室を抜け、地上出口へと繋がっているトンネルを通ったところに、岡部昌生の作品が設置されている。暗き地下から、光溢れる地上へ出たことも相まって、不思議と岡部の作品には暖かみを感じた。無論、岡部の作品は、旧国鉄宇品駅のプラットホームとして使われていた被爆石を用いたもので、そこには死者の歴史が堆積してあり、明るい作品とは言えない。しかし、そこには確かに「希望」があった。
岡部は「タスマニアの光に影響された」と語り、普段とは異なり、煌くような数色のクレヨンを用いて被爆石の表面を紙に転写していた。ちなみにMONAでは誰もが被爆石に触れてフロッタージュが出来る。数々の人がヒロシマの歴史に触れながら、フロッタージュという行為の魅力にとりつかれていた。そう、岡部の作品は「重い」テーマを背負っているが、フロッタージュ自体は原初的な「楽しい」行為でもある。「死と性」をテーマとした美術館だからこそ、逆説的に「生」というテーマを強く思い起こさせる印象を受けた。
(やました ひさな・広島県立美術館学芸員)
第94回例会報告
研究発表①
歌舞伎の再評価と花柳界における芸能の現状
発表:広島大学大学院社会科学研究科博士課程 中岡志保
報告:エリザベト音楽大学 馬場有里子
中岡氏の発表は、歌舞伎と花柳界という芸能の世界を対象に、前者と後者の歴史的経緯を重ね合わせつつ、特に後者の現状について文化人類学的見地からの調査・報告と検討を行うものだった。テーマ自体の新鮮さに加え、発表者自身が過去に花柳界での実際の経験をお持ちであるということから、実体験をふまえていてこその説得力もある、とても興味深い発表であった。今日ではユネスコの世界無形遺産として登録されるほど、伝統芸能としての揺るぎない地位を確立した歌舞伎は、江戸期の、性売買の要素が絡むこともあった芝居小屋の芸能的なものから、明治の近代化を経て現在のあり方へと変化してきた(文明開化で舞台に明るい照明が使用されるようになったことが意識の変化につながった、という指摘は、非常に面白い)。一方の花柳界─語義や定義は様々のようだが、中岡氏によれば「東京の料理屋、待合、置屋が一緒になったもの」─は、娼妓と芸妓の入り混じった状態から、やはり近代化・西欧化に合わせて芸妓・芸能として分離していく道を歩み、近年では「をどりの会」の開催に観光協会や日本芸術文化振興基金の後援も得ている。
あまり知ることのない花柳界の内実を垣間見せてもらえた貴重な発表であったが、歌舞伎は大舞台での演技になることで客との距離感が遠くなっていったが、花柳界にも同様のところがある、とする「失われたもの」への中岡氏の視点も興味深く感じた。
研究発表②
藤原佐理筆書状《頭弁帖》について
発表:ふくやま書道美術館 髙橋哲也
報告:ふくやま美術館 谷藤史彦
髙橋哲也氏の発表は、特定の書跡作品の研究であるが、広島芸術学会における初めての書道史の研究発表でもあった。重要美術品である藤原佐理(すけまさ)筆書状《頭弁帖》(現在、ふくやま書道美術館の所蔵作品)の書道史における位置づけを研究したものであった。
平安時代中期の和様の書風が確立されていく、小野道風、藤原佐理、藤原行成の三蹟の展開のなかで、これまで佐理の作品については国宝《詩懐紙》、同じく国宝《離洛帖》を中心に歴史的意義や作品研究がなされてきた。髙橋氏は、このなかで《頭弁帖》における書風を、温雅で線に厚みのある骨格とし、小野道風から摂取した表現に王羲之の書法が看取されるとした。さらに《頭弁帖》の最晩年54歳の書の特徴を明確にするため、《離洛帖》の壮年46歳の書との比較検討を進めた。たとえば「事」という文字について、《離洛帖》では速筆で右上がりのため緊張感がありシャープな印象を与え、《頭弁帖》では遅筆で右に緩やかに傾斜しているため、ゆったりと穏やかな印象を与えるとした。つまり、《頭弁帖》は晩年において奔放闊達で颯爽とした人間味溢れる書風を確立した書であり、佐理の人生を総括する書であったと位置づけた。
髙橋氏の発表は、理を詰めて、明確に進められたが、書についての発表が初めてだっただけに、聞く側に予備知識などを含めて戸惑いが多少見られた。今後の発表では専門的な用語・技法などに関して、もう少し説明を加える工夫が必要かもしれない。
研究発表③
美への追究――岡崎義恵の「日本文芸学」をめぐって
発表および報告:皮 俊珺(天津外国語大学 日本語学院)
2月18日、まだ雪が積もっている金沢(客員研究員として昨春から滞在中)から暖かい早春の広島に到着した。わくわくして2月19日に広島芸術専門学校で開催された広島芸術学会第94回例会に出席し、予定通りに「美への追究――岡崎義恵の「日本文芸学」をめぐって」という題で発表させていただいた。
岡崎義恵の提唱した「日本文芸学」は、その当時の正統の権威たる国文学と一致している訳ではなく、美学を基礎にして、日本文芸を研究しようとする学問である。そういうところに惹かれて、「日本の文芸学」ではなく、「日本文芸の学」についての勉強と研究をはじめた。岡崎義恵の名前と研究は、現代では余り知られておらず、時代遅れに聞こえるし、正直に言うと、もうまったく注目されていない領域かもしれないと懸念していた。
発表してみると、意外に皆さんがとても熱心に聞いてくださり、発表内容にも関心が集まって、美学と文学の面にわたって、質問も意見もいくつかいただき、大変勉強になった。岡崎が日本文芸に関連して研究した「哀れ」と「をかし」を西洋美学の「悲劇」と「喜劇」に当てはめられるか、また、「哀れ」を重んじながら、「をかし」をも絞りだし、それぞれ日本の美的範疇の正面、背面の対照で考えるのはどう評価すればよいかとの質問が寄せられたり、「日本文芸学」の基礎学とされた美学について、関係深いドイツ美学のことを聞かせていただいたりした。「哀れ」と「をかし」については、その姿を変えても日本の文芸の歴史を相補的に貫いていることを指摘し、後者のご指摘に対しては、ドイツ文芸学の影響についての認識不足を自覚すると共に、中国で多用される「文芸美学」については、1960年代に始まる中国の「文芸美学」の研究現状を紹介し、ドイツ由来の概念と名称は似ているが、そうとは簡単に言えないことなどを説明した。
日本文芸学を掲げた岡崎義恵が、方法としては普遍的な哲学的美学を基礎に、日本文芸を国際的な観点から研究することに努めたと理解してきたが、その場で各研究者からのいろいろな質問と感想を聞いて、岡崎義恵が、戦後のみならず現在でも日本文芸の独特性を強調する民族主義者として一面的に誤解される面があることを改めて実感した。
今後は、多様で貴重なご意見・ご指摘を踏まえて、できれば上記の誤解の解消のためにも、小論を修正し、公表したいと思う。今回の研究発表が、まことに貴重な学問的交流の機会となり、裨益されましたことを深く感謝いたします。
特別講演
私と広島/ヒロシマ
発表:広島大学名誉教授 水島裕雅
報告:広島大学名誉教授 嶋屋節子
水島氏は1972年に広島大学に着任し、定年までの34年間、比較文学と日本語教育の分野で研究を深めると共に、国内外の学生を熱心に指導された。定年後も「広島に文学館を!市民の会」の代表を続け、念願の実現に努めた。この後、染色芸術家の夫人と「笙の笛」作家の子息と共に、千葉県東金市に各自のアトリエを備えた新生活が始まるとのことだ。
氏の回想は1942年初秋に誕生した東京都平河町から始まり、1945年の早春、父方の故郷岡山の田舎に疎開し、そして8月6日の朝、ヒロシマ方面の空高く、あの「きのこ雲」を見たという。そしてこの幼児の記憶が氏と広島を結び付ける縦糸の発端であると。偶然の縁として、氏は堀辰雄を思い出す。辰雄の父は広島藩士の出自で、水島宅と同じ平河町に住み裁判所に勤務していた。辰雄は1904年、妾腹で生をうけ、堀家の嫡男となっている。
氏は、大学時代を通し、フランスの象徴派詩人(ボートレール、マラルメ、ランボーetc.)の研究から、日仏比較文学の視点で修論では堀辰雄を取り上げた。この比較文学の課題を背負って広島に着任した氏の研究課題に、やがて必然的に加わる作家が待っていた。原民喜である。その発端は、1981年7月15日から1週間、原爆資料館での平和祈念事業の際、民喜の文学資料展が開催され、その準備に加わったことだ。その時、民喜の数ある資料の中に一冊の手帳が目に止まった。それは、民喜が自宅で被爆後、延焼を逃れて外へ出た道すがら目にした惨状の記録であった。この精確なメモ帳は後の『夏の花』へと昇華した。さて、この手帳に水島氏が「衝撃を受けた」と熱く語ったとき、この出会いは氏には必然的絆だったと思えたはずだ。かくして原民喜は氏の比較文学研究の中に根付き、事実また、氏の徹底性は民喜の全作品の精読と並んで、この作家に関する資料の収集へと向かった。
氏が民喜の作品から得た画期的な着想は「青空」のモチーフである。その成果は、1995年秋、『青空』-フランス象徴詩と日本の詩人たち-と題する著作(木魂社)として世に出た。また、我らが『芸術研究』(1995年、第8号)にその[第4章 原民喜の青空]が転載されている。民喜の全作品には「青空」が89例使われており、この視点から、民喜も親しんでいたフランス象徴詩人と新たに比較検討し直した画期的な研究である。この視点での研究成果を氏は折ある毎に発表し、大きな反応を得た。1991年国際比較文学(東京)では「滅びのヴィジョン-原民喜とフランス象徴主義-」、1994年にはワルシャワの国際日本研究シンポジウムで「日本文学における青空のイメージの変遷」、ほか多数。
水島氏は[ヒロシマ]が世界に誇る原爆文学と資料を纏めて展示できる[文学館]設立に心血を注いだ。氏の発表の8割はその市民運動の時系列的説明であった。1987年、広島大学長・沖原豊氏を代表とし、50人を発起人とする要請が荒木市長に提出された。2001年1月1日を機に、水島氏を代表とする[広島に文学館を!市民の会]が結成され、1月26日付で秋葉市長宛に要望書を渡したが、10年余の折衝も「糠に釘」であったようだ。しかし、その間に文学資料は3万点余集まったが、これは中央図書館の一角で休眠中らしい。
[報告者からのお願い:水島氏の文学館設立運動についてはパソコンの(水島裕雅)でぜひ検索して戴きたい。]
★例会後、千葉に転居された水島裕雅氏からお便りが届きましたので、ご紹介します。(事務局)
3月初めに千葉県東金市に移り、10日もしないうちに今回の東日本大災害に遭いました。私のいる東金は震度5強でしたが、幸い今のところ大きな被害を受けずにいます。しかし、近くの九十九里沿岸は津波にやられ、死者や床上・床下浸水や土地の液状化などの大きな被害を出しています。いまだ余震が続き、震度3や4の余震は毎日のように、時々震度5の強い余震にも揺すられます。最近も震度5の余震があり、地元のJRは止まりました。また福島原発の事故も先が見えず、東日本の人々は不安な日々を過ごしています。この先1年どころか数年この状況が続くと予想する人もいて、なかなか日常の生活にもどるのが難しいようです。
今後当分の間、東日本は沈滞するでしょう。西日本に大きな災害がなく、東日本の分以上に活躍なされることを祈ります。 また、皆さまのご健勝とご活躍を祈ります。
水島裕雅
寄稿① コンサートについて
二つの復興〜「ヒロシマ・音の記憶Vol. 2 」開催に向けて〜
広島大学 能登原由美
千年に一度と言われる大災害、それによって生じた放射能汚染の脅威がいまだに続く中、復興という言葉にはすっかり耳慣れてきた。けれども、その言葉を口にする重みは、被災地にいる者とそこから離れた場所にいる者によって大きな隔たりがあるにちがいない。66年前、やはり一瞬にしておびただしい生命と日常を根絶やしにされてしまった広島についても同じではなかっただろうか。今それを振り返るのもまた同じであり、半世紀以上の時間的な隔たりがあるからこそ広島の「復興」について何かを語ろうとするが、当時においてはただ「生きる」ということの積み重ねだけだったのではないかと想像する。
奇しくも、昨年より準備を進めている「ヒロシマと音楽」委員会主催のコンサート「ヒロシマ・音の記憶Vol.2〜繋がり〜」(チラシ参照)のテーマは「広島の復興」である。つまり、被爆直後の広島を音楽によって活気づけようとした若者たち(広島学生音楽連盟)の活動の様子に焦点を当てた。コンサートではその活動を紹介するとともに、学校の垣根を越え音楽を通じて繋がっていた当時の学生たちの姿を浮き彫りにできるよう、現在の若者たちの新たな繋がりを試みる。
被災地からの遠さ、あるいは被災時からの遠さ、そうした空間的、時間的距離がもたらす当事者と第三者の精神的距離が埋まることは、おそらく永遠にないだろう。私たちは単に想像するだけである。それを承知の上で、今回のコンサートを企画した。想像が新たな創造に繋がればと願っている。
第111号
広島芸術学会会報 第111号
古典の肖像画について
三木 島彦
ドナルド・キーン氏によれば、渡辺崋山の描く肖像画は、精緻で写実的で、従来の日本の肖像画とまったく違う(2007年9月2日放送NHK日曜美術館)。歯を見せて笑っている武士(友人)を描いている点も、発想が当時の日本人にないものであり、ヨーロッパでも珍しいという。氏の論では伝統的な日本の肖像画である同時代の孝明天皇像との比較もなされ、よく分かり見事な論証であった。近世ヨーロッパの肖像画は、誰にもこれは絵だと分かるのだが、写真のように精細で、リアリティーの意味をそこに認めてしまう。
尊崇や追悼の対象として理想化するのではなく、生きている人間の個性を描き分けるという意味での肖像画は、日本では12世紀の後半「似絵(にせえ)」から始まった。細い線を重ねるスケッチ風の描き方で、今日の新聞に載る政治家の似顔絵にも共通する。『公家列影図巻』の貴族たちも57人が同じ衣冠束帯、ポーズも同じという繰り返しだが、顔はみんな違っており、その中に平清盛も登場する。僧体の木像とはイメ-ジが異なる。
鈴木春信や喜多川歌麿の描く町娘や美人画の女性を見て「みな同じではないか」と感じることもあるが、それでも描き分けている。歌麿の「当時三美人」で、三人の女性の顔(上半身)が三角形の構図で同時に描かれているが、難波屋おきた、吉原芸者の富本豊雛、高島屋おひさ、それぞれ目鼻立ちを微妙に変えている。気が強いとか、おとなしいとか、派手めの人であるとか、性格や人柄まで感じ取る人もいる。いわばアイドルのプロマイドだが、「リアリティー」という点で当時の人はこれで納得しており、喜んで買い求めた。
ひとは美化されたり、理想化されたものをまず見たがる。写楽についての同時代の批評でも「あまり真に画かんとしてあらぬさまにかきなせしかば、長く世に行なわれず、一両年に而止む」(『浮世絵類考』)とある。写楽の人物の特徴を捉えた誇張を含めての写実やリアリズムの意味が理解できる。歌川豊国、勝川春章らも写楽と同じく、人気の歌舞伎役者三代目瀬川菊之丞を描いているが、菊之丞らしい特徴など基本は守っていても、この女形を美しい娘、類型的な美人画の表現で描いている。明治になって、ドイツ人のユリウス・クルトが写楽をレンブラントやベラスケスと並ぶ優れた肖像画家として絶賛し、それが今日に至るまでの国際的な評価となった経緯が思い出される。
(みき しまひこ・フランス語非常勤講師)
第94回例会・研究発表のレジュメ
研究発表①
伝統芸能の再評価と花柳界の芸能の現状
広島大学大学院 博士課程 中岡志保
花柳界で三味線を柱として行われている芸能は、近年、いわゆる「伝統芸能」として扱われるようになってきた。この報告は、花柳界でのこうした芸能の位置づけの変容に注目し、調査データをもとに検討を試みるものである。
はじめに、花柳界の芸能と比較して歌舞伎について検討する。歌舞伎は今日では、日本の伝統芸能の主流とされるようになってきているが、江戸期には、遊所と芝居小屋は悪所と言われていた。開国後の近代化のなかで、明治20年に天覧歌舞伎が果たされたことに象徴されるように、権威づけが行われ、「伝統芸能」になっていったという歴史がある。
一方花柳界の歴史を見ると、維新後、新たに作られた新橋は、政府高官が利用したことから、一流の花柳界となっていく。大正期には舞踊のみで身を立てる者があらわれたことから、今日では花柳界のなかでも、客筋、芸能ともに一流と謳われている。
明治期は、売春を業とする娼妓を遊廓に、芸を持って興を添える芸者を花柳界にと、明確に区分されたものの、花柳界は陰で売春を行う芸者がいるとして、取り締まりの対象になっていた。花柳界へのまなざしは、相反するイメージを内包し、それが現在につながっている。
花柳界の芸能が日本の「伝統芸能」として注目されてきた今日、江戸期に生まれた悪所は、性的なイメージを排除し、芸能に権威づけられる方策を模索し、現代風に脚色した非日常空間へと変容しつつある。
研究発表②
藤原佐理筆書状《頭弁帖》について
ふくやま書道美術館 学芸員 髙橋 哲也
《頭弁帖》は平安時代中期の公卿・藤原佐理(九四四―九九八)が執筆した最晩年の書状である。佐理は当代随一の能書家として、『大鏡』の中でも「よの手かきの上手」、「日本第一の御手」と絶賛され、尊重された。しかし、本作品が代表作《離洛帖》とは筆致などを異にすることから、その比較によって後世の模写本とみる説もあり、成立背景や内容の研究が等閑視されてきた印象がある。そこで書風の特質および時代情勢を検証し、佐理の事績における《頭弁帖》の位置付けを明らかにすることを研究の目的とした。
まず書風の観点では、「一墨之様」と表現される温雅でしなやかな筆線と遅速緩急を交えた線質に着目し、小野道風から摂取した和様表現に、王羲之書法が内在することを指摘する。だがそれは単純な模倣や融合などではなく、佐理の廷臣としての経歴や奔放自在で闊達な人間性が生み出したものと捉え、本作が和様書流成立過程における重要な作例であると結論づける。また従来あまり着目されることのなかった用筆や墨痕の視点にも着目し、模写本説に対する見解も示す。
続いて、あらためて書状内容の解釈を行う。本作品の執筆年代について先行研究をもとに再検討した結果、佐理の上奏を抑留した人物が藤原行成であったことが証明される。また書状の宛先、上奏の真意など諸問題についての私論を述べ、《頭弁帖》が藤原佐理の生涯においてもきわめて重要な作品であったことを明らかにするものである。
研究発表③
美への追究――岡崎義恵の「日本文芸学」をめぐって
天津外国語大学日本語学院 准教授 皮 俊珺
文学理論は「文学とは何か」を構築するための理論であり、根本的な問いを探求するものである。日本では、昔から日本文芸に関する論説、たとえば、歌論・連歌論・俳論・物語論・能楽論・戯曲論のようなものが少なくなかったが、それらはほとんど文学作品の個別的なジャンルに対して行われた研究成果である。文学一般が対象とされて、系統的な理論や研究に至ったとは言えない。一方、周知のように、現代の文学理論は古代ギリシアの哲学者アリストテレスの『詩学』にまで遡ることができ、20世紀初頭におけるロシア・フォルマリズム、ドイツ文芸学、そして1930年代から40年代にかけてのイギリスやアメリカにおけるニュークリティシズムが本格的に取り組み始めたのだ。こういう意味では、もともとの文学理論とは、まったく西洋のものだと言えよう。
明治維新以来、西洋の哲学・文学・美学の著書が日本にたくさん訳されたり、紹介されたりするにしたがって、一般文学理論つまり文学の全ジャンルに共通の理論を研究するようになった。換言すれば、文学理論は、明治期の日本にとっては、舶来物らしい存在でしかなかったが、当時外来のものを学習し、日本文芸を個別に研究する以外にも、総合的な研究も増えてきて、より系統的にまとめられた日本なりの文学理論が確立されるようになった。
そのなかで、岡崎義恵の文芸理論(「文学」をいわず「文芸」を提唱するのはそれなりの理由がある)は注目に値すべきである。それは西洋の文学理論を受け入れながら、美学を基礎とする様式論的研究を企図して、独創性に富んだものであり、正面の「哀れ」に対し、背面の「をかし」をも強調しながら、日本文芸の美的範疇を模索してきたものである。
例会後の懇親会について
広島芸術学会の創立以来、長年学会のお世話をいただいております水島裕雅委員が、3月より千葉県に転居されることとなりました。つきましては例会後、懇親会と兼ねまして、水島先を慰労する会を開きたいと思います。多数ご参加いただきますよう、お願いいたします。
第93回例会報告
正月例会「春を寿ぐ」
(1月18日午後6時半から8時半、於懐石料理「豆匠」)
金田 晉
比治山の麓、市内電車道から少し奥まったところに懐石料理「豆匠」がある。都心にあるとは思えない閑静な料亭であり、玄関を通されて廊下を幾度も折れ曲がって美しい日本庭園を横目にしながら奥へ進むと、広い座敷がパッと広がる。そこで例会が開かれた。
参加者18名。20年以上前の、まだ広島芸術学研究会とよんでいた頃の旧い仲間や今回入会したばかりの新人も加わり、新春に相応しい集いであった。豆匠自慢の新年用会席料理を賞味しながら談論を愉しむアッという間の2時間であった。通例の例会のあとの懇親会とはまた違う雰囲気であった。
初めに金田がトップバッターとして、「正月」を、暦(こよみ)の方面から話した。太陽暦をそのまま受け入れているヨーロッパでは、正月は単なる1年の年代記的始まりにすぎない。だが世界の人口のほぼ半分が集まっているモンスーン気候帯のアジアでは、旧正月元旦(今年は2月3日)には特別の意味がふされ、現代でも大変な賑わいとなる。戦後高度成長下で日本の正月はますます形式化する傾向にあるが、日本の生活文化の継承のみならず、文学や美術や伝統文化の古典を理解するためにも、太陰太陽暦(月と太陽の暦)をもっと大事にしたい。バイカレンダーで実質をともなう正月を取り戻したい、そう話しを結んだ。
しばらくの団欒を経て、一人持ち時間1分(実際は皆超過したが)で、それぞれの正月経験を披歴した。自らが経験したドイツや中国や韓国等の正月風景、国内の正月のお祝いの地域差が語られた。またおせち料理、特に雑煮の中に入れる餅のかたちなども蘊蓄のある比較論がなされた。また正月15日に行われる成人式の由来なども語られた。
相手の話をよく聞き、そこに新しい話を加え、自分の経験したこと考えたことを他者と共有する思想に積み上げてゆく、その和気あいあいこそがぼくらの芸術学会のベースであるはずだ。それが本例会では実践された。誰に語るのかを念頭に置いた発言は、かならずそれを引き取ってより深めてくれる発言がつづくものである。
このような例会はまたしたい、その気持ちを、萌芽的であってもよい、大事に育てるところにぼくらの芸術学会は立ちたい、と語り合った。例会に参加した面々が晴れ晴れした気分で帰ってゆく姿は印象的であった。
(かなた・すすむ 広島大学名誉教授)
第91回例会報告
野外例会「新緑の備北路を行く」
米門 公子
2010年5月15日に実施された野外例では、備北文化の風を体いっぱいに吸い込もうと、マイクロバスをチャーターして備北路を駆けた。参加者は12名。
まず最初に、尾道市御調町の出身で、日本彫刻界の重鎮、円鍔勝三(1905-2003)の作品が数多く保存・展示されている円鍔勝三彫刻美術館を訪れた。小高い丘の上に立つ同館の周囲には手入れの行き届いた美しい記念公園が整備されており、ゆっくり散策しながら館内に入る。折良く、受付に前館長がおられ、館内を案内してくださることになった。
驚いたのは、円鍔は木彫を主流としながらも、さまざまな素材に挑戦し、作品を制作していること。そしてこのことが、自由な表現を生み出し、晩年の作品に至るまで、みずみずしさにあふれている。私たちは円鍔作品のすばらしさに改めて感じ入りながら、館を後にした。
しばらく北に走り、次に訪れたのは分水嶺の町、府中市上下町。かつては幕府の天領として、また山陰・山陽を結ぶ石州街道の宿場町として栄えた。石州街道は別名、銀山街道と呼ばれ、当学会の野外例会で訪れたことのある石見銀山へ至る。旅人たちが賑やかに行き交ったことだろう。白壁の土蔵や格子戸の家が今だに残る町並みを歩いて いると、当時の繁栄ぶりが偲ばれる。私は、ぶらっと入ったお店「末広」に足止めされてしまった。以前は造り酒屋だったという店の奥へ奥へと続くスペースに、さまざまな骨董品がぎっしり。中でも圧巻だったのは、三次人形。壁にうず高く積まれている。「平成8年に手元にあった3体の上下人形の展示を始めたら、人形が自然に集まってきて…」とご主人。約600体はあるそうだ。「ゆっくり見てみたい」と思いを残しながら、次の訪問地、三次市内にある「吉舎歴史民俗資料館・美術館 あーとあい・きさ」へ向かった。
平成19年、「あーとあい・きさ」に新たに整備された特別展示室には、郷土の偉大な日本画家、奥田元宋(1912-2003)の“ふるさと吉舎に関わりのある作品”を中心に、展示がなされている。同室に人形作家である小由女夫人(1931~)の作品もあり、ほのぼのとした気分で、鑑賞させていただいた。併設の「吉舎歴史民俗資料館」では、三玉大塚古墳からの出土品や中世にこの地方を支配した「和智氏」関係の資料などが展示されている。
最後に訪れたのは「三良坂平和美術館」。当地出身の洋画家、柿手春三(1909~1993)の作品を収蔵している。《荷車の歌》で知られる山代巴の記念室もあったので、見学した。
駆け足の備北路ではあったが、郷土が生んた偉大な作家たちの足跡を辿る愉しく、充実した野外例会となった。
(こめかど きみこ・フリーライター)
第110号
広島芸術学会会報 第110号
「対話型」の美術鑑賞
谷藤 史彦
最近、美術の鑑賞教育に関心が集まっている。
新しい教育指導要領の完全実施が、小学校で来年度、中学校で再来年度と迫り、かつ美術教科の「鑑賞」において美術館との連携がうたわれているからである。
美術館にとって、小中学生に対する鑑賞指導はとても重要な教育普及事業であるし、これなくしては地方美術館の存在意義はありえないと言える。教育普及の専門部員を置いている美術館はこれまで積極的に取り組んできているが、そうでない美術館でもどのように取り組むのかが今まさに課題となり、全国的なテーマとなっているのだ。
私の勤めるふくやま美術館でも、遅蒔きながらこれを最重要の課題として取り組んでいる。これまで児童画コンテストの開催により「表現」の指導を促してきたが、「鑑賞」にも力を入れようというのである。そのポイントは、「対話型鑑賞」にあると考えている。従来の団体説明では、美術館での「触らない、走らない、騒がない」というマナーと、展覧会の時代背景や作家・作品の説明という、子どもたちにとっては何とも退屈な話が中心であった。それを作品の第一印象や頭に浮かんだ言葉を紡ぎだして子どもたちとコミュニケーションしていく「対話型」に変えようというのである。
これは、十数年ほど前から日本にも導入されてきた、ニューヨーク近代美術館のエデューケーターであったアメリア・アレナスの開発した手法である。「この絵のなかで何が起こっているのでしょう?」という独特の問いかけで始まる子どもたちとのコミュニケーションは、日本の美術館人たちに新鮮な驚きをもたらした。
こんなことを言ったら笑われるかもと、内に秘めていた感想を、言葉に出してみてもいいんだと軽い気持ちにさせてくれた。そして作品や作家についての確定的な情報をあまり与えないということも目から鱗であった。
確かに最初に情報を与えてしまうと、純粋に絵を読み取る機会を奪うことになる。私たちは無理やり子どもたちに美術史を押し付けていたのである。
考えてみると、学校の教科の中で答えが何通りもあるのは美術だけであり、何通りもの答えを考えさせる授業の形式は「対話型」しかありえないと感じている。子どもたちの個々の能力に応じ、主体的で能動的な鑑賞を実現させ、さらには子どもたちの言語能力に刺激を与えていく、そんな型の鑑賞が静かに各地の美術館に浸透しつつある。
(たにふじ・ふみひこ ふくやま美術館)
2010年12月27日発行
受賞のお知らせ
金田 晉会長「平成22年度地域文化功労者文部科学大臣表彰」
本学会の金田晉会長が、平成22年度の地域文化功労者として、本年11月9日、霞が関の文部科学省講堂にて文部科学大臣により表彰されました。この章は、各地域において、芸術文化の振興、文化財の保護に尽力するなど地域文化の振興に功績のあった個人及び団体に対して、その功績を讃え文部科学大臣が表彰するもので、昭和58年度から実施されています。今年度は全国で総数87件、その内訳は個人75件、団体12件です。
金田先生は、広島県に於ける芸術文化の分野での永年の顕著な功労が認められてのご受賞です。具体的には、永年にわたり、広島県博物館協議会会長、東広島市立美術館協議会会長の要職にあって、地域の芸術文化の発展に貢献されてきたことが、功績として認められたものです。加えまして、平成20年度に広島県教育賞を受賞されていることにも示されるように、上記役職以外にも、広島県に於ける文化芸術活動全般への長きにわたる多面的な貢献が高く評価されて、広島県から推薦されてのご受賞です。
金田会長の長きにわたるご活躍、ご貢献が更めて認められ、文部科学大臣により顕彰されましたことは、ご本人はもとより、広島県に於いて芸術文化活動の一端を担い、その振興に尽力してきました本学会にとっても、まことに名誉なことと思い、慶賀すべきこととして、広く会員の皆様にお知らせいたします。
第24大会報告
研究発表①
アジア映画に於いてネオリアリズムを理解することについて:
黒澤の「IKIRU/生きる」とサタジットのPather Panchaliを例として
発表:広島大学大学院 エラヒ モハメド トウフィック
報告:広島大学 青木孝夫
エラヒ氏の研究発表の主眼は「アジア映画の視点からネオリアリズムの普遍性と可能性を問いなおす」ことであり、この課題を有名な二人のアジア人監督の作品「黒澤明の『生きる』とインド人サタジット・レイの『大地のうた』の分析」を通して追究することであった。氏はバングラデシュ出身の映画研究者であり、ベンガル地方の貧乏一家を描いた傑作『大地のうた』(ベンガル語の英語表記ではPather Panchali、英語タイトルSong of the Little Road、1955)を扱い、黒澤の『生きる』(1952)とも比較した研究発表は、興味をそそるものであった。タイトルが示すように、研究発表の狙いは、戦中戦後のイタリア映画と結びついた「ネオリアリズム」を、より大きな歴史的文脈に置き直すことで、この藝術概念を、イタリアの歴史的背景の中で深く理解しつつも、一方で普遍化し、その可能性をイタリアの拘束から放ち、他方で歴史的文化的多元性の中、とりわけアジアに於いて豊かに肉付けしようとするものであった。
比較の基軸となるのは、イタリア・ネオリアリズム映画の歴史的美学的背景である。一般に、ネオリアリズムは、第二次世界大戦の最中或いはその後に現れた旧式のイタリア映画の幻想的で感傷主義的な主題や手法を拒否し、野外撮影や「写実主義」的な映画手法を採用し、社会正義的主題に関心が向けられ、戦争や貧困、戦後復興、失職、苦悩が扱われ、厳しい生活の中での民衆の道徳的な健全性を擁護するメッセージ性が特徴的である。ネオリアリズムは、映画制作の手法や表現スタイルの変革と関わりつつ、他方で、描写内容に関し独自の道徳的関心を抱いていたのである。取り上げられた作品ならびに監督は、ロッセリーニやヴィスコンティあるいはまた『自転車泥棒』など著名であり、聴衆の興味を惹いた。
こうしたイタリア・ネオリアリズムの基本的な把握の上に、アジアの二人の著名な監督の作品が位置づけられ比較対照された。
『生きる』や『大地のうた』という作品には、近代化の過程での経済的な困窮や勤労者の苦悩をリアリズムの手法で描く点で、たしかにイタリア・ネオリアリズムの主題や制作姿勢と共通のものが見出せる。この点に関するエラヒ氏の指摘は、視聴覚映像を利用した具体的な作品分析を含む比較検討を通し明快であった。その一方、社会背景や物語の展開を越えて、映画作品の表現や手法に関するより具体的で精緻な分析が必要であり、この点に関する展開が今後の課題と思われた。
以上、該概念の歴史的背景や具体的な作品分析を含む研究発表は、最新の映画研究や関連文献への言及も怠りがなく興味深い上に、裨益させられたが、英語でなされた研究発表を聴衆が必ずしも容易に解するとは限らない以上、発表の梗概や資料を、予めもう少し丁寧に翻訳し会場で配布する等の配慮があれば、なお良かったと思う。
英文発表タイトルUnderstanding Neorealism in Asian Cinema: Kurosawa’s Ikiru and Satyajit’s Pather Panchali
※シンポジウム「映画で描く人、街、営み」その後について
大会当日、研究発表に続いて開催されたシンポジウム「映画で描く人、街、営み」にパネリストとして参加され、「広島の街なかの映画館の灯を消してはならない」と熱っぽく語られたサロンシネマ・シネツインの蔵田順子氏。それぞれの個性を持つ4つの映画館に加え、この秋、広島市中区八丁堀の福屋デパート8階に5つめの映画館「八丁座」をオープン。しかも館内のデザインは、あの日講演された映画美術監督の部谷京子氏が監修されたとのことですから、気になりますね。まだ訪れておられない方は、ぜひ一度!
(事務局・米門記)
第92回例会報告
「秋の下蒲刈島で文化を語ろう」
高原 小夜
下蒲刈島は古い歴史と文化に支えられ、豊かな自然の中で育まれた由緒ある町だ。古来内海交通の要衝として栄え、海の関所「海駅」であった。江戸時代には「朝鮮通信使」の寄港地として大きな役割を果した。今日、安芸灘大橋を渡ると、島には「ガーデンアイランド構想」下で建設され、また各地から移築復元されたさまざまな邸宅、文化施設が美しい海を背景に並んでいる。なかでも緑豊かな落ち着きと潤いのある庭園は「松濤園」と命名され、まさに「庭宅一如」の風情だった。
9月25日(土)、今年は暑い日が続く9月だったが、当日は秋の気配が感じられる気持ちのいい日になった。3台の車に分乗して現地の駐車場に集合。ゲスト5名、会員6名の総勢11名。12時少し前に現地に到着。まずは駐車場前にある海鮮割烹「安芸三之瀬」で腹ごしらえ。船が行き交いしている瀬戸を眺めながら、見て食べておいしい料理に皆大満足。少し散策しながら第一部の会場、松濤園蒲刈島御番所(復元)大座敷に移動した。
大きく開け放たれた座敷には潮の香風が吹き渡り、なんとも爽やかな中、第一部リレー討論会「文化による島おこし、地域おこしはできるか」が金田会長の司会で始まった。まず金田会長が、平成3年の蘭島閣美術館の開館以来の、この島の文化による島おこしの歴史を概観。つづいて広島県総務局海の道プロジェクトチーム主任渡辺香織さんが、現在県が取り組んでいる瀬戸内海海の道構想を説明。この構想は瀬戸内海の資源や人をつなぎ、それを国内外に積極的に発信してゆこうとするものである。祭、イベント、歴史、食、交通、エコなどあらゆる分野でのネットワークを組織し、特にアート部門では瀬戸内アート廻廊(仮称)を構想中とのこと。その後参加者を交えた活発で自由な討論が続いた。
第二部は施設見学会。まずは朝鮮通信使資料館「御馳走一番館」。蘭島文化振興財団副理事長柴村啓次郎さんに解説をいただいた。朝鮮通信使は浅野藩の接待所として11回寄港し、その歓迎ぶりを、幕府に問われて「安芸蒲刈御馳走一番」と絶賛したという。船の模型や御膳料理の再現は圧巻であった。次に三之瀬御本陣芸術文化館の特別企画展「堂本印象の世界」を鑑賞。堂本印象は日本画の革新を目指した京都を代表する日本画家で、常に創造的発展を志した。のどかな雰囲気の情景の少女、可愛く、緻密な筆致の動物、ヨーロッパをモチーフにしたシュールな構図、モダンアートなど変化に富んだ構成、技法が興味深かった。蘭島閣美術館、陶磁器館なども鑑賞。売店でじゃこ天やひじきなどお土産を買って、4時半現地解散して帰路についた。
(たかはら・さよ 造形美術研究所)
投稿・エッセイ
ギターからパイプオルガンへ
広島大学 袁 葉
カフェの角をひとつ曲がると、広場に夕もやに包まれたバルセロナ大聖堂が現れた。
地図を頼りに辿り着いた達成感もつかの間、堅く閉ざされた扉を前に、それはどこかへ吹き払われてしまった。
と、その時、どこからかギターのメロディーが流れてきた。映画『禁じられた遊び』。その音色に導かれるように、私たち二人は大聖堂の横の路地に足を踏み入れた。
やがて、小さな広場に出た。漆喰が剥がれ落ちた壁をバックに、黒の革ジャンに白い綿パン姿の演奏者。箱にコインを入れて、石段に腰を下ろした。
次から次へと名曲の♪が壁に跳ね返っては、冬の空へ消えてゆく。
街灯が点ったばかりの路地には、いつの間にか人通りが増えている。人々の流れを目で追うと、通りの奥の温かい光に吸い込まれていくのに気づいた。
あれは大聖堂の裏口かも…。温まった石段を残して、人の流れに加わった。
門をくぐると、主祭壇に近い席はすでに人で埋め尽くされている。祈りを捧げる人もいれば、静かに言葉を交わす人もいる。玄関口からも続々と人が入ってくるのを見て、「今からミサが始まるのかも」と夫に言われると、急にワクワクしてきた。なにしろ、映画でしか見たことがないのだから。
空席を探してキョロキョロしていると、コートの裾をぐいと引かれた。見ると、ラベンダー色のベールを被ったお婆さん。隣に目くばせすると、みんなで席を詰めてくれた。その笑顔に、素直に甘えさせていただいた。
私が紙に「6:00~?」とメモしてお婆さんに見せると、彼女は「6:00~」を指差して「スパニッシュ…」と、次に「7:00~」と書きながら「カタルーニャ…」と言った。言葉は分からないが、ここバルセロナがカタルーニャ地方の中心都市であることを思い出すと、もう見当がついた。たぶん、ミサはスペイン語とカタルーニャ語で2回行われるのだ。
金色のベルをうち鳴らしながら司祭が登場し、いよいよミサ開始! 舞台の幕開けを見ているようだ。ふと思うと、13~15世紀にかけて建てられたというこの大聖堂、お婆さんたちが空けてくれたこのスペースに、一体どれだけの人が坐ってきたのだろう。そして、彼らはどんな運命を辿ったのだろう。
パイプオルガン演奏、大司教の説教、信者による賛美歌……すべてが聖なるムードに包まれて進行している。説教の中に「マリア」と「ファミリア」という言葉が何度も出てきた。聖母マリアを敬う心と、家族愛の大切さを伝えているように感じられた。
最後にはみんな立ち上がって、周りの人とお互いに手を握り合ったり、抱き合ったり。戸惑う私たちのこともまるで家族のように迎えてくれた。
1997年を締めくくるにあたり、遙かなる異国で温かい贈り物を受け取ったかのようだ。
ミサが終了し、両側の通路で入れ替えを待っている人たちとすれ違いながら、この国の文化の多様性を実感する私であった。
第109号
広島芸術学会会報 第109号
感動の共有から始めよう
― 会長に就任して― 広島芸術学会会長 金田 晉
昨夜、今年のひろしまオペラルネッサンス事業「カルメル会修道女の対話」を観た。あるいは聴いた。フランス革命の高揚期の後の観念だけがますます急進化してゆく時代の恐怖政治のもとで、実際に起こった悲劇が主題である。最後、修道女たちは観客に向かって「サルヴェ・レジーナ」を歌いながら、一人ずつ一歩退いて現世に別れの挨拶を送り、後ろに一歩退いてそれから踵を返して、妙に明るい光の空間の中に黒いシルエットとなって歩き去ってゆく。ギロチンの音が一瞬流れを断ち切る。そしてまた一人の修道女が歩き始める。プーランクの美しい作曲に導かれながら感極まってゆくその大団円に、私は感動した。自分が母性を引き受けた以上、修道女すべての命を守りたいと諭す新修道院長リドワーヌの台詞も、それが成就できなかったがゆえに一層心に響いた。実際に起こったこの事件の10日後に恐怖政治は終焉したという。
世の中は、生きることに一生懸命である。医療技術の進歩が求められ、福祉の充実が叫ばれる。それはそれで大切なことであるが、一方で死を、そしてその不条理を、しっかり見つめる時も必要である。私たちもまた、この年齢に至るまで幾度人の死に立会い、その不条理を経験してきただろう。
それがあるからこそ「カルメル会修道女」の死の受忍の姿に私たちの魂はかきむしられるほどに揺すぶられたのである。今朝の中国新聞では、観衆は650人とあった。幕が引いたとき、その全員から轟くような拍手が起こって、しばらく終わることがなかった。舞台で演じた者も観客席で観ていた者もそこでは一体であった。
その感動の共有に、広島芸術学会の存立基盤があるはずだ。初心を忘れてはならないと、私は思う。創立24年目にして初めて行われた委員選挙をもとに、会長に選ばれた時、私はまずそのことを思った。
私たちの学会は、研究者と作家(演奏者)と市民の三本柱で成り立っている。芸術への向かい方はそれぞれに違う。研究者といっても、美術や音楽や舞台芸術や美学・哲学で関心のあり方がずいぶん違う。作家や市民となるともっと多様で多彩だ。しかもその違いを越えて、自己に謙虚で、他を尊敬しながら生まれる連帯があるはずだ。それを拠り所にしながら、芸術学会の次の一歩を踏み出してゆきたい(7月29日記)。
広島芸術学会第24回大会報告
●総会
去る7月24日9時30分から、広島芸術学会第24回総会・大会が広島県立美術館講堂(午後のシンポジウムは3階会議室)で開催された。今年は広島芸術学会のほぼ4半世紀になる歴史のなかで特筆される年である。従来、芸術学会では、代表委員(設立以来、金田晋が務めてきた)が事務局でまとめた委員名簿を総会で読み上げ、承認を受けるという選出方法を採用してきた。だがこの委員の選出方法が抜本的に改められた。新たに委員の選挙規定が定められ、先般はじめて会員の投票による委員の選挙が実施された。目的は、組織の民主的運営、学会運営に関する会員の意見の反映を図るためである。まず会員の投票によって上位得票者10名が委員に選出され、次にこの委員の互選によって会長が選出された。さらに会長は、地域、職域、ジャンル、世代等を勘案して5名の委員、2名の監査及び事務局長(以上、総会で承認)を委嘱し、新しい役員体制ができあがった(名簿は別記)。
総会では、会長が20回大会以来の本学会の改革と、今期の課題について所信表明がなされた。本学会は創設以来、研究者、作家(演奏家を含む)、市民の3本柱で構成されることが謳われてきたが、その理念を現実の活動において実現するよう、一層の努力をする、ことを明確にした。この2年間、①年報の改革、②例会の改革、③事務局の合理化、④今回の新しい委員選挙、等々。
次に、水島裕雅委員が議長に選出され、事業報告(青木孝夫委員)、決算報告(大橋啓一委員)、監査報告(原田佳子監査)、会長推薦委員及び監査の承認(金田晉会長)、事業計画(青木孝夫委員)、予算案(大橋啓一委員)が順次報告され、それぞれ承認を受けた。
<新 委 員>(あいうえお順)
会長:金田 晉 副会長:青木孝夫 事務局長:大橋啓一
委員:井野口慧子、倉橋清方、桑島秀樹、末永航、菅村 亨、関村 誠、
谷藤史彦、伴谷晃二、馬場有里子、松田 弘、水島裕雅、吉井 章
監査:竹澤雄三、原田佳子
●研究発表
発表②
善導大師像について ─知恩寺本画像を中心として─
発表:広島大学 髙間由香里
報告:広島大学 菅村 亨
善導は中国・唐時代の僧で、浄土教の大成者であり、日本の浄土宗の開祖法然が善導の教えを拠としたことが広く知られている。その肖像画は日本に多く現存しているが、その多くは像の半身を金色に表し、また、善導が合掌して称名念仏すると口から発した念仏が阿弥陀の姿になって顕れたという奇瑞説話に基づいて口中から化仏を発するすがたに描いている。髙間さんはそうした善導大師画像の代表的作例の一つである知恩寺本(重要文化財)の位置づけと、そうした善導像から見えてくる浄土宗勃興期の様相についての見解を説かれた。
発表では、赤外線やX線等を用いた光画像計測法による調査にもとづいて、知恩寺本の材質、技法、表現等の詳細が紹介された。眼の部分の描線と着彩の精緻さ、歯の表現における彫像の感覚、あるいは南宋画的な自然主義的表現をうかがわせる部分がある一方、写し崩れの描写がみられることなどがつぎつぎと指摘され、この図が日本でつくられた模本を原本として14世紀前半に制作されたものであることが説明された。
さらに、善導の像高80cmにおよぶ入念な造りの大作であることなどから、この図が浄土宗の中でも財力のあった鎮西流のもとで整備されたということが述べられるとともに、そうした善導像整備の背景として、まだ新興宗派であった浄土宗教団内部の、統一へ向けての動きがあったと指摘された。すなわち、法然が善導を阿弥陀の化身として称揚したことをもとに、教団では法然をそれと同様に位置付け、教義の整備と強化をはかろうとしていたことである。浄土宗教団はたびたび法難に遭い、法然の死後、分派的、分裂的になって統一を失っていったが、そうした不統一の是正に力を尽くしたのが鎮西流の良忠らであったことなどを考えると発表者の見解も十分了解できた。
作品画面細部の顕微写真やX線透過画像など、普段私たちが接することのあまりない画像情報に驚かされた。ただ、こうした情報は、医師がレントゲン写真から病状を探るのと同様に、読み取る側の力量を求める一面があるように感じる。作品のモノとしての特質を徹底的、詳細に分析することを通して、さらに作品の内容、成り立ち、意義を明らかにするという研究手法の魅力を知るとともに、そうした研究よってこの作品の意義を改めて知ることができた。発表者に感謝したい。
発表③
ヤン・ファン・スコーレル作《エルサレム十礼者たちの肖像画》考察
発表:尾道大学 深谷訓子
報告:広島市立大学 大井健地
「集団肖像画」といえば、まずレンブラントの諸作品、わけても名品《夜警》(1642年)を思い浮かべる。現実社会の俗っぽさからある高貴へ、深遠さへと換骨脱胎するレンブラントの画境。仮空の登場人物も多いというが、何よりあの、舞いおりてきた異界の白無垢少女天使。そしてレンブラントに比べれば前段階の位置たらざるを得ないがしかし注目すべき早業筆致で現世の人間の屈するところのない、高らかで率直な笑いに満ちたフランツ・ハルスのにぎやかな画面。
「集団肖像画」(ドイツ語でGruppenbild)は西洋絵画の一ジャンル。深谷訓子氏の発表に動かされ、アロイス・リーグル『オランダ集団肖像画』(勝國興訳、中央公論美術出版)をめくり、講談社版『名画への旅14巻、市民たちの画廊』(20頁に《ハーレムのエルサレム巡礼者たちの集団肖像画》の小さいがカラー図版がある)を参照した。またフリートレンダー『ネーデルランド絵画史』(斎藤稔ほか訳、岩崎美術社の「ヤン・ヴァン・スホーレル」伝を読んだ。
多数の寄進者像に集団肖像画のそもそものはじまりがある。スコーレルの描く集団はエルサレム巡礼者の像である。1480年代から1520年代まで時間差のある別々の巡礼者を上半身だけ2列に、あたかも行進中の行列に見立てている。ハールレム作品の12人のうち、右から3番目が自画像。人物の下の貼り紙がめくれているのが目印(「アクセント」)になっている)。「エルサレム兄弟会」(聖墳墓同信徒)の巡礼者ら、手を添え、肩に担ぐ棕櫚の枝が整列の行進を際だたせる。棕櫚で区切られて上部にそれぞれの紋章が示される。図説絵ときである。
16世紀巡礼文学によれば、当時の巡礼が物見遊山的であったそうだが、一生に一度の大旅行であるはず。
スコーレルはイタリアを経由してエルサレムへ巡礼した。ヴェネツィアでスコーレルが見た絵の例として深谷さんが挙げた2点は、①カルパッチオ《聖ウルシェラ伝》(1493年)、②ジェンティーレ・ベッリーニ《サンマルコ広場の行列》(1492年)。不思議な熱気と不思議な冷気が混在しているとも僕には思える画風。カルパッチオは混みいっているが、ベッリーニのあの絵には広々とした広場の空間のひろがりがある。いずれも古拙さをどこかに残してはいるが、それ故に大衆に親しみやすい、図解的な説話性を宿している。スコーレルは自己の資質と文化風土的な器量に応じてこの2点の良さを吸収したのだ。
肖像画史は瞑想的な祈祷者像から活動的な世俗人物像に移行する。スコーレルはそのはざまでユニークな集団肖像画を残したのであった。
肖像画は(発音不明瞭な発語者が言うと、音だけはとても似ているが)想像画ではない。仏さまの肖像画は存在しない。
肖像画の現世的性格を思えば、単一の肖像画が束になって構成される威厳ある集団肖像画が必要とされる条件はあると思うが、16、17世紀のオランダ以外では流行らなかった。
(研究発表①は次号に掲載します)
●シンポジウム「ひろしまを描く──映像とことば」
報告①
日本と中国の映画を取り巻く状況について
パネリスト・広島大学 袁 葉
1 映画環境に恵まれた街-広島
日本の同規模の都市では、アート系映画館は1館か2館であるのに対して、広島ではサロンシネマ(ⅠⅡ)、シネツイン(ⅠⅡ)、そして来る11月にオープンするそれらの姉妹館2館、横川シネマと計7館に上る。また「広島市映像文化ライブラリー」では、日本映画の名作が上映されるほか、年に数回は外国映画特集や、映画人による講演会(無料)、活弁の実演も行われる。3D映像の時代到来にもかかわらず、伝統文化継承の努力に感銘を受けている。同種の公共施設は、東京、京都、福岡、川崎にしかないそうだ。
映画愛好家の自主運営による「広島映画サークル」は、年に7回、県立美術館の講堂で、近年の洋画と邦画の秀作を上映する。
その他、「広島国際アニメーションフェスティバル」「ヒロシマ平和映画祭」「ダマー映画祭inヒロシマ」といった国際映画祭も開催されている。
広島は、「原爆が投下された街」から「水と緑と文化の街」へと生まれ変わった。このような映画を取り巻く状況からも、垣間見ることができる。
2 ふるさと北京の映画事情
人口1,700万人のこの大都会には、アート系の映画館は一つもない。上映されているのは、国産映画、ハリウッド映画、香港映画であり、たまに韓国や日本の映画も登場する。だが、映画館はもはや「貧者と弱者の楽園」ではなくなっている。
その原因は、まず入場料が高くなったこと。一回70~80元(千円前後)というのは、2元で地下鉄乗り放題の北京市民にとって、とてつもない贅沢だ。さらに、DVDがたちまち出回る。しかも20元(約260円) と安価。
中央テレビ局では、無料の映画チャンネルが観られる。それに、毎日欧米やアジア、南米などの連続ドラマが放送されている。世界各地の風俗習慣や考え方は、この「窓口」を通して知ることができる。日本のアート系映画館の特色と共通している。
3 中国映画の異なる評価
海外で高い評価を受けた映画が、必ずしも国内で支持されるわけではない。以下、ヴェネチア国際映画祭グランプリの2作について取り上げる。
(1) チャン・イーモウ監督の『あの子を探して』(99年)
中国の山奥の村に小学校の代用教員としてやってきた13歳の少女と、児童たちの触れ合いの物語。奥地の貧しい現状が、ドキュメンタリータッチで映し出され、国内では当時、「中国の恥さらし」とか「賞を獲るため外国人に媚びている」、香港では「売国奴」とまで言われた。
(2) ジャジャン・クー監督の『長江哀歌』(06年)
長江の三峡ダム建設によって水没することになる街の、出稼ぎ労働者の日常がドキュメンタリー風に描かれている。受賞した上での公開にもかかわらず、観客席は閑散としていた。
街がやがて消える― 外国人にとっては哀愁が感じられることかも知れないが、古い地区が消えてゆくのは、中国では今や日常茶飯事だ。それに、出稼ぎ労働者よりも、富裕層になった成功者の方が脚光を浴びるご時世である。
報告②
「ひろしまを描く」場を今一度開くために
─ シンポジウム「ひろしまを描く─ ─映像とことば」を聴いて─
報告:広島市立大学 柿木伸之
広島という街はしばしば映画の舞台となり、そのなかでいくつもの貌を見せてくれる。被曝して焦土と化した街、原爆によって愛する人や生活の基盤を奪われながらも生きていこうとする人々が身を寄せ合う街、あるいは法外な暴力がせめぎ合う街などとして、広島は映画のなかに描かれてきた。そして、映画化されたマルグリット・デュラスや井伏鱒二の仕事を挙げるまでもなく、広島を映画に描くことは、広島を語る言葉に深く根差してきた。「ひろしまを描く──映像とことば」をテーマに掲げた今回のシンポジウムは、パネリストたちのそれぞれ異なった現場の経験を踏まえながら、映画の舞台にして文学の生まれる場所としての広島の意義を再確認したうえで、この街が将来もさまざまな文学的ならびに映像的表現とその受容に開かれた場所「ひろしま」であり続ける可能性を探るものと言えよう。
最初に映画の美術監督として活躍する部谷京子氏が、「映画で描く人、街、営み」と題して基調講演を行なった。制作に関わった映画の一部を見せながら、「俳優の肉体以外のすべてをデザインする」美術監督の仕事を、現場でのエピソードを交えながら生き生きと紹介する講演のなかで、一貫して強調されていたのは、場所との出会いが映画を生むということである。部谷氏は、美術監督として場所のもつ力に応えながらその空気感をも伝える映画を作りたいと語る一方で、福山での映画『少女たちの羅針盤』の制作が当地の人々に支えられていることを挙げ、そこに生まれる街の人々と映画の結びつきが、映画への愛着を呼び起こすことを指摘していた。福山と同じことを広島でできたら、と部谷氏は広島への強い思いを込めて述べていたが、その言葉を受け止めようとするとき、広島の映画文化の現状に思い至らざるをえない。
パネリストの袁葉氏が述べていたように、広島という街は質の高い映画館に恵まれているし、映画を愛する市民による活動の盛んな街でもある。たしかに広島では市民の手による映画祭が定期的に開かれているし、この都市規模でこれほどアート系と呼ばれる映画作品に触れる機会が多い都市も珍しいだろう。しかしその一方で、最近の広島には次々と、しかも街の中心に程近い場所に郊外型の商業施設が造られ、そこに併設されたいわゆるシネコンが人々を集め始めている。非日常的な経験であるはずの映画鑑賞が、日常の消費生活の延長線上に移行しつつあるかのようだ。それとともに、もう一人のパネリストの蔵本順子氏が報告したように、街の中心の映画館が次々と姿を消している。こうしていとも簡単に、異質な個性の共存こそが培う都市の文化が空洞化することは、以前から広島の街に潜んでいた、言わば文化の足腰の弱さを露呈させたとも言えなくはない。
シンポジウムの最後に、水島裕雅氏から、広島に文学館の建設を求める市民運動が最近活動停止に至った経緯が報告されたが、その要因の一つとして挙げられていたのが、市民の力強いサポートを得られなかったことである。そのことが意味するのは、広島から生まれた数々の優れた文学作品を愛し、読み継いでいく市民層が、とくに戦後育っていないことだという。この問題は、一本一本の映画への愛着が薄れるなか、都市の映画文化が危機に瀕していることとも通底する問題と思えてならない。そして、この問題の深刻化に拍車をかけているのが、広島市の行政の反文化性であろう。その文化行政からして、「ひろしまを描く」過去の作品を保存して伝え、広島から生まれる新たな作品の生成を見守り、それらを広く発信することに力を入れているようには見えない。
水島氏によると、文学館建設運動の最も大きな障壁になったのは、広島市当局の無関心であった。貴重な文学資料が分散し、不十分な保存状態にある状況は待ったなしであるにもかかわらず。また最近では、田中宏の漫画『BAD BOYS』の映画化への協力を、「暴走族追放」へ向けた「全市一体」の取り組みに反するなどという、映画の内容への検閲的介入とも取れる理由で、広島フィルム・コミッションが市の関係当局とともに拒否するという事件が起きている。そして、ディスカッションの際に新聞記事にもとづいて述べたように、そのように公式の撮影協力を拒んだことが、映画の内容を問わないというフィルム・コミッションの原則に反することが問題となって、広島のフィルム・コミッションは日本の優れた映画撮影受け入れ組織との認定が受けられず、そのことは今後広島の街が、これまでのように優れた映画の生まれる場所、それによって映画史に名を刻まれる場所ではなくなることを意味しかねない。今や「ひろしまを描く」場が閉ざされつつあるのだ。
このように「ひろしまを描く」文化の生成と継承が重大な危機に直面しているなかで、広島で芸術的表現とその批評的言説に携わる者に求められていることの一つは、『靖国』や『ザ・コーヴ』のような上映自粛の波が広がった映画をしっかりと上映し続ける街の映画館の取り組みを支えながら、それが守ろうとしている表現の自由とこれにもとづく文化を萎ませるような行政の失政に対しては、強く声を上げていくことであろう。さらに、一本一本の映画、一篇一篇の文学作品の魅力を広く伝える活動にも、これまで以上に取り組んでいく必要があるのではないか。これらが市民のあいだに共有されて初めて、「ひろしまを描く」場が広島の街に開かれるにちがいない。今回のシンポジウムでは、「ひろしまを描く」言葉と映像の文化の空間を今一度この街に開くために芸術に関わる者に課せられた、深刻な課題が浮き彫りになったのではないだろうか。
第108号
広島芸術学会会報 第108号
広島芸術学会第24回総会・大会案内
日時:2010年7月24日(土) 9時30分~17時
場所:広島県立美術館 講堂・3階大会議室
《総会》 9時30分~10時
《大会》 10時10分~17時
<研究発表>
①アジア映画においてネオリアリズムを理解することについて
(10時10分~11時)
―黒澤の「生きる/IKIRU」とサタジットのPather Panchaliを例としてー
広島大学大学院総合科学研究科 エラヒ モハメド トウフィック
②善導大師像について
(11時10分~12時)
―知恩寺本画像を中心としてー
広島大学大学院文学研究科 髙間由香里
<昼休憩>
12時~13時30分
★午後からは会場が変わり、3階の大会議室に移動します。
③ヤン・ファン・スコーレル作
13時30分~14時20分
《エルサレム巡礼者たちの肖像画》考察
尾道大学芸術文化学部 深谷訓子
<シンポジウム>
14時30分~17時
テーマ:映画で描く人、街、営み
基調講演:部谷京子(映画美術監督)
司 会:井野口慧子(詩人)
パネリスト:袁 葉(広島大学)、蔵本順子(サロンシネマ・シネツイン)
水島裕雅(広島大学名誉教授)
<懇親会>
17時30分頃~。場所は未定なので当日お知らせします。
広島芸術学会第24回大会資料
●研究発表要旨
①アジア映画に於いてネオリアリズムを理解することについて
―黒澤の「IKIRU/生きる」とサタジットのPather Panchaliを例としてー
Understanding Neorealism in Asian Cinema: Kurosawa’s Ikiru and
Satyajit’s Pather Panchali
広島大学大学院総合科学研究科 エラヒ モハメド トウフィック
一般的には、ネオリアリズムは、第二次世界大戦の最中或いはその後に、イタリアの映画産業(1942年?1951年)における映画運動や映画の大量生産を指すと考えられている。一般的には、その特徴は、独特のモードによる映画スタイルや技術に拠る社会的ドキュメントとして識別されるが、また多くの映画歴史学者や評論家は、ネオリアリズムを「何よりもまず道徳的なステートメント」であると考える。
ファシズムの遺灰から新たに復興した際、イタリアン・ネオリアリストの映画は容赦なく直ちに戦後の国家の社会、政治、経済再編の動きに結び付けられていた。新しい映画技術の出現――ジャンル/スタイルの特徴付け(非俳優、自然光、ロケ撮影の使用、そしてメロドラマの欠如)と結合して、ネオリアリズム映画におけるローカルおよび地域の現実の再主張は、ファシスト時代の国家的理想を描く描写から抜け出した。都市環境に貧困、階級闘争を注入することと農村の田園風景を解体することにより、ネオリアリズムは、支配勢力に対抗する階級意識と合意に基づく想像の共同体への理解に新しい方法を提供した。
なお、この論文では以上のようなパラダイムを説明するためには、発表者は二つのアジア映画「IKIRU」(上映、1952年。日本の有名な映画監督黒澤明が監督)とPather Panchali (リトルロードの歌Song of the Little Road、1955年。インドの素晴らしい監督サタジット・レイが監督)を議論する。その場合、どのようにそしてどの程度、これらの二つの映画をネオリアリズム映画として考えることができるか? それは文化的そして映画的移行なのか? つまり、ネオリアリズムは、映画監督にこのようなジャンル/スタイルを実践させるような影響を与えたか。どのように西洋(イタリア)以外の映画監督が、例えば、黒沢とレイに影響を及ぼしたのか? もしそうなら、日本とインドとの戦後の経済、政治と文化的要因は、どのようにイタリアン・ネオリアリスト映画の特徴に接続されていたのか?
このような問題意識に答えるべく、この論文は、これらの二つの映画のテキスト、コンテキスト、モード等を詳しく精密に分析することにより、アジア映画におけるネオリアリズムの理解を目指し、説明を試みる。
②善導大師像について
―知恩寺本画像を中心としてー
広島大学大学院文学研究科教育研究補助職員 髙間由香里
日本に現存する代表的な善導大師画像(絵巻物所載像も含む)には、二つの特徴が認められる。その第一は口中から化仏を発すること、第二は半身を金色とすることである。
第一の特徴を概括すれば、宋戒珠撰『浄土往生伝』善導項に「即有一道光明、従其口出」、少康項に「衆見一仏従其口出」とあるように、念仏とともに善導は口中より光明を発するのに対して、化仏を出すのは少康であったのが、知恩寺本画像中の曇省讃(紹興辛巳1161)では「仏従口出、信者皆見」と変化し、光明寺本『浄土五祖絵』でも色紙形に『浄土往生伝』を引きながら、善導像から明らかに化仏が現れている。
第二の特徴については、『選択集』で、『観経疏』執筆時に弥陀応現の僧から指授を得た善導もまた、「大唐」で「弥陀の化身」と伝わる旨を記すに留まるものが、知恩寺本画像では袈裟下に着けた僧?支を金色とするに至る。それでも、現実的な服制に即応した脚色と言えるが、増上寺本『法然上人伝』では「善導和尚御腰よりしもは金色にて、夜な夜なきたりたまひてのりをとき給」となり、『源空上人私日記』や知恩院本『四十八巻伝』でもこれを踏襲する。
本発表では、南宋画の影響を少なからず被った知恩寺本画像と、上記諸遺例のほか、善導寺の彫像や二尊院本浄土五祖画像との関連に及び、それら遺例の光画像計測法による実査結果をも踏まえて、美術史学の観点から浮かび上がる浄土宗勃興の歴史的真実について考察する。
③ヤン・ファン・スコーレル作《エルサレム巡礼者たちの肖像画》考察
尾道大学芸術文化学部 深谷訓子
16世紀から17世紀にかけてのオランダに特徴的な絵画ジャンルのひとつに「集団肖像画」がある。射手組合の会員や外科医たちなど、同じ団体に属する人々の姿をひとつの画面内に描き出すこのジャンルを扱った研究としては、周知のとおりアロイス・リーグルの『オランダの集団肖像画』があり、そこでは他の物語場面に付随するかたちを取らないものとしては最も古い作例としてヤン・ファン・スコーレルの《エルサレム巡礼者たちの肖像画》が挙げられている。実際、ハールレムのエルサレム巡礼兄弟会の面々と自身も1520年に聖墳墓への巡礼を果たした画家自身を描いたこの作品は1520年代後半の制作と推定されており、確認されている集団肖像画の最も早い例のひとつである。またそれだけでなくこの作例は、リーグルの大きな枠組みのなかでいえば同様に「外的統一」を前提にした構成をとりながらも、例えばその直後に描かれたディルク・ヤコープスゾーンの射手組合の肖像画のみならず、同時期に制作された他の巡礼者たちの集団肖像とも根本的に異なる特徴を備えている。本発表では、まずこの作品の入念な構図上のプログラムを他の関連作品との比較を通じて確認した上で、当時の巡礼や巡礼にまつわる著作物、そして16世紀ネーデルラント絵画における全般的な動向という二つのコンテクストからの観点を導入して作品の詳細な考察を行う。
●シンポジウム
基調講演「映画で描く人、街、営み」
映画美術監督 部谷京子
《 講演要旨 》
◆映画美術とは
・俳優の肉体以外のすべてをデザインする。「シコふんじゃった。」の
現場のお話
◆映画の創られ方 ―美術監督が見る、企画から公開まで―
・企画・取材・台本作り・準備・クランクイン・クランクアップ・編集仕上げ
・完成ゼロ号試写・宣伝キャンペーン・公開
◆映画美術の仕事
・大道具・装飾・小道具「Shall weダンス?」「それでもボクはやってない」の
現場のお話
◆映画と街、人との関わり
・街で創られる映画
「突入せよ!「あさま山荘」事件」-長野県軽井沢町
「北の零年」―北海道夕張市、浦河市
「マリと子犬の物語」―新潟県山古志村
「ハナミズキ」-北海道釧路市、白糠町、ニューヨーク、
カナダ・ルーネンバーグ
・原作のある映画
「陰陽師Ⅰ・Ⅱ」―平安時代の京都
「源氏物語」―平安時代の京都
「壬生義士伝」―盛岡、京都
「容疑者Xの献身」―東京隅田川界隈
※文藝春秋発行月刊誌「諸君!」掲載“そこが知りたい”参照
「少女たちの羅針盤」―広島県福山市
◆私と広島
・映画「鏡の女たち」・「小さな祈りの影絵展」・
「世界へおくる平和のメッセージ」
・「ダマー映画祭inヒロシマ」・第一回福ミス優秀作「少女たちの羅針盤」
映画化
◆最後にPR
・映画「ハナミズキ」8月21日公開
土井裕泰(のぶひろ)監督、新垣結衣、生田斗真主演、主題歌「ハナミズキ」
・映画「雷桜」10月22日公開
廣木隆一監督、岡田将生、蒼井優主演
・映画「少女たちの羅針盤」6月30日クランクイン、2011年公開
長崎俊一監督、鳴海璃子、忽那汐里、草刈麻有、森田彩華主演
《プロフィル》
広島県広島市出身。本籍はいまだに能美島の大柿町、現江田島市大柿町にある。
広島市立白島小学校、広島女学院中学高等学校、武蔵野美術大学造形学部卒業。
在学中に円谷プロダクションにて美術助手のアルバイトを務め、映像美術に開眼。
大学卒業後、ポール・シュレイダー監督「MISHIMA」、黒澤明監督「夢」「八月の狂詩曲」等の美術助手を経て、1992年周防正行監督「シコふんじゃった。」で美術監督デビュー。以後、映画美術ひと筋。
2005年から広島市で「小さな祈りの影絵展」を開催。今年で6回目を迎える。
2006年に広島で開催された「世界へ送る平和のメッセージ」では構成演出を担当。
2009年から「ダマー映画祭inヒロシマ」を立ち上げ、代表を務める。
2回目の今年は広島、福山、岩国の3地域で、11月25~28日に同時開催する。
《作品歴》
「Shall weダンス?」「陰陽師」「陰陽師Ⅱ」「金融腐蝕列島〔呪縛〕」「突入せよ!「あさま山荘」事件」「北の零年」「壬生義士伝」「マリと子犬の物語」「チーム・バチスタの栄光」「それでもボクはやってない」「容疑者Xの献身」ほか多数。
今後公開予定の作品:「ハナミズキ」(2010年8月21日全国東宝系)
「雷桜」(2010年10月22日全国東宝系)
現在準備中の作品:「少女たちの羅針盤」(福山ミステリー文学新人賞の第一回優秀作の映画化)※6月30日からほとんどの撮影を福山市で実施する。2011年公開予定。
《受賞歴》
「RAMPO」で初の日本アカデミー優秀美術賞を受賞。現在までに10回の優秀美術賞を受賞し、うち2回、「Shall we ダンス?」「それでもボクはやってない」で最優秀美術賞を受賞している。
「エイボン芸術年度賞」「マックスファクター・ビューティー・スピリット・イン・フィルム」「小倉佐伯賞」を美術監督の活動に対して受賞。
2008年、広島市民表彰(広島市民賞)を受賞。
■パネリストの発表要旨とプロフィル
袁 葉:日本と中国の映画を取り巻く状況について
広島という所は、映画環境にとても恵まれていると思う。それに、映画を通した文化的な活動も活発だ。一方、故郷の北京では、庶民はあまり映画館に足を運ばない。そして、海外で高い評価を受けた中国映画の作品は、必ずしも中国国内で評価されるわけではない。このような日本と中国の映画を取り巻く状況について考えてみたい。
《プロフィル》
北京第二外国語大学卒業後、中国マスコミ大学日本語講師。1985年に日本政府文部省奨学生として来日。広島大学大学院で日本文学を研究,博士課程前期修了。
1989から1995年、テレビのレギュラーコメンテーター、ラジオのパーソナリティーを務めた。1994年から現在広島大学、県立広島大学、広島修道大学で「中国語」「中国文化」の講義を担当する傍ら、講演、通訳、エッセイの執筆等で活動中。て報告していただき、東アジアの芸術文化の意義を再考し議論の場を拡げていきたいと思います。
蔵本順子:今年こそ「心の広島革命を」
気がつけば、町なかの映画館が静々と音もたてずに減ってきています。
「草木もなびく、本通り」。その昔、祖父や祖母たち、お年寄りから聞かされたものです。すべての賑わいの中心は本通りや八丁堀周辺のことでした。ところが、町なかを東西南北のシネコンの台頭により、一般の人の娯楽、文化、飲食、ファッションなどなど郊外の大型ショッピングセンターに移行し、すっかり様相が変わりました。でも広島の町の文化・娯楽の「元気の源」は、やはり本通り、八丁堀周辺であると広島県人の血がそう信じさせます。
シネコンの台頭はたしかにすごいけれども、広島の町なかの映画館の灯は消してはならないと思います。個人館対全国大手映画館の図式もあるなか、広島人のネバリと忍耐と希望と夢を今こそ見せなくてはならない時期にきています。町なかが危機一髪の状態を知っていただき、地元活性化にお力添えをお願いしたい。
《プロフィル》
1950年 広島市生まれ。広島女学院大学日本文学科卒業。
1981年 サロンシネマ代表取締役
1989年 シネツイン オープン(シネツイン本通り)
1994年 サロンシネマ2 オープン
2004年 シネツイン2 オープン((シネツインン新天地)
現在、それぞれの個性を持つ「4姉妹館」の経営にあたっている。主にアート系と呼ばれる芸術性・文化性の高いものから、全国一斉ロードショー作品まで、幅広い作品を上映。いわゆる商業ベース出はない作品も手掛け、少しでも広島の文化に刺激を与えてくれたらと、それだけを願ってチャレンジを続けている。
水雅裕雅:なぜ広島に文学館ができないのか
広島に文学館ができないのはなぜか。「広島に文学館を! 市民の会」の代表として広島市と交渉しながら、さまざまな活動をしてきた経緯を踏まえて、反省を交えながら考察したい。
広島に優れた文学がないわけではない。それは数多くの原爆文学の存在が証明しているし、広島生まれや広島在住などで広島に縁があった文学者は枚挙にいとまがない。しかしながら、それを評価するシステムや考え方がなかったか、弱かったといえよう。
広島は日清戦争以後半世紀にわたって軍都として重きをなしてきた一方、文学・芸術を高く評価してこなかった。また原爆によって街の中心部が壊滅し、それに伴い文化の担い手としての豊かな町衆を失った。それは戦後65年たった現在でも、広島の伝統を受け継ぎ、それを誇りに思う主体が存在しにくいことをも意味する。
市民運動としての反省点を挙げれば、広島市政に入り込めなかったこと、広島市民の支援をあまり受けられず会員も200人前後で伸びなやんだこと、とくに若い人の関心を引きつけられなかったことなどが挙げられる。 これまでの経緯をお話しし、皆さまのご意見を伺いたいと思う。
《プロフィル》
1942年9月 東京に生まれる
1972年3月 東京大学大学院人文科学研究科比較文学比較文化専門課程博士課程
単位取得後退学
1972年4月 広島大学教養部専任講師
1997年4月 広島大学総合科学部教授を経て広島大学教育学部教授
2006年4月 広島大学大学院教育学研究科教授を定年により退職
広島大学名誉教授
なお、2001年1月より2010年3月まで「広島に文学館を!市民の会」代表を務め、同会の活動停止(2010年3月)により「広島文学資料保全の会」幹事となる。
※事務局から 『藝術研究』バックナンバーの登録許諾について
広島芸術学会では、2010年7月末日刊行予定の『藝術研究』第23号より、広島大学と協力して掲載物の電子公開を行います。つきましては、本誌に掲載の論文・論考の著作権中、「複製権」と「公衆送信権」の権利に関し、本学会への許諾をお願いいたします。
それ以前に『藝術研究』に掲載された論考についても、電子公開への許可をお願いいたします。手続きとしては、返信用郵便物で著者に個別に許諾確認を行います。著作権その他で電子公開に問題がある場合は、登録不可能な巻・号・ページ・図などをお知らせいただければ該当箇所または論文全体を電子雑誌登録から除外します。
また郵送による許諾確認と同時に年報、会報、広島芸術学会ホームページに以下を告知します。
(1)創刊号からの全号に掲載された論文等の著作権は著者に帰属する。但し、『藝術研究』の電子雑誌化に伴い、「複製権」と「公衆送信権」は、基本的に著者から広島芸術学会に許諾されることの承認をお願い致します。
(2)広島芸術学会では、広島芸術学会に許諾された「複製権」と「公衆送信権」 を更に広島大学に委ね、そのリポジトリ登録を通して論文・論考等を電子化し、電子公開をいたします。論文・論考の著者には、このことのご承認をお願い致します。
(3)著作物を広島大学の電子図書館に登録する件について同意をいただけない場合、2010年9月末までに広島芸術学会事務局まで郵送またはメールで連絡くださいますようお願いいたします。
第107号
広島芸術学会会報 第107号
感性のこどもたち
千代章一郎
「こどもの生活環境についても安全と危険、学びと遊び、家庭と学校などについて、従来の考え方では理解できない様々な問題が噴出し、こども環境はゲーテッド・コミュニティのように囲い込まれ、バブル・ラップされて管理されています。しかし一方で、メディアの発達によって、様々な情報が無防備に侵入していることも事実です。こどもたち自身が、主体的に生活環境を育んでいるという感覚は希薄になっているように思われます。こどもたちの豊かな「感性」はどこに発揮されているのでしょうか。それとも衰退しているのでしょうか。あるいは大人が気付いていないだけでしょうか。」
これは「こども環境学会大会(広島)」(平成22年4月22日(木)?25日(日)開催。詳しくは、http://www.sense-of-children.com)の問題提起として発表したものですが、実はこの文章、「こども」と「大人」を入れ替えても同じことのようで、現代日本社会の貧困化あるいは幼児化を示しているように見えます。
そもそも「感性」とはほとんど外国語に翻訳不可能な日本的概念です。プラトンのaisthesisにまで遡っても、それは「美」だけには限らないようなのですが、近代に至って、「芸術」の世界に「感性」が受動的な問題群として囲い込まれていきます。しかしどうやら、「感性」は「遊び」「学び」などの様々な場面で、衣食住に関わる環境との関わりを、五感を通して身をもって実践していく非言語的なコミュニケーションにおける感受性と感情と考えることができるようです。それは身に付けるべき能力ではなく、本来、誰にでも備わっているものの特性です。大人もこどもも変わりはありません。しかし身体を取り巻く時間と場所に呼応して磨かれるものもあれば、錆び付くものもあります。
たしかに、「持続可能な社会」の実現のためには、「知性」が必要です。しかしそれと対をなす「感性」もまた、本当に豊かな環境の実現に必要不可欠であると考えられます。現代の脳科学においても、幼児期に言語が獲得されていく以前の「感性」のはたらきの持続がこどもの成育にとっていかに大切かが明らかにされつつあります。環境の生命的持続において、合理性を超えた「感性」の働きは極めて重要であると思われるのです。それは「ゆとり教育」などに矮小化されるべきではありません。
被爆地広島市は、振り返ってみると、明治期より続く教育の伝統や戦後の丹下健三の平和都市構想に至るまで、こども環境を育んできた都市です。そのような場所で、生き生きとした人間の「感性」の再構築をめざしていきたいと思うのです。
(せんだい しょういちろう・広島大学大学院工学研究科)
第90回例会報告
研究発表①
「近現代イギリスのおける景観美と都市構想」
発表:広島大学大学院 大島 葉月
報告:広島大学4年生 小野 未千恵
大島さんの研究は、近現代イギリスの諸都市における都市の発達や景観について、その思想や計画的「街づくり」の実践を芸術文化論の視点から考察するというものだった。19世紀末にイギリスで起こった田園都市運動は、エベネザー・ハワードの田園都市論提唱から始まった。田園都市とは計画された自己完結型の都市であり、レッチワースとウェルウィンに建設される。また、同時期にはヘンリエッタ・バーネットの発案により、ロンドン近郊のハムステッドに田園郊外が建設された。だが、田園都市と田園郊外どちらにおいても、社会的平衡を目指すがその実現は難しく、住民が富裕層に偏ったという。
アメリカでは19世紀末から20世紀初頭にかけて都市美運動と呼ばれる都市美化運動が起こる。アメリカの郊外住宅地の開発にはイギリスの田園都市運動が多くの影響を与えていた一方、ラドバーンで高く評価された歩車分離の計画手法が、反対にその後イギリスのニュータウンで採用されるということも起こった。大島さんによればニュータウンは、自足完結性と社会的平衡を原則とする点で田園都市の考えを受け継いでいるが、国によって管理されるなどの点で田園都市とは本質的に異なるという。
田園都市には新しさや快適さのイメージが伴い、都市の美しさという田園都市の魅力と田園都市思想が拮抗したことを大島さんは指摘した。コミュニティを作り出すという理念と、実際の都市の両方があって初めて都市はつくられる。田園都市は理念のままに実現されたとは言い難く、問題点としては、人為的に都市をつくりだすことが現実的でなかったことや、財政に苦しんだことが挙げられるという。その上で大島さんは、実際に都市をつくった意義は小さくはないとした。大島さんが特に丁寧に説明したように、ハムステッドの田園郊外においては、自然の溢れるオープンスペースがゆとりのある生活のための場として機能した。こうしたことを通して人々は、快適な暮らしを意識し、求めるようになっていったということだ。田園都市は都市のあり方を問うものとして登場した、と大島さんは締め括った。
質疑応答の時間では次のことが明らかとなった。まず、建築家アンウィンは中世の生活を理想としていたが、必ずしもそこに戻ろうとしたわけではなく、中世の生活というイメージをうまく利用しようとした点は否定できないこと。次に、田園都市の開発は上の者から下の者へ与えるという姿勢でなされたため、生活状況が良くない者たちが現実にどのような改善を望んでいたかは完全には把握されていなかっただろうと思われること。
今日では、「住」環境に自分らしさを求める者も少なくない。発表を通して、現代の「住」環境に対する意識についても改めて考えさせられ、非常に興味深かった。
研究発表②
静岡県平野美術館所蔵「二河白道図」について
発表:広島大学大学院 高村 佳子
報告:広島大学 菅村 亨
「二河白道」と聞いてすぐに何のことかを了解する人は、今日、あまりいないのではないだろうか。衆生の煩悩を示す恐ろしい火と水の河に挟まれた細く白い道がある。その白道こそが阿弥陀を頼み、ひたすらその浄土往生を願う深く清い信心そのものであり、極楽浄土へ到る唯一の道であると説く譬喩(二河譬)である。この譬喩は唐時代に中国浄土教を大成した善導の『観無量寿経疏』に説かれており、善導の教えに強い影響を受けた法然がこの譬喩をもとにした「二河白道図」を案出したといわれている。ただ、浄土信仰者の歩むべき道を示した「二河白道図」は、鎌倉時代以降、阿弥陀浄土信仰の諸宗派で盛んに制作されている。高村さんはそうした「二河白道図」のなかで、古くから知られながら十分な検討がなされていなかった平野美術館所蔵本を詳細に調査し、新たに得た知見をもとにその特質の一端を明らかにされた。
発表では、基本的に水・火の二河、浄土、娑婆(現世)の3つの場面で構成されるといった「二河白道図」の概要が説明された後、平野美術館本の浄土と現世の場面には二河譬に言及されない図様が多数描かれていることが指摘され、それらの要素それぞれについてその典拠と解釈が示された。そうした中で特に報告者の興味をひいたのが〈暴れ馬と猿〉、〈浄土に描かれる金色の橋と娑婆に描かれる柳の木〉の2点である。
〈暴れ馬と猿〉は「意馬心猿」ということばでしばしば語られる、人々の煩悩によって定まらない心を示すものであり、画面最下段に置かれることによって画面全体で語られる話の発端に位置付けられ、それが善導の『観経疏』の序に相当する部分のイメージ化であると解釈された。この図様と『観経疏』の構成とを重ねた解釈はたいへんユニークである。
また、〈金色の橋と柳の木〉を高村さんは、中世における宇治名所図から柳橋水車図の形成への流れの中で形作られてきた、彼岸と此岸との境界性を持つ金色の橋と柳の木に込められた宇治の地に対する共同的宗教的イメージとを重ね合わせた隠喩的意味が入れ籠状に組み込まれたものであり、柳の木は娑婆の場面に描かれることにより現世から浄土へ到る道標となっていると説明された。二河白道の思想と柳橋水車図を結びつける考えはこれまでにも示されているが、具体的な作品の上でそれを読み解いた点は貴重であろう。
PCとプレゼンテーションソフトを活用した発表は複雑な内容がたいへん判り易く整理されて、多くの興味深い指摘がなされたように思う。今後も、例えば、白道を進むのが一般の人ではなく、なぜ僧侶なのかといった疑問をはじめとする、こうした「二河白道図」がどのような場で成立し、受容されたかという課題についても知見を示していって下さることをお願いしたい。
展評「VOCA展 2010」
現代美術の展望 ― 新しい平面の作家たち
2010年3月14日~30日
上野の森美術館
主催:「VOCA展」実行委員会
財団法人日本美術協会・上野の森美術館
広島県立美術館次長兼学芸課長 松田 弘
VOCA展の「VOCA」とは、The Vision of Contemporary Artのイニシャルを繋げたもの。現代美術の新しい視覚と造形を世に問いかけるもので、40歳以下の作家による平面作品のみを対象としている。全国の美術館学芸員、学識経験者、ジャーナリストなどから推薦委員を委嘱し、彼らから推薦された作家がそれに応じて出品している。推薦された作品は選別されず、すべて展示される。今回は35人が出品している。この中から、7名の選考委員によりVOCA賞1点、VOCA奨励賞2名、佳作賞2名、大原美術館賞1名がそれぞれ受賞した。
出品作品全体を観て感じたことは、作家が現実世界とコミュニケーションをとることの困難さである。作家によってはある程度現実世界と接点を持とうとしているものもいるが、作品からはその困難さが逆に伝わってくる。もちろん平面作家が現実のリアルな世界を表現しなければならない、などというつもりはない。二次元のヴィジョンの中に、純粋に色彩と形体と空間と物質的なことも含め新しい表現技術を組み合わせて表現することに全精力と創造力を費やす若い画家たちの誠実さは十分伝わってくる。
しかし、いまさら言うことでもないとは思うが、20世紀のモダニズムによって求められた二次元の造形平面としての絵画の自律性と純粋性(歴史や宗教や政治など現実の世事からの自立)は、それ自身が自己目的化してしまい、絵画が本来持っていたもう一つの力強さ、つまり現実世界あるいは現実の社会とコミュニケーションし、画家が表現者として深いところで、それらとどのように関わっているかを示す力を失わせてきたのも事実である。
近年の具象的な絵画の隆盛は、これに対する反動か反省の現れとも理解できる。実際、今回のVOCA展の出品作品でも、風景や人体など具象的なモティーフが描かれているものがある。しかし、そこに漂うのは実存の喪失かリアルな自分を実感することの困難さ、あるいは特定のメージに仮託し、自分自身を表に出すことを避けるような、ある種の引きこもりのような閉塞感である。この閉塞感こそが現にリアルな現実感であるといえばそのとおりかもしれない。若い画家たちは時代の閉塞感に敏感に反応して、それを造形化しているのだ、といえばそうかもしれない。
しかし、どうであろう。逆に現在の閉塞感をトレンドとして意識し、あるいは無意識に意識し、それに戦略的に迎合している危険性はないのであろうか。実は、出品作家たちは推薦者が全国にまたがっているにも関わらず、例外はあるにせよほとんどが首都圏か愛知、京都などの美大出身者である。彼らはこの現在の美術潮流の真っただ中にいるのであり、それから無縁でいることは相当の個性と自立心が必要であろう。困難なことかもしれない。
だが、私はないものねだりかもしれないが、これらの潮流から無縁で明るく、人間と人生を肯定する野太い個性を観てみたい。その方法として、あっさり、各県から一人ずつの選抜制にしたらどうだろう。グローバル化の進んだ現代では無意味という方もいるかもしれないが、存外私たちの知らない個性が存在しているかもしれない。地方に住み、そこで汗にまみれて生活しているということの意味は、決して小さくないと思うのだが・・・。
インフォメーション
■こども環境学会 2010年大会[広島]「感性のこどもたち」
現代社会では、さまざまな価値観がゆらぎ、従来型の考えが通用しなくなってきている。こども環境についても安全と危険、学びと遊び、家庭と学校などについて、こどもたち自身が、主体的に生活環境を育んでいるという感覚は希薄になっていると思われる。「知性」と対をなすこどもたちの身体に根差した、ことば以前の豊かな「感性」はどこに発揮されているのだろうか。それとも衰退しているのだろうか。あるいは大人が気づいていないだけだろうか。今大会では、「感性」の主体となるこどもの眼差しで4つのテーマ「アートな感性」「空間の体験」「平和への感性」「感じる手」を設定し、分科会とワークショップ、ギャラリーを構成し、共通テーマを大会での提言につなげていく。(案内ちらしから)
日時/4月22日(木)~25日(日)
場所/22日:エクスカーション
(鶴学園なぎさ公園小学校・広島女学院ゲーンズ幼稚園、新広島市民球場)
23日:広島平和記念資料館東館メモリアルホール
24・25日:主会場は広島市まちづくり市民交流プラザと袋町小学校
料金/大会23日~25日共通参加費
・広島市民は無料(資料代は別途)
・市民以外は6000円(当日参加6500円)
問合せ/こども環境学会2010大会[広島]実行委員会 事務局
電 話/082-545-7611
H P/http://www.children-environment.org
■ギャラリーGオリジナル企画展「迫 幸一・モノトーンの世界」
NPO法人アートプラットホームGは2009年の発足以来、広島の戦前・戦後を生き抜いた作家を紹介する企画展シリーズを開催しており、今回は写真家・迫 幸一(1918~)を取り上げる。迫は、独特の抽象表現と叙情性豊かな具象表現で知られ、欧米の著名美術館に作品が収録されるなど、国内外で高い評価を受けている。
日時/4月27日(火)~5月9日(日) 11時~20時
(但し5月2日は休館、5月2・9日は17時まで)
場所/ギャラリーG(広島市中区上八丁堀4-1)
問合せ/ギャラリーG
電 話/082-211-3260
第106号
広島芸術学会会報 第106号
インドネシアの仏像との出会い―
伊藤 奈保子
2006年5月27日早朝、突然の地震がジャワ島ジョグジャカルタ地域を襲った。当時、私は京都の国際日本文化研究センターにおいて学術博士の学位を頂いた後、インドネシアの大学へ非常勤講師として赴いていた。インドネシアにじっくりと腰を据えて、仏像や寺院、レリーフを心ゆくまで見ていたかったからである。
世界遺産に登録されるロロ・ジョングラン寺院をはじめ、多くの寺院や家屋が甚大な被害をこうむった。亀裂の奔った石造寺院は立入禁止、シャベルで家屋の瓦礫を掘り起こし、救援物資を運ぶ日々の中、これからの自分の進む道を考えた。「命を失わずにいられたのは、まだこれからする事があるからではないか。生かされている。」と、強く感じた。日本へ戻り、するべき事を見つめ直そうと思った。
私はかつて、古代美術品を扱う東京の美術商に勤めていた。ある時、インドネシア、ジャワ島出土の金銅仏を手にする機会を得た。驚いたことにその像は、日本の真言宗の本尊である「金剛界大日如来」と同じ形状であった。インドネシアは現在イスラーム教徒が約9割を占め、仏教徒は1割にも満たず、密教が信仰されていた認識はほとんどされていない。けれども大日如来はまさしく密教に属する仏像である。推定制作時代は8~9世紀頃。日本では、最澄・空海らによって密教が中国の唐から日本へもたらされた時期にあたる。すなわち2つの地域において、ほぼ同時期に同じ形態を帯びた「大日如来」が存在していたこととなる。このことは何を意味するのだろうか。私は、それを契機にインドネシアでの仏教、特に密教の痕跡を研究し始めた。気がつくと、会社を退社、再び学問の世界へ足を踏み入れていた。学位拝受後は、迷うことなくインドネシアへ向かった。そして、2006年5月、あの朝を迎える。
ヒロシマは、新幹線で通過するたび、その間、黙祷をささげる場所であった。この地に降りることは、できれば避けたいと思っていた。しかしインドネシアで地震を経験した後は違った。広島大学で教員募集があった時、この地にこそ行くべきだと感じた。チャレンジだった。縁があり、呼んでいただき、今日に至っている。
日本において『インドネシアの宗教美術―鋳造像・法具の世界―』を出版、インドネシアと日本が同時期に密教を信仰していたであろうことを論証し、インドネシアの農村部に小学校を創設する活動を、少しずつだが仲間と始めた。
今年、広島大学で3度目の新しい年を迎えられた。インドネシアの一軀の仏像との出会いは、私をここまで導いてくれている。先のことはわからないが、研究を深めると共に、微力ではあるが、何かを伝えていけるような人になれればと願っている。
(広島大学大学院文学研究科)
第89回例会報告
研究発表①
日本の「在日朝鮮人」表象
~「抵抗のナショナリズム」では掬いきれないもの
発表:県立広島大学人間文化学部 李建志
報告:大山智徳
ある学会発表を聴いた後、凄かったなあと思うのはその発表が聴衆それぞれの思考空間の中にバラバラに存在していたいくつかのイメージや概念が結びついたときか、その発表が契機となって新たな問いが生まれたときではないだろか。言説空間の構築と予感とでも言えるものである。そして、どちらもアカデミズムに豊かな揺らぎと膨らみをもたらす。
さて、今回の李建志さんの発表はご自身が在日朝鮮人という「当事者」でありつつ、いとも簡単に絡み取られる「在日朝鮮人」=「弱者」という構造に渥美清主演ドラマ『豚とマラソン』(1966)を読み解くことでその構造の先の可能性への問いを提起されたのではないだろうか。李さんの緻密な分析がなければ見過ごされてしまうであろう切断面(=異化)の連続の発表にも関わらず、乱暴を承知で私なりに要旨を述べれば(詳細はいずれ、李さんが『藝術研究』で緻密な論を展開されるはずだ。)、「「在日朝鮮人」=「弱者」という構造でとかく語られるエスニック・マイノリィティーへの言説ではあるが、実は「強者」から「弱者」への順序(序数に対応)があり、どこかで恣意的にある記号で、たとえば、「朝鮮人」を指標として切断され、囲い込み、一方的に名づけられ・差別されるという既成の「朝鮮人」差別の構造化の言説に対し、実は差別されているとされる「一様な弱者」の中にも順序があり、より正確には順序がたえず生成し、その「順序」は容易に「強者」としての「差別者」に転換するものであり、一様な囲い込みでは語りえるものではない。私たちが語りうるのは(李さんの発表レジュメ最後にある)「弱者をつくり出すマジョリティの運動批判へ」」というものではなかったか(李さんは「強者」という概念ではなく、「多数者」「マジョリティ」という概念を使っておられる)。
発表後のフロアーからの質問は4つあった。一つは近代の三角形(作者/作品/読者)にのっとった質問で、監督(作者)は解釈者(読者)である李さんほどマイノリティ差別を意識して製作したのだろうか、というもの、二つ目は李さんの発表が表象分析であることの確認、そこには表象と現実に人々に生きている社会との直接性と代補性の関係、もっと端的には表象分析の現実変革可能性を問われた質問、三つ目は「弱者」の対概念として容易に「強者=国家」と考えがちだが、実は「国家」ではなく「多数者」と言うところに李さんの権力概念の推移に新しさを発見したとのコメント、最後に「解放」の視点はあるのか、との社会学的な観点からの質問である。
これら聴衆それぞれがそれぞれの問題意識にからめて極めて刺激を受けたことは明白である。どうやら李さんの発表は本報告の最初に述べた私のみならず、聴衆にとっても「凄い」発表だったようである。感謝しつつ報告を終えさせていただく。
研究発表②
マッキアイオーリ後期における浮世絵版画の影響
『―1870年代以降のイタリア絵画空間と葛飾北斎「三つわりの法」―』をめぐって
発表:ふくやま美術館 谷藤史彦
報告:広島大学大学院 桑島秀樹(美学芸術学)
「未来派」以前の19世紀後半のイタリア近代画派で、しかも浮世絵の手法と関係あり、と聞いてその画派にピンときたとすれば、かなりの美術史通だ。谷藤氏の発表はご自身が担当された「イタリアの印象派 マッキアイオーリ展」(2009年10-11月福山ほか巡回、なお、本展総合企画者F. ディーニによる原題はRealism)に拠るもの。30年前に新宿伊勢丹で紹介されて以来の大回顧展である。「マッキアイオーリ(Macchiaiori)」すなわち斑点派。このフィレンツェに集った若き画家一派は、1855年のパリ万博でバルビゾン派にまず驚き洗礼を受けた。その後「リアリズム」「印象派」と続くモダン都市パリの先端的芸術潮流に身を委ねる。氏が強調するのは、1870年以降の彼ら後進のモダン画家たちが出遭ったのは―「斑点派」から連想される―印象派的筆触以上に、むしろ風景を捉える浮世絵版画的「三つわりの法」だった、と。簡単にいえば「三つわりの法」とは、消失点が1つの一点透視図ではなく、消失点が2つあるもの。消失点同士の距離が画幅の三分の一以上を占め、「消失圏」が画面中央よりやや高めに配されることが多い。たとえば北斎の「東海道五十三次」に特徴的なそれだ。マッキアイオーリにはまた、扇子を手にする貴婦人、見返美人的な後向き女性、前景の景物をぐっと手前に大きく描いた無中景の遠近描写も見られる。 彼ら一派は、芸術の都パリで「ジャポン」的要素に出逢いそれを吸収したといえよう。だが彼らが、日本美術そのものをどれほど知っていて、それらを熱心に探究したかは疑問が残る。氏が強調するのは、マッキアイオーリが熱中したのは異国趣味的ジャポニスムではないということ。パリの画家たちが自家薬籠中のものとした「ジャポン」的要素を、彼らパリのイタリア人たちは、汎用性の高い「万国共通の国際折衷様式」と認識し受容したのだ、と。じじつ、ここで純日本的と思われたものは、江戸期に蘭学とともに伝来した西欧画法(オランダの風景画教本による)と混交された折衷的空間描法だった。だからマッキアオーリの採用した「ジャポン」も19世紀西欧への逆輸入品ともいえ、これも氏が指摘したように、双方向的文化交流の結果だという点も見逃してはなるまい。なお、質疑応答で明らかになったのは以下の点である。1)マッキアイオーリには、ある時期からパトロンがいて一種の芸術家村を形成しそこで制作に励んだ。2)近年のF. ディーニの研究によれば、彼らはパリ画壇の先端的流行だけではなく、本国イタリアのヴェネチア派の影響も受けている。3)先端的国際様式としての「三つわりの法」ばかりでなく、当時の新メディアたる写真術への接近もあった(評者註:1839年にダゲレオタイプの発明があり、バルビゾン派も早くからこの技術を取り入れている)。こうした点を加味すれば、彼ら一派はまだまだ面白いイタリア・モダン画派といえよう。氏には是非また、「続マッキアイオーリ展」を企画していただきたい。
広島芸術学会第23回大会報告
研究発表②
中村不折がパリでみつめたもの ―滞欧作品を通して
発表:神戸大学大学院 南出みゆき
報告:広島女学院大学 末永 航
発表者の南出さんは神戸大学大学院博士後期課程で美学を専攻され、近代日本の画家・・書家として活躍した中村不折について研究を続けている。不折はまた、正岡子規の友人でもあり、夏目漱石の『吾輩は猫である』の挿絵を担当したことでも知られている画家である。
今回の発表は1901年から05年までの不折のフランス留学時代に焦点をあてたものだった。中でも南出さんが注目した点は二つあり、一つがアカデミー・ジュリアンでのデッサン修行、今ひとつが近年丁寧な研究成果を付して公刊された、パリ在住の日本人たちの親睦会の雑誌『パンテオン会雑誌』に寄せた不折の作品である。
前者についてはデッサン作品がアカデミー・ジュリアンの機関誌に優秀作として掲載されるなど、フランスのアカデミックな美術教育をしっかり身に付けていたことが示され、後者では江戸の文人的な「席画」風のくつろいだ雰囲気に、パリであればこそ日本的なものを求めた日本人たちの気持ちを読み取った。
今回のテーマについての綿密な資料探査からは発表者の篤実な研究態度がうががえ、充実した発表であった。文学や日本美術史の専門家も会場にはおられて、それぞれ興味をもって質問をされていた。広島芸術学会らしい集いで、発表者にも新鮮な経験ではなかったかと思う。
しかし、今回取り上げたデッサンと戯画は不折の画業の中で中心的な作品ではない。こうした要素がこの画家の全体像の中でどのような意義をもっているかは、まだあまり明確になっていないように感じられた。多くの画家を育てた太平洋美術学校の校長としても活躍し、芸術院会員にもなっている不折は、不遇の画家だったわけではない。漢籍の教養も深く、日本画も能くした多彩な人物である。さらに多くの作品分析と交友関係の探索を続けられ、近代日本の美術史の中でたいへん興味深い位置にいたこの画家について、これからもつぎつぎと新しい知見を与えてくださることを期待したい。
お知らせ
(1)『藝術研究』への投稿について広島芸術学会では研究情報誌『藝術研究』への積極的な投稿を求めています。内容は、広く芸術文化に関する研究論文や自由な論考等です。締め切りは、3月末日です。
詳しくは上記『藝術研究』最新号「投稿規定」をご参照ください。或いは7頁に掲載しております問い合わせ先・青木までお尋ねください。
(2)広島芸術学会の後援を得て、下記の二つのシンポジウムが開催されます。皆様に、その内容をご紹介すると共に、ご案内いたします。公開シンポジウムですので、どなたでも出席は可能ですし、資料等も無料で受け取れます。場所は、広島大学の東広島キャンパスです。どうぞ、興味・関心をお持ちの方は、足を運んでくださいますよう。こちらも詳細については7頁に掲載しております問い合わせ先・青木までお尋ねください。
■美学会 西部会 第277回 研究発表会 当番校企画
日時:2010年2月27日(土) 16時40分 ~ 18時
会場:広島大学・東広島キャンパス 学士会館2階
公開シンポジウム 美的カテゴリー論の新たな展開
-多様な美意識を生きる/多文化・多言語の中の美的経験-
司 会 青木孝夫(広島大学)
パネリスト 松﨑俊之(石巻専修大学) 「美的特性に関する階層構造理論」
パネリスト 濱下昌宏(神戸女学院大学)「日本美学の範疇論の非論理学性」
企画趣旨
わびやさびをはじめ可愛いが現代日本の美意識を示すものとして内外で注目されたりする。そこには日本文化への思い込みもあるだろう。著名な九鬼が男女間の微妙な「いき」を日本の美意識を代表するものと考えた背後には、軍事の時代への抵抗もあっただろうが、それが<日本>の民族的伝統の強調になってしまうのには複雑な歴史的思想的背景もあるだろう。
だが、そもそもわびや幽玄や可愛いが、倫理的でも政治的でも、況んや経済的でもない美的カテゴリーであるのは、どういう仕組みによるのだろうか。考えてみれば、美的体験を<美的>として把捉する仕組み、美的対象を<美的>とする認識の構造は、どうなっているのだろうか。
美的カテゴリー論は、西欧思想圏で18世紀に美と崇高に達した後、美・崇高・フモールの3類型を中心に多彩に展開された。日本では昭和の前半に活躍した大西克禮が西欧的ないし普遍的な美的カテゴリーのサブ・カテゴリーとして、あはれ・幽玄・さびを研究した。その後、美的範疇論は取り上げられることも少なかったが、時代は変わりつつある。
自然や日常の生活に於ける美が注目されるなど、藝術的体験に限定されない美的な経験の豊穣さと多様さへの注目は現代を特色付ける性格である。もとより美意識や美的カテゴリーの展開される文化圏は、西欧だけではない。他の文化圏でも、歴史や風土を通して、美意識は育まれてきた。現代の状況下では、多様な美意識が、それぞれの文化的な風土、社会的な状況に即して認められよう。それぞれの文化圏に於ける美意識は、言語の歴史的社会的使用の美的な結実として確認されもしよう。
ヨーロッパの展開した美的カテゴリー論の遺産を継承しつつも、その軛から放たれて、一方で多文化また多言語に即して、また他方で藝術を越えた対象領域に於ける美的経験に即して、新研究が展開している。現代の状況に於ける美的カテゴリー研究の再考/再興が痛感される。
上記の観点から、美的カテゴリーの歴史的文化論的考察について先端の研究者である濱下昌宏氏、美的対象性の哲学的考察について松崎俊之氏をお迎えし、ご報告をお願いしている。
■第16回 日韓美学研究会 :第5回 東方美学研究会
東アジアの美学と藝術 合同国際研究集会
公開シンポジウム
東アジアの自然と環境:藝術は何をどう表現してきたか。
日時:4月3日 15時半~18時
会場:広島大学東広島キャンパス 学士会館 2F
主旨
東アジアの者にとって美しいものは藝術のみならず何より自然ではなかったでしょうか。しかるに近代西欧では、美的なものを藝術という文化領域に限定して研究してきました。その歪みを矯正する新しい学問が西欧から発して東アジアにも及んでいます。しかし、山水思想や山水画また田園詩などの藝術的伝統は、中国から朝鮮・日本に及んで久しいものがあり、東アジアの文化的共同体の母胎を形成しています。現代、問われている環境、とくに自然環境や都市環境などに関する文化的見方は、藝術や美意識の形でどのように形成されてきたのでしょうか。東アジア内/外の視点から、その解明を目指し相互の対話を深めます。
パネリストに専門的な研究家らを迎えて開催の予定です。
なお発表や質疑応答等には、基本的に翻訳・通訳等が付きます。
主催: 東方美学会 日韓美学研究会 広島比較美学研究会
お知らせについての申し込み・問い合わせ先
広島大学大学院 総合科学研究科・人間文化研究講座 青木 孝夫
Eメールはこちら
電話:082-424-6333(研究室直通)
ファックス:082-424-0752(講座連絡室)
住所:〒739-8521 広島県東広島市鏡山1-7-1
イベント案内
(財)東広島市教育文化振興事業団企画展
■版画と彫刻
バルラッハ X コルヴィッツ X 一鍬田 徹
日時:2010年2月2日(火)~21日(日) 10時~18時(会期中無休・入場無料)
会場:東広島市民ギャラリー
(東広島市西条町御園宇7202-5 フジグラン東広島2階)
http://home.hiroshima-u.ac.jp/thitoku/index.html
ふくやま文学館特別企画展
■戦争の世紀を生きた詩人「原 民喜展」
日時:~3月22日(日) 9時30分~17時(入館は16時30分まで)
会場:ふくやま文学館(福山市丸之内一丁目9-9 TEL084-932-7010)
休館日:月曜日 ただし、3月22日(月・祝)は開館
料金:一般500円、20名以上の団体は一人400円、高校生までは無料
関連イベント(会場はいずれもふくやま文学館)
※ギャラリートーク
日時:①2月14日(日)15時30分~
②3月6日(土)13時30分~
展示資料についての説明。鑑賞券が必要。解説は広島花幻忌の会会員
※原 民喜を偲ぶつどい
日時:3月14日(日) 13時30分~
講演会「原 民喜と遠藤周作」 竹原陽子(広島花幻忌の会)
聴講無料。定員80名。電話で申し込み
第105号
広島芸術学会会報 第105号
<東アジアの現代音楽祭2009 in ヒロシマ> を振り返る
馬場有里子
去る10月3日、4日の2日間にわたって、広島芸術学会・現代音楽プロジェクトの共同主催によるコンサートとシンポジウム、<東アジアの現代音楽祭2009 in ヒロシマ>が、アステールプラザオーケストラ等練習場にて行われた。初日のコンサートは、日本から3人、東アジアから9人、計12人もの作曲家の作品が、総勢28人の演奏者(うち芸術学会会員5名)によって演奏される、非常に大がかりなものとなった。日本人作曲家の3人は、世界的にも著名な湯浅譲二、当会会員で音楽監督を務めた伴谷晃二、そして広島出身の糀場富美子。これに韓国、中国、フィリピン、台湾、香港の作曲家の作品が加わり、きわめて個性的かつ多彩な音楽世界が繰り広げられた。現代の音楽に触れる機会の少ない広島でこうした企画が行われたことの意義は大きい。また、演奏の合間に作曲家らの直接のメッセージが聞けたことも、とかく作り手と聴き手の乖離が問題にされる現代音楽にあって、貴重な機会だったのではないだろうか。
2日目は、湯浅氏による基調講演に続けて東アジアからの作曲家を交えてのシンポジウムが行われ、それぞれの音楽観、世界観をめぐる討議が聞けた。そのなかで、個人的に特に印象深かったのが、現代音楽のおかれた状況をめぐる陳永華氏(香港)の発言だった。記憶に残る主旨はおおよそ以下のようなものだ。すなわち、モーツァルトやバッハなどの大作曲家の作品には、現在でも広く演奏され、人々に愛されているものが数多くある。けれども、現在まで残ってきたそれらの傑作は、何百曲と書かれた彼らの作品のたった1割程度であるに過ぎない。翻って、現代音楽はまだ時による選別を受けていないのだから、現代の聴衆が、たまたま足を運んでみた現代音楽の演奏会でもし一つでも気に入った曲に出会うことができたなら、それはむしろとてもラッキーなこととも言える。だが不運にしてその逆でも、どうかがっかりしないでほしい、と。そして陳氏は、どんな曲が後世に残っていくのか、それを決めていくのは聴衆なのだ、と続けた。その意味で、聴衆の皆さんの責任はとても大きい、と。
確かにそうだ。事情はこと音楽だけに限らぬかもしれないが、ともあれ現代音楽の未来のためには、聴き手の私たちがなじみある既知の世界だけに閉じこもらず、未知の美や面白さに出会う好奇心を持ち続けていくことが必要なのではないだろうか。
(エリザベト音楽大学講師)
第88回例会報告
東アジアの現代音楽祭2009 in ヒロシマに参加して
報告:エリザベト音楽大学 魚住 恵
「東アジアの現代音楽祭2009 in ヒロシマ」での1日目のコンサートにおいて、招待作曲家である湯浅譲二先生の《内触覚的宇宙Ⅳ―チェロとピアノのために―》を、チェロのマーティン・スタンツェライト氏(広島交響楽団首席チェロ奏者)と共に演奏させていただくという貴重な機会に恵まれた。
率直に言えば、現代音楽は一般的には難解だと敬遠されがちであろう。それは、次にどんな高さの音がくるのかほとんど予測不可能であり、親近感がわきにくいという点が原因の一つだと思う。しかし「音」そのものが、例えば言葉の代わりとなって聴く側に何かを伝えるという点では、調性を持つ音楽作品となんら変わりはないはずである。そのため準備段階から最も重視したのが、いかに分かりやすく聴衆に伝える演奏に仕上げるか、ということであった。この作品が持つ独特な音の世界を、スタンツェライト氏と共に、自分たちの内面から手探りで作り上げていくような作業は苦しくもあり、しかし楽しいものでもあった。練習を重ねるにつれ、この作品の持つ美しい、心を動かされる響きが聞こえてきて、少しずつでも自分たちなりの音の「宇宙」を作っていくことができたと思う。
コンサート前日の夕方には湯浅先生がリハーサルに立ち会って下さった。我々の演奏解釈に対して、作曲家ご自身から直接、貴重なアドバイスを頂ける機会である。そして、そこで湯浅先生から出された音色の要求は大変に厳しいものであった。その要求を満たすためにはさまざまな事柄をわずか一晩で変えなければならなかったのだが、そのおかげで自分が思い描いていたよりもはるかに多彩な音色の世界に気づかされた。そしてコンサート本番はスタンツェライト氏の伸びやかなチェロの音色に助けられ、その瞬間にしか生み出すことのできない音の世界を構築することに集中できた。演奏終了直後、湯浅先生から「良かったですよ」と仰っていただき、非常に安堵したことを覚えている。
ところで、このコンサートでは各曲の演奏後に作曲家本人による解説を聴くことができ、これが現代音楽になじみの薄い聴衆から好評であった。さらに現代音楽の譜面に対して興味がわいたという意見もあった。当日は楽譜の販売も行われていたそうだが、「ちょっと中を見てみたい」と思った人々もいたのではないか。販売とはまったく別に、各作品の楽譜の一部分のみを絵画のように展示して自由に見てもらうスペースを作るか、あるいはプログラムに掲載するという案はいかがであろうか。聴覚と視覚からくる刺激を融合させると面白いと思う。
終わりに、今回のコンサートに演奏家の一人として参加するという経験をさせていただき、大変ありがたく、光栄に思っている。湯浅先生、音楽監督の伴谷先生をはじめ、コンサートを支えて下さったすべての方々に、心より感謝申し上げたい。
東アジア作曲家の多彩な創造力
報告:広島市立大学 関村 誠
10月3日17時開演のコンサートⅡ。まずは呂文慈氏の「去来」から始まった。演奏はフルートであったが、音楽素人の私には尺八の音かと聞き違えてしまうほどの曲であった。「世界における死と輪廻」を表したものと呂氏は述べているが、まさに生と死の営みの厳粛さが感じられた。西洋の楽器からこれほど東洋的な表現ができることをあらためて考えさせられた。その意味で、コンサートⅡの始めに演奏されたこの作品は、今回の音楽祭において多文化社会の共生を考えていく上でも象徴的であった。
しかしこのコンサートでは、同様の作品が並んだわけではない。現代のアジアの作曲家たちの現在の多様な活動を紹介するものとなっている。作曲者による作品ノートが配布されたのに加えて、馬場有里子氏が曲ごとに作曲者にインタヴューして的確にコメントを引き出してくださったのが、各人各様の作曲の意図を理解する上で役立った。
作品からはアジア的な雰囲気は直接には感じられないが、アジア人として現代音楽において西洋の楽器による可能性を真摯に追求している作品として、姚恒璐氏や朴銀荷氏のものを挙げられるだろう。朴氏の作品はキリスト教の「ペトロの否認」を主題としたものである。糀場富美子氏の作品「ぽるとがるぶみ」は17世紀のパリでベストセラーになった艶書をもとにしており、メゾソプラノでの日本語に訳された言葉で表現され、ストーリーをたどりながら声としての現代音楽に引き込む力を有していた。李鎭宇氏の作品は、「ヴァイオリン、チェロとピアノのための三重奏曲」であり、同様にアジア的な音楽という意識はないものではあるが、そこには李氏の持っているアジア人としての独特の強さが滲み出ているように感じた。陳永華氏の「オリエンタル・ガーデン」は、パウル・クレーの同名の絵画作品から発想を得ての作品である。クレーはアラビアやエジプトの庭園を参考にしていたのだが、陳氏は「もしもクレーが中国に行っていたら、何を描いただろうか?」という問いを抱きつつ作曲したという。そうした氏の作品ノートを読みつつ聴いてみると、アジアまでも含めた東洋の香りが漂うような作品であった。
伴谷晃二氏の作品「余白の祈り」では、音の持つさまざまな表情を(音のない静寂をも含めて)堪能することができた。このコンサートでは唯一の東洋の楽器である箏の演奏が印象的であった。そして何といっても、圧巻は最後の湯浅譲二氏の作品「内触覚的宇宙Ⅳ」であった。コンサートの翌日に行なわれたシンポジウムでも湯浅氏が述べられたコスモロジーの反映としての音楽の実践がそこにはあり、畏怖や祈りという人間と宇宙との交感の表現を受けとめることができたように思う。
総じてこのコンサートでは、曲目は実に多彩で、東アジアの現代音楽といっても一様なものではないと、感じるとともに、今後の東アジアの作曲家たちの創造力のさらなる展開に大いに期待を持つことができた。
現代音楽との邂逅
報告:広島大学 袁 葉
「東アジア現代音楽祭」の開演前、音楽に疎い私に、感想文の依頼があった。恥を忍んでお引き受けしてみた。
一曲目は台湾のアルト・フルートの作品。…南国の幽谷に囁く葉風の音、竹林を透かして見える夕暮れの寺院。時おり、鳥の群れがこの「画面」を掠め飛ぶ…。私なりに音を色彩に例えるなら「緑」である。のちの作曲家自身の解説では、生と死の輪廻を表現したのだそうだ。
二曲目は中国のマリンバとピアノの作品。…渓谷を流れる水、急であったり、緩やかであったりしている。中国音楽のイメージではなく、大自然の喜びを感じさせる音。色彩なら水色。作曲家によると、「流れる雲と水」を表現した。雲とはどんな音がするのだろう?
三曲目は韓国のヴァイオリン、チェロ、ピアノの作品。リズム感のあるメロディーから、汽車の車窓の風景―秋の田園、山並、小川…が目に浮かぶ。そこに朝鮮半島のモノクロの歴史的映像が現れては消える。色彩なら緑・黄色・土色と白黒。作曲家は、楽器のための三重奏曲を作ったまでだと、主題には触れなかった。
四曲目はメゾソプラノの歌曲『ぽるとがるぶみ』―17世紀ポルトガルを舞台にした小説の、仏軍大佐を慕う尼僧が書いた3通の恋文から構成されている。情熱から嫉妬、悔恨へと展開してゆく。透き通った打楽器の音色は、日本語訳の歌詞を一つひとつ引き立てて、力強く胸に響いた。二人の出演者の衣装は黒だが、音色は紅だ。
五曲目は香港のイングリッシュホルン、ギター、ヴィオラによる『オリエンタル・ガーデン』―躍動感のあるリズムに、花園の中で戯れる恋人たちの姿が目に浮かぶ。どことなく、ジャスミンの香りが漂う…。色彩なら緑に点在するさまざまな中間色。クレーのパステル画「オリエンタル・ガーデン」を音楽で表現したそうだ。
六曲目はオーボエ、バスーン、十七弦の筝による『余白の祈り』。広島の音大教授の作品なので、ついヒロシマを連想した。特に、凛とした筝の音色が静寂を破ると、被爆地からの訴えを感じた。だが、のちの説明では、「"余白"ともいえる静寂な自然界に点在する音、音符、またはさまざまな音の層などをコラージュ風にパレットとして捉えた」という。
七曲目は韓国の作品だが、西欧風のメロディー。『聖ペトロ』-嘆く聖人ペトロの心境を詠う詩を表現した。叩きつけるようなピアノの弾き方を見て、作品には無念と憤りが込められていると感じた。
最後の曲は日本の作品『チェロとピアノのための内触覚的宇宙Ⅳ』。立ち上がってはピアノの弦を直接弾き,一方で鍵盤でも弾く演奏スタイルは初めて見た。これが内触覚的? 玄妙な世界への旅立ちのように聴こえる。色彩はシルバー。
あれから一か月が過ぎた今でも、あの時のイメージが鮮明に蘇る。
「音楽は流れて消えるものだ。白紙状態で聴けばいい。心に残るものがあれば、それこそ自分にとって良い音楽だ」―音楽祭の基調講演での言葉が耳に残る。
生の根源から響く音楽の未来へ
──シンポジウム「東アジアの音楽とコスモロジー」を聴いて──
報告:広島市立大学 柿木伸之
広島における東アジアの新しい音楽の祭典を締めくくったのは、「東アジアの音楽とコスモロジー」をテーマとするシンポジウムであった。前日の演奏会が、新しく創造された音楽が響き始める場を開くものであったとすれば、このシンポジウムは、さらに新しい音楽が生成していく未来へ向けた思考を交換する場を開くものと言えようか。そして、この思考の道筋を最初に明示したのが、今回の音楽祭の招待作曲家である湯浅譲二氏の基調講演「今日、音楽創造にあたって考えるべきこと」であった。その講演は、長年にわたる作曲活動とコスモロジー概念の探究に裏打ちされた仕方で、音楽そのものへの透徹した省察を提示するとともに、より自由な、しかしひたすら人間存在の深奥へ向かう厳しさも併せもつ音楽創造の未来を指し示していた。
湯浅氏によれば、たしかに音楽は一面で音響エネルギーの時間軸上の変遷として把握することができるが、音楽は同時に、作曲家のコスモロジーの反映としても立ち現われてくる。ここでコスモロジーとはひとまず、一人ひとりが生い立ちや経験などによって形づくる世界(コスモス)への見通しと考えることができようが、それは各人が生まれ育った文化圏に応じて異なっていようし、究極的には各人各様のものであるはずである。そして、そのようなコスモロジーが音に対する感性としても表われるとするなら、音楽は複数の音のハーモニーを基盤とする西洋音楽だけではありえない。日本の伝統的な音楽に見られるように、一つの音が揺れながら変成していくのも音楽でありうる。
それゆえ、もはや音楽の一定の理論的枠組みから出発することではなく、むしろ自分自身のコスモロジーに根ざした音楽的語法を時間軸上に配置していく統語論的な行き方が、音楽創造の基軸になっていくという。ただし、それぞれの作曲家のコスモロジーは、その深層において人間の根源的なコスモロジーにも連なっている。湯浅氏によれば、そこに触れる音楽こそが聴き手の心を動かしうるのだ。そして、そのような音楽を書くためには、自分のコスモロジーを人間の生の根源へ向けて、音楽以外の側面からも掘り下げていかなければならない。シンポジウムの議論を通じて、そのことの重要性に関しては緩やかな合意に達したようだ。
また、参加者の一人からは、聴衆は新しく生まれる音楽をどのように聴きうるのか、という問いが投げかけられた。これに対して、湯浅氏が先入観なしに聴くことを説き、さらに香港の作曲家陳栄華氏が、音楽は聴き手の心に残るところに存在するのであり、心に残る音楽を選び取っていくのは一般の聴衆なのだと述べていた。したがって陳氏によれば、聴衆は新しい音楽の将来に対して責任を負っている。当然ながらその責任を果たすためにはまず、新しい音楽が響き始める現場に立ち会わなければならない。今回の「東アジアの現代音楽祭」が、広島の聴衆が新しい音楽の生成に触れる機会を増やす契機となることを願っている。
投稿・エッセイ
バークの肖像(その2)
―カトラス・チェアと刑罰法と従姉ナノ・ネーグル―
広島大学大学院准教授 桑島秀樹(美学芸術学)
2001年秋、ようやくE・バーク〈崇高〉の故地、愛蘭国南部マンスターへの渡航が叶った。なんとか父祖伝来の地ブラックウォーター渓谷に辿りついたが、牧用犬に追い立てられ途方に暮れることがあった。そのとき僕を救ってくれたゲール語教師ベティと娘キーラに「ナノ・ネーグル・センター」まで送ってもらう。ここは、バーク母方の従姉ナノ(本名オノラ)・ネーグル―電子版Irish Independent紙(2009年4月29日)は彼女を現代でも影響のある教育者と呼ぶ―の生家跡に建てられた尼僧院兼資料館である。少年バークの乳母役を勤めた十歳年上の彼女は、カトリック刑罰法下で―禁令もなんのその―フランスに留学、帰国後はダブリンに女子慈善学校を開き「灯火の女」と呼ばれた女性。現在世界に広がるカトリック系「ナン・オブ・プレゼンテーション・シスターズ」の創設者だ。「福祉」「寛容」「女性保護」を旨とする。
2008年3月、再び―こんどは地元郷土史家のミホールとダンと―訪れたとき、このセンターは新博物館のオープンを控え資料展示に忙しかった。俗衣の尼僧フランシスが展示予定の品々を説明してくれるなか、ミホールが目ざとく見つけたのは、真四角の革張座面を持つ一脚の椅子。質実たる機能的デザインで、座面の角が中央に張り出している。帰国後ミホールが興奮ぎみに教えてくれたのは、それが「カトラス・チェア」だったという事実。17世紀中頃、武人の正装では海戦用の長い片刃サーベル(=カトラス)を佩いた。これはそうした武人用の椅子なのだ、と。だとすると、この椅子がなぜナノの遺品のなかにあるのか? 刑罰法下の彼の国では、カトリックに公教育は許されなかった。むろん武具甲冑の類いもご法度。だがこのネーグル家は、英ジェームズ王朝で重用されたノルマン・アイリッシュ。かつて一族の祖リチャードは、ジェイムズ二世の司法長官にまでなっていた(娘は、国教徒植民の大詩人スペンサーの息子に嫁ぐ)。フランシスによれば、椅子は長くネーグル家に伝来したもの。これが17世紀から18世紀初頭のものだとすると次のことが予測されよう。ネーグルの男たちは、刑罰法下でさえ、豪農士族つまり帯刀武人として土地を支配し続けたのではないか。刑罰法の「抜け穴」を利用しジャコバイトの抵抗を支えたのは、まさにネーグルのような「南部」のアイリッシュ氏族ではなかったか、と。さらに当時の出稼ぎ的傭兵の習慣こそ、庶民カトリックが「合法的に」軍事技術を学ぶ機会ではなかったか、と。1765年に英国会議員となって以降のバークは、意識的にカトリックとの関係を隠した(妻ジェーンのカトリック信仰さえ醜聞となった)。しかし母方ネーグル家との密月関係をみれば、バークの思考の根に故国の民への熱い想いがたぎっていたことは明確だ。政治家となった彼が精力的に取り組んだインド擁護(東インド会社の蛮行弾劾)もまた、その裡にアイリッシュ・カトリックへの強い共感が潜んでいる。
イベント案内
オーボエリサイタル「上田愛彦」
オーボエ奏者で広島芸術学会会員である上田愛彦氏のリサイタルです。上田氏は桐朋学園音楽高等学校を卒業後渡欧し、旧西ベルリン芸術大学で6年間研鑽の傍ら、ベルリン交響楽団など多方面で演奏活動を行っています。プログラムは下記の通り。
★H.ブロドゥ…歌劇「ランメルモルのルチア」より
“狂乱”の場のテーマによる幻想曲
★C.コラーン…コンクール用のための独奏曲
★テレマン…朗読とオーボエ・ソロによる“ファンタジー”
高杉 稔 脚本(オーボエ独奏のための幻想曲より)
★J.シュターミッツ…オーボエ協奏曲 ハ長調
★出田敬三(平成音楽大学学長)委嘱作品(初演)…オーボエと弦楽合奏のための協奏曲
「熊本民謡ファンタジー」 他
日時:2010年1月23日(土) 16時~(開場は15時30分)
会場:広島県民文化センターホール
入場料:一般3000円、学生2000円
チケット取り扱い:ヤマハミュージック中四国 ヤマハ広島店
広島アーツ楽器、デオデオ本店、
カワイミュージックショップ広島など
問い合わせ:Liebeの会事務局 TEL082-282-3096
Official Site:http://suedama17911205.jimdo.com/
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広島芸術学会事務局からのお知らせ
※第90回例会について
日時:2010年2月13日(土)(予定)
場所:未定
発表者①高村桂子(広島大学教育学研究科博士後期在学中・当学会学生会員)
分野:日本絵画史(浄土信仰の絵画)
②大島葉月(広島大学大学院総合科学研究科)
発表テーマ:近現代イギリスにおける景観美と都市構想
※「広島芸術学会の委員選挙に関する規定(案)」を同封しています。ご質問、ご意見がございましたら、事務局・大橋までお願いします。締め切りは1月31日。
FAX:082-506-3062
Eメールはこちら
第104号
広島芸術学会会報 第104号
東アジアの現代音楽祭2009 in ヒロシマ~作曲家の現在~
音楽監督 伴谷晃二
[日本現代音楽協会創立80周年記念プレイヴェント]
日本、韓国、中国、台湾、香港、フィリピン等の国々の現代作曲家との交流をとおし、世界における文化・芸術のとりわけ東アジアの潮流に触れることにより、互いに多文化社会の共生を理解し合い、また広島を中心とした中国・四国地方のみならず、日本の現代芸術の発展に貢献・寄与することを目的とします。企画・内容は下記のとおりです。2009年10月3日(土)「コンサート」(作曲作品展:第1部と第2部;入れ替え制)、および4日(日)「基調講演(招待作曲家;湯浅譲二先生)+国際シンポジウム」を行い、<ヒロシマからのメッセージ>として全国的および世界的な展開を図ります。今回のイヴェントを通して、音楽と他の芸術諸ジャンルとの共有領域を模索することができれば幸いです。
公演名:「東アジアの現代音楽祭2009in ヒロシマ~作曲家の現在~」
日 時:2009年10月3日(土)と4日(日)
会 場:アステールプラザ・オーケストラ練習場
主 催:広島芸術学会・現代音楽プロジェクト(共同主催)
共 催:ひろしまオペラ・音楽推進協議会、(財)広島文化財団
協 力:日本現代音楽協会、中国・四国の作曲家、エリザベト音楽大学
協 賛:(株)ヤマハミュージック中四国、ブレーン(株)他
後 援:(社)日本作曲家協議会、東京音楽大学、広島文化学園大学他
<プログラム>
1.コンサート:2009年10月3日(土)(入場料:2000円/入れ替え制)
第1部14:00~16:00
第2部17:00~19:00
LEE,Gene Woo(韓国)、LEE,Boknam(韓国)、PARK,Euh-Ha(韓国)、KIM,Joonghee(韓国)、LU,Wen-Tze Grace (台湾)、CHAN,Wing Wah (香港)、TOLEDO,Chino(フィリピン)、YAO,Henglu(中国)、GUO,Yuan(中国)、湯浅譲二(日本)、糀場富美子(日本)、伴谷晃二(日本)の室内楽作品(1人~3人の演奏者;2003~2008年の作品)を発表。演奏は広島交響楽団コンサートマスターおよび団員、エリザベト音楽大学、広島文化学園大学教員他 広島芸術学会および現代音楽プロジェクト会員 。
2.基調講演+国際シンポジウム:2009年10月4日(日)(入場料:1000円)
「東アジアの音楽とコスモロジー」
基調講演<今日、音楽創造にあたって考えるべきこと>:湯浅譲二 14:00~14:30
国際シンポジウム:伴谷晃二・能登原由美(日本;コーディネーター)
14:45~16:30
湯浅譲二(日本)、LEE,Gene Woo(韓国)、LU,Wen-Tze Grace(台湾)、CHAN,Wing Wah (香港)、GUO,Yuan(中国)
広島芸術学会第23回大会報告
研究発表①
ウイリアム・ブレイク『ヨブ記』挿絵における再構築された主題
~旧約聖書の人物が反道徳律的キリスト教徒として再生するまで
発表:広島大学大学院博士課程 エリック・パイル(PYLE,Eric Allan)
報告:大山智徳
ロンドン生まれの画家であり、詩人でもあるウイリアム・ブレイク(1757~1827)の『ヨブ記』の挿絵21枚の中から最初と最後の銅版画を取り上げ、通常の理解である神への忍従と謙遜から法悦とヴィジョンへと至る彼固有の解釈を呈示するという発表であった。
報告後、フロアーからはブレイクの幻視体験前後における作品の変化、報告者が日本でブレイク研究を続ける実存的意味、図像学的な意味での朝陽と夕陽の解釈の差異、神と鑑賞者のまなざしにおける左右の意味についての質問等が飛び交った。
「会報」の性格を考えれば、参加者のみならず、参加できなかった「会報」でのみ情報を得られる会員に対して、できるだけ忠実に報告を臨場感溢れる文体で再現すべきかとも考えたが、この内容はすでに、「会報 第103号」で予告されており、いずれ『藝術研究』で論文発表されるであろうことを考え、あえてこの「掟」を破らせていただこうと思う。
それは、報告者パイル氏の困惑とでも言えるような違和感にこそ、彼がブレイクに強く魅了された秘密が隠されていると感じたからだ。
その困惑とは神秘体験の言語化・論文化によっては表せない、むしろ、そうすることで失われてしまう体験に属することだ。ブレイクは幼少期より幾多の幻視を体験している。この神秘体験は彼の啓示的とでも形容できる特異な美術表現や言葉となり、芸術作品として高い評価を受けることになる。この評価があるということとは別に、ある種の神秘体験をした者にしかわからない、あるいは通じない「法悦とヴィジョン体験」(神秘体験)を神秘体験のない多くの人たちにブレイクの作品を通じてパイル氏が最も伝えたい事象なのではないだろうか?
神秘体験を学問上の言説で語り、伝えることで読者に論理的な理解ではなく、体感を求めるという逆説的で原理上極めて困難な学問的営為に果敢に挑戦され続けるパイル氏に、私は後期ウィトゲンシュタインの言語ゲームを「学」として論じるウィトゲンシュタイン学者の困難と同型の苦悩を感じた。
神秘体験を言語化し、論文化するという学問的営為とその途上で幾度となく訪れる疎隔感、簡単に言えば「むなしさ」をパイル氏がご自身の実存とどう調停されていかれるのか、今後のパイル氏に注視するとともに、熱い想いで応援させていただきたい。
その成功が新しい文体の創造とともに誕生することを確信して、「会報」の機能を十分果たしているとは言えないこの奇妙な一文をパイル氏に捧げたい。
研究発表②の報告はまだ届いておりませんので、次号に掲載予定です。
研究発表③
カラーフィールド絵画と大衆文化
発表:広島市立大学 准教授 加治屋健司
報告:広島市立大学 大学院 小西寛之
20世紀を代表するアメリカの美術批評家クレメント・グリーンバーグは、ジャクソン・ポロック、ウィレム・デ・クーニングら抽象表現主義の画家を、モダニズムを担う存在として紹介している。彼は、平面性こそがモダニズムを近代以前の大家たちから分かつものであると強調し、抽象表現主義を装飾的な「壁紙」と区別しハイ・アート(純粋芸術)として論じている。本発表は、そのような彼の主張に反して、ファッションとライフスタイルの雑誌『ヴォーグ』の「芸術のある私生活」と題した小特集で、彼の文章と4枚のリヴィングルームの写真が掲載されているという意外な視点から始まる。
カラーフィールド絵画は、その軽やかさや平面性ゆえに、室内空間を乱すことなく秩序を維持することで、リヴィングルームにおいて互いに干渉することなく、自らを提示しているとグリーンバーグは主張している。またモダニズム絵画を支える社会構造についても論じており、モダニズム絵画とは「労働としての芸術」に他ならないという彼の主張を引いて、大衆文化との関係を浮かび上がらせている。
当時は物議を醸した、モダニズム絵画とモデルを組み合わせて撮影したファッション雑誌から、じわじわ頻繁に美術批評家らの特集が一般雑誌にも掲載されて、消費社会の波に押されて互いの垣根を越えていく。そうした中でグリーンバーグは、モダニズム絵画の色彩の構成に、一貫性の美を見出す。しかしやはり一方で、カラーフィールド絵画を含むモダニズムの絵画は、消費社会に巻き込まれて、変容を被らざるを得なかった。そういった別の視点からカラーフィールド絵画を読み直し、戦後アメリカの社会と芸術の新しい視点を語っている。それは、アートと大衆の入り乱れていることが当たり前になった現代においても、現代の美術を読み解くヒントになるではないかと考えさせられた。
シンポジウム
「東アジアにおける芸術文化と生活」
報告者:大石和久(北海学園大学)
広島芸術学会大会で恒例となっているシンポジウムが、今年度、第23回大会においても開催された。今年度のテーマは「東アジアにおける芸術文化と生活」。日常生活に密接に結びついている東アジアの芸術文化をめぐって議論が繰り広げられた。まず司会の関村誠氏から、このシンポジウムが今年の10月に開かれる広島芸術学会主催「東アジアの現代音楽祭2009 in ヒロシマ」との関連で設定されたことが述べられ、その後4人のパネリストの報告がなされた。
青木孝夫氏は、西洋近代の芸術観とは異なり、東アジアの芸術観においては芸術とは非日常的なものではなく、むしろ日常性と相互融合していると述べ、またこのような事態は、現代においては、そのアート化された日常生活を考えるならば、半ば自然なこととなっていることを指摘した。
伊藤奈保子氏は、密教法具がインドを出発点に、インドネシア、タイ、カンボジア、韓国、日本に至るまで海を通じて流伝して行く様を、法具の形態などを通じて実証的に、また海流の流れから海洋学的に示した。伊藤氏によれば、東アジアの宗教的な共通性はこうして海を経路として形成された側面をもつ。
菅沼亨氏は、浮世絵(錦絵)の誕生と展開には、中国民衆版画が大きな役割を果たしていると指摘する。錦絵の空刷りやきめ出しといった技法に、中国版画の影響が認められる。このような錦絵の例は、東アジアの文化の中心には中国があった、ということが再確認させてくれる。
鈴木榮子氏は、室内装飾としてのいけばなの歴史を紹介しながら、いけばなが植物を生かし、いのちをいきいきと見せ、その個性をあるがままに肯定しながら、全うさせる点がその特徴であると指摘する。日常の生活空間を飾るいけばなは、まさしく芸術と生活が相互に浸透しているケースであろう。
最後に、会場からも多くの質問がなされ、東アジアの芸術概念を炙り出すような活発な議論がなされたことを付け加えておきたい。
現在、グローバル化された世界の中で、政治的にも経済的にも新たな仕方で東アジアの輪郭が浮かび上がっており、このような状況を考慮するならば、東アジアの芸術観とは何かという問いはアクチュアルなものであると言えるだろう。報告者には、上に見たような多様な切り口からなされたそれぞれの報告の中に、このアクチュアルな問いに答えるための何らかのヒントが含まれているように思われた。
イベント情報
■音楽
●無伴奏ヴァイオリンライブ・高橋和歌
日時:10月14日(水)19時~
会場:純音楽茶房「ムシカ」(広島市南区西蟹屋2-2-11)
料金:2500円(前売り2000円)
問い合わせ:音楽のパレット事務局 電話070-5528-0648
*演奏曲目:バッハ 無伴奏ソナタ第1番 ト短調BWV.1001ほか
●尾崎亜美 with フレンズ 加藤和彦 木下航志 in さくらぴあ
日時:10月25日(日) 17時30分~
会場:はつかいち文化ホール さくらぴあ大ホール
料金:6000円 (前売り5500円)全席指定
問い合わせ:広島エフエム放送 電話082-251-2200
■美術
●広島市中心部に「ギャラリーCASA」がオープン!
●イタリアの印象派 マッキアイオーリ 光を追い求めた画家たち
●円空・木喰展 「庶民の信仰」の系譜
日時:~10月25日(日) 9時半~17時
会期中の休館日9月9日(水)、10月14日(水)
会場:奥田元宋・小由女美術館(三次市東酒屋町)
料金:一般1100(900)円、ペアチケット1800円、高・大学生500(400)円、
中学生以下無料 ※( )は前売り料金
問い合わせ:奥田元宋・小由女美術館 電話0824-65-0010
●筆の世界に遊ぶ文化人たち 2009
日時:~11月3日(日) 9時半~17時(入館は16時30分まで)
会場:筆の里工房(安芸郡熊野町)
料金:大人500円、小中高生250円
問い合わせ:筆の里工房 電話082-855-301
●山本美次個展
日時:12月1日(火)~7日(月)
会場:広島そごう本館美術画廊
第102号
広島芸術学会会報 第102号
密かな音楽の愉しみ
作曲家・即興演奏家 寺内 大輔
2007年から、私のウェブサイト内に「密かな音楽の愉しみ」という読者投稿のページを設けている。
日常的で個人的な音の楽しみ方をテーマとし、派手に盛り上がりこそしないが、地味な人気に支えられている。
投稿の多くは、周囲の環境に対して何らかの働きかけをすることによって得られる愉しみだ。
「扇風機に向かって声を出して、音の震えを楽しむ」といった、多くの人の共感を呼びそうなものもあれば、「旅行中のトランクのタイヤが作り出すリズムによって特定の旅情を感じる」など、その人自身にしかわからないであろう個人的な愉しみもある。
他にも、「朝起きて背伸びした時に耳の後ろあたりに響く体内の音を聴く」、「入浴中、浴槽の床を指で擦ってその音を楽しむ」、「階段を歩きながら、近くにいる人の足取りの裏拍になるように歩く」、「自動車の運転中、前の車のウインカーの点滅と、車内で流れている音楽の拍が合うと嬉しい」、「運転中、車内のラジオで流れている歌と一緒に歌う。途中トンネルなどで電波が遮断され聴こえなくなっても歌い続けてみる。トンネルから出てラジオが聴こえるようになった瞬間、続けていた歌がピッタリ合っていると嬉しい」など、約30の興味深い投稿が掲載されている。
これらの投稿に共通するのは、自分自身の感覚・感性への気づきである。また、さまざまなサウンドスケープ*を肌で感じ、そこに自分との関係を見出していくという作業は、「聴く」という行為に潜むクリエイティヴィティの豊かさをも顕わにしてくれる。
密かな音楽の愉しみ―――いささか内向きではあるものの、誰かに聴かせることを目的とした音楽にはない魅力を持ち、人と音楽との関わりの根本を再認識させてくれるものとして、極めて奥深いテーマである。また、こうした愉しみは、人生の幸福感を増すと言っても決して大げさではないだろう。
寺内大輔ウェブサイト
http://dterauchi.com
「密かな音楽の愉しみ」投稿募集中。
*作曲家、R. マリーシェーファーによる造語。「音の風景」と訳せば良いだろう。
投稿・エッセイ
バークの肖像(その1)
―ブリストル陶器と自由と妻ジェーン―
広島大学大学院准教授・美学芸術学 桑島 秀樹
2007年3月、僕は、大英博物館で思わぬ出遭いに興奮した。アイルランド出身の美学者で政治家であったエドマンド・バーク(1729-97)の妻ジェーン(バースの医師ニュージェントの娘)に贈られた、1774年バーク議員当選祝いのカップ&ソーサーを見つけたからだ――後に「バーク・サーヴィス」と呼ばれる優品陶磁器セットの一脚だと判明。工房は英ブリストルで、製造者はリチャード&ジョン・チャンピオン。では、この陶器とバークにはどんな関係があったのか?僕は、ブリストルのクエーカー商人リチャード・チャンピオン(1743-91)の名には聞き覚えがあった。
18世紀中葉のブリストルは、北米やアイルランドの植民地貿易で潤う港湾都市。イングランドでは第二の都市(人口5万)だった。米カロライナとの取引もある非国教徒のチャンピオンは、18世紀商業社会の申し子だったといえよう。他方、バークは、1765年にロッキンガム派ウィッグの政治家として英国下院に登場。68年の再選出後にはロンドン北西郊に邸宅付地所を購入し、「カントリー・ジェントルマン」の階梯を昇りつつあった(70年にはニューヨーク代理人)。
そんな中、陶器製造の1774年、バークに大きな転機が訪れた。秋の議会解散と同時に前選挙区からの選出権を失い、紆余曲折の末―ブリストルへの招請話もあったが頓挫―ロッキンガムの地元ヨークシャー・モールトンからの出馬となった。北の無風区モールトンでは無理なく当選。しかし当選確定後、ブリストルのチャンピオンから正式な招請状が届く。バークは夜を徹し馬車を南へ走らせた。結果、大商業都市での劇的な立候補そして当選を迎える(到着・当選後の有名な演説が残る)。英国国会議員としての彼は、米・愛・印など植民地人への市民権付与と自由競争貿易の必要を説いていた。彼の思想は、新興ブリストル商人にとって理論的支えだったのである。
じっくりカップ&ソーサーを観てみよう。「エナメル色陶材」「金メッキ」仕上げの高磁器。つまり高温焼成の真磁器で、まさに中国やマイセンの製法を模した製品である。他の英国窯のものと比べても特徴的な逸品だ。では、描かれた図案はどうか。左に古代ローマ兵士風のバーク、右に豊穣の角をもつヴィーナス風のジェーン。中央にキューピッドの立つ紋章付石碑があり、《ニュージェントを串刺しにするバークの武器》とある。ニュージェントは妻の旧姓だが、ブリストルの前任ウィッグ議員の名でもあった。今回の出馬はこの古参議員の勇退により実現したもの。
さらによく見ると、バークのもつ槍の切っ先は「フリージア帽」を頂く。この帽子はフランス革命後に「自由」の象徴として頻出する。だが、当時の英国では「言論の自由」論者ウィルクスの戯画ですでに知られていた。晩年、反仏革命論で根っからの「保守主義者」とされたバーク。しかし1770年代には、「自由」と「民衆」の代弁者と見なされていたことは興味深い。
広島芸術学会第86回例会報告
① 近代日本工芸と植民地
発表:広島大学 西原 大輔
報告:広島大学 伊藤奈保子
日本の近代工芸の歴史は、日本の帝国の歩みと軌を一にしていた。即ち1910年代、日本のアジアにおける植民地化とともに、工芸家たちはその行動範囲を各地へと広げ、西原氏曰く「鉄砲の道筋をたどった近代日本工芸」。それが今回の研究発表の趣旨であったように思われる。
氏は近代日本文学と中国文学の比較を専門とされるが、アジア関係の文学を調べる中、美術史家の名があがることから、工芸について調べるに至ったという。
近代日本の工芸史を振り返ると、明治期は、美術品というより外貨稼ぎのための商品であり、生糸、茶に次ぐ輸出品であった。海外に多く残存する作品群をみれば、日本の美意識から離れた欧米嗜好に添った制作であることは明らかである。続く大正期以降は、欧米から日本国内へと美の価値基準が移行、アジアへの植民地政策がとられると、作家たちは現地へと赴き、発掘や調査から当地の新たな技法やデザイン、題材を取り入れる。大東亜戦争が始まると、奢侈品、製造販売制限規制「ぜいたくは敵だ」を唱う1940年7月7日発令「七七禁令」のもと、高価な金箔、漆などを扱う工芸は壊滅的な状況に陥る。
従来、近代日本工芸は、戦争に積極的に関わらなかったように捉えられてきたが、氏の研究によると、その実態は思いの外、愛国的であった面があるという。新たな近代工芸の姿が浮かび上がった。現在、はつかいち美術ギャラリーにて、輸出工芸「宮川香山展」が開催されている。必見。
② C. リーデルによるH. シュッツの受難曲の演奏実践
―「19世紀的シュッツ」の真相 ―
発表&報告:沖縄県立芸術大学 朝山奈津子
本発表の主旨は、16世紀の音楽作品を19世紀半ばに演奏する際に、大きな変更が加えられたことを報告し、その編曲の文脈、理由、意義を考察することにあった。質疑では、音楽学以外の専門家から貴重なご意見、ご感想を頂戴することができた。
作品の同一性に関して、シュッツの原曲とリーデルの編曲があまりに違うことが明らかであるのに、なにをもって両者を同じ作品と言えるのか、2つは別の作品ではないのか、という質問を頂いた。19世紀の知識人は、楽譜に書き表されていない、作曲家ですら気付いていない「本質」の存在を信じ、それを明らかにするためには、形式、すなわち作曲家が指定した演奏方法を変えることも躊躇わなかった。また編曲は、聴衆の好みに合わせるという、いわば妥協的な考えよりも、作品の本質をよりうまく引き出すという発展的な考えに基づいて行われたといえる。
音楽受容を歴史的な観点から扱うことそれ自体の意義は何か、というきわめて根本的な質問も頂いた。私の持つ基本的な疑問は、作品や音楽に対する判断が時代により場所により多様に変化するのはなぜか、という点にある。そして、その中にあって変わらないものを明らかにするのが、研究の目的である。フロアからはさらに、変わらないものとは何か、との質問が出た。「変わらないもの」が「ある」ということをどう証明するのか、それは一生の課題であるが、少なくとも今の私にとって「変わらないもの」とは、音楽が与えてくれる喜びである。これがもはや学術的な研究報告の域を逸脱した答えであることは承知している。しかし、音楽や芸術への自分自身の感性を信じていなくては、研究は行えない。私は、自分が何故に音楽に感動するのか知りたい、というごく個人的な動機をもって勉強を続けていることを、質疑応答の中であらためて気付かされた。ご清聴下さった皆様に心から感謝する。
第101号
広島芸術学会会報 第101号
栗原貞子記念平和文庫の開設と広島文学の研究
水島裕雅
昨年(2008年)10月7日に、「生ましめんかな」「ヒロシマというとき」などの詩で国際的に著名な広島の詩人栗原貞子さんの全文学資料が、長女の栗原眞理子さんによって広島女学院大学に正式に寄贈された。その資料の内容と意義ならびに女学院大学に「栗原貞子記念平和文庫」として寄贈されることになった経緯について説明し、合わせて今後の広島文学の研究との関係について論じてみたい。
寄贈された資料はダンボール約160箱であるが、その内容は多岐にわたっている。それらの資料のうち、書籍1901冊、雑誌類2331冊、反核・平和・環境団体発行の機関紙・パンフレット類46種の大半は開架で収蔵されている。また、肉筆原稿204点、肉筆ノート・メモ132点、寄稿原稿26点、書簡(ダンボール8箱分、点数未確認)、写真(ダンボール半箱分、点数未確認)、新聞類307部(戦後発行に携わった「広島生活新聞」など)、スクラップ類(ダンボール30箱分)は閉架で収蔵されている。このなかには国会図書館にも揃っていない『中国文化』や『広島生活新聞』など、戦後間もなく栗原唯一・貞子夫妻が編集・出版に携わったものが数多く含まれている。また、『栗原貞子全詩篇』(土曜実術社、2005年)に収録されていない詩も多数見つかったそうである。さらに、無数のスクラップ類やメモなどは、時事問題に関わった日本で数少ない詩人としての栗原貞子の詩を解明する良い手がかりであろう。栗原貞子ならびに広島の平和運動の研究は、今後この「栗原貞子記念平和文庫」を中心になされるであろう。
今回、女学院大学が進んで栗原貞子文学資料を引き受けてくれたが、当初この資料は広島市立中央図書館に寄贈される予定であったし、事実この資料の一部は一度中央図書館に寄贈されたものである。ところが、中央図書館側はそのとき約束したその他の資料の調査を長い間なさず、また連絡もしなかったので、遺族の側から契約不履行による資料返却要求がなされ、最終的には秋葉市長の裁断によって返却されることになったと聞く。
広島市は文学館創設運動が起こった1987年に、中央図書館に間に合わせの「広島文学資料室」を作らせ、文学館の必要はなくなったと言ってきた。広島市が文学館創設を拒んでいる間に、山代巴、梶山季之、大牟田稔などの多くの文学資料は広島大学文書館(東広島市)に行ってしまった。このように、広島の文学資料は、各地の大学や図書館に分散することになったため、広島の文学研究にとっては大きな制約が予想されるが、各大学や図書館はインターネットなどを活用して貴重な資料を公開し、資料の貸し出しやコピーの許可などを行い、誰にも使いやすいように工夫してほしいと思う。
(広島大学名誉教授 水島裕雅)
広島芸術学会第85回例会報告
「人と街をよそおう(粧う・装う)」
広島・並木通り
郵便事業㈱広島支店 大山智徳
広島芸術学会は学会設立20年を超え、前回の例会からより市民に開かれた学会にしようと大きな変化を遂げようとしている。今回の第85回例会は前回の広島市植物公園での例会に引き続き、広島市まちづくり交流プラザでより市民に開かれた例会が開かれた。
テーマはずばり、「人と街をよそおう(粧う・装う) 広島・並木通り」というもの。しかも学会の例会でヘアメイク、ミニファッションショーをやるという。なんという大胆さ! これまでの、ややもすれば研究者中心の広島芸術学会からは想像もできない変化だ。
さて、初めに今回の例会の趣旨説明が大橋啓一氏から行われた。
「美しくありたい、なりたい」は古今東西、永遠の課題との説明からパブリックな空間-広島市並木通り商店街-を美的に構成することへの言及がなされた。いわば、ソフトとしてのメイクとハードとしての街全体のメイクを議論していこうという。
まず、はじめに世界的なコンテストで常時上位入賞されておられるヘアメイクアーティスト坂井由紀子氏によるメイクの実演「並木通りを粧う」。モデルは広島ファッション専門学校の生徒さん。素顔のまま登場。坂井氏の巧みな説明とともにモデルが徐々に美しく粧られていく。私は、というか、多くの男性は女性のメイクの過程を見たことはないのではないか? 化粧には美顔のカノンがあり、それを自然に強調することでより美しくなっていくということを初めて知った。私はこの素顔のモデルが次第にオーラを発するようになる現場に立ち会える幸運に感謝した。
続いて、ミニファッションショー。広島ファッション専門学校の生徒さんによる若い感性で製作された創造力溢れるファッションが軽快な音楽とともに披露される。斬新なアイデア溢れるファッションコンクールで入賞した作品も含めて7点が紹介された。初めてファッションショーを観たが、カッコイイ。3人のモデルがかわるがわる登場する。ミニとはいえ、モデルの歩き方、製作された衣裳の目立たせ方等からファッションショー固有の雰囲気も味わえた。異空間だ。私はこの異空間に幻惑された。メイクの実演とファッションショーで街行く人々のファッションを観る私の目が変わったことは確かだ。とりわけ並木通りを歩くときにはだ。
ファッションショーの余韻が残る中で、大橋啓一氏のコーディネートのもと、4名によるパネルディスカッション「人と街をよおおう(粧う・装う)」が始まった。
まずは先ほどのヘアメイクアーティスト坂井由紀子氏の提言。並木通りが家族で集まれる空間になれれば、また、よりオープンなさまざまな世代の集える並木通りになって欲しいとの思いを語られた。
続いて、ファッション界の登竜門「装苑賞」を受賞されたファッションデザイナーの出本正彦氏。東京ではデザイナーとバイヤーの分離から合一へとデザイナーをめぐる消費社会の変容があるとの指摘をされた。若い感性への期待を込めて非常に広い視野からの提言があった。時間の制約があるのですべての思いを伺うことはできなかったがファッションへの強烈な思いを感じた。機会があればまた、続きを伺いたい。
3番目は建築士で都市計画に造詣の深い宮森洋一郎氏。並木通りができた頃から街づくりに深くかかわってこられた体験をもとに、都市を語るコトバ、共通言語の創造を提言されたことがおありとのこと、「道」についても熱く語られた。さらにどのようにすれば人々が集うか、修士論文で思索された3点ほどのポイントを提言された。アイデンティティの必要性、セルフ・メイド、地域の結束とのことだった。
最後は並木通り商店街振興組合理事長の下井良昭氏。商店街の歴史をDCブランドから語り始められ、過去・現在・未来と地理的な条件など、トータルな視点から並木通りについて話された。商店街でお店を営まれつつ街全体を考えられる姿勢は、真摯で切実な問題を提示された。その一つに並木通りを「道」から「広場」へという視点のシフトがある。法規制の問題もあり、また、住民の合意形成の苦労なども率直に語られながら、街づくり構想に言及された。
パネリストによるディスカッションが終わったあと、マイクはフロアーへ。議論は「木」あるいは「樹」が焦点になった。木陰を生むような木が欲しい、緑を大切に育てることをぜひして欲しいとの意見があった。豊かな樹の実った並木通りのイメージが、みんなを刺激する。一方、街づくりには住民の合意形成の必要性と困難さがあること、落ち葉の処理が大変であることなどもパネリストから話があった。
例会参加者個々人が並木通りの将来への夢を描くという課題を持ち、例会は終わった。残念ながら年末でしかも年末ということもあり、研究者・院生の参加が少なかったようだが、新たに社会学者や市民も参加し、盛会だった。
印象的だったのが忘年会会場への移動中、一人の市民による「これなら毎回参加できる」との声であった。フロアーから金田晉会長の提言された「美学は書斎だけから、街へも出かけて行こう!」の変化を体現した例会であった。確実に広島芸術学会は変わってきている。研究者、作家、市民が真に一体となった学会への変化をはっきりと感じ取ることのできた例会であった。
(報告者:郵便事業㈱広島支店 大山智徳)
広島芸術学会第83回例会報告
「鞆の浦散策」
米門公子
5月18日(日)に開催された広島芸術学会第83回例会は野外例会。古来から景勝の地として知られ、瀬戸内海でも唯一の近世港湾施設「伝統的建造物群保存地区」に決まった美しい町並みが残る福山市鞆の浦を訪ねた。
鞆の浦は広島県・福山市が埋め立て架橋を実施しようとして、住民や歴史に関心のある人々の猛反対に遭い、今、世界的に注目されている地でもある。
今回の野外例会のプランを立て、案内役も務めてくださったのは、運営委員の末永 航氏である。
10時45分にJR福山駅に集合。参加者は9名。まずは腹ごしらえをということで、バスに乗り、福山市熊野町にあるフランスの家庭料理の店「ビストロ・ココット」へ。大学でフランス語を教える夫の仕事の関係で、4年ほどフランスに住んだことのある横山ちはるさんのお店だ。牛バラ肉の塊を7時間かけて煮込んだ「牛肉の赤ワイン煮」や種類の豊富なサラダバーなど、手間をかけた「家庭の味」をたっぷり愉しませていただいた。
食事とおしゃべりの後、ジャンボタクシーで鞆の浦へ出発した。まず訪れたのは、真言宗の寺院・福禅寺の客殿として建てられた「対潮楼」。江戸時代に朝鮮通信使のための迎賓館として建立され、現在は国の史跡に指定されている。朝鮮通信使が「日東第一景勝(対馬から江戸までの間で一番美しい景勝地という意味)と称讃し、従事官がその書を残している。200年余りが経過した今も、景色は美しかった。
江戸時代の面影を残す町並みの散策や買い物を愉しんでいるうちに「大田家住宅」へ着いた。ここは江戸時代の保命酒造酒屋。幕末、京都尊皇攘夷による倒幕を目指していた三条実美らが公武合体派に破れて京を脱出、いったん長州藩に落ち延びた際に宿泊した。
海に面した「大田家住宅」は長州藩など参勤交代の西国大名の宿所でもあり、海の本陣としての様式を整えている。建物も庭もとても立派で、本宅、土蔵など建造物が国の重要文化財に指定されている。
最後に訪れたのは、御舟宿「いろは」。ここはもともと坂本龍馬がいろは丸事件の際に紀州藩側と談判した町家「旧魚屋萬蔵宅」で、数年間は空き家になっていたが、「このまま放置していては、龍馬ゆかりの史跡が消滅してしまう」と、松居秀子さんを中心とするNPO法人鞆まちづくり工房が買い取り、改修して「旅籠」として再活用している。私たちが訪れた5月18日はまだこのオープンしてまだ間もない頃で、松居さんたちは大忙しの様子だったが、しゃれた旅籠に生まれ変わった町家でお茶を飲みながら、ゆっくり過ごさせていただいた。
帰りは、鞆の浦→尾道まで船の旅を愉しみ、JR尾道駅前で解散となった。
『会則案』 と 『《藝術研究》編集部会の設置並びに投稿等に関する規定案』 について
昨秋以来、検討を重ねてきた『会則案』と『《藝術研究》編集部会の設置並びに投稿等に関する規定案』がこのほど、成案の形を整えるまでに熟してきました。そこで会員の皆さんにこれらを公開し、ご意見をうかがうことになりました。
このたびの会則等の見直しは、本会報第100号(08年11月28日発行)の巻頭言で金田晉代表が示されたように、設立20周年を契機として、設立当初の精神に立ち返って本会を再構築しようという、「改革」の流れの主流部分に当たります。今回の改革の骨子は①運営組織の再構築②例会を含む事業内容の見直し③機関誌《藝術研究》編集・発行のあり方などで、その範囲は組織自体や活動全体にまで及んでいます。その根幹となるのが会則の改正とそれに付随する諸規程の見直し・制定作業です。
改革への取り組みでは、会則の全面改正に伴う選挙管理に関する規程など、重要部分の詰めの協議が残されていますが、とりあえず組織運営の基礎となる会則と《藝術研究》編集関連規定の案文全文をお示しして会員諸氏のご意見をいただこうというのが今号の目的です。皆様の忌憚のないご意見をお待ちしています。
なお、会則案は、今年7月下旬開催予定の平成21年度総会に上程、ご承認をいただいたのち、翌平成22年7月1日発効の予定です。また、《藝術研究》編集関連の規程については、会則の発効をまたず、次号《藝術研究》発行前の施行(4月1日)を予定しています。
□ご意見は3月19日(木)までに下記事務局へ
〒732-0824 広島市南区的場町1-8-15
ひろしま美術研究所気付 広島芸術学会広島事務局
FAX 082-506-3062
Eメールはこちら
(倉橋清方記)
■広島芸術学会会則(案)
(名称)
第1条
本会は、広島芸術学会(Hiroshima Society for Science of Arts)と称する。
(目的)
第2条
本会は、芸術諸分野についての研究と発表を行うとともに、その活動を通じ会員相互の連帯と親睦を図ることを目的とする。
(事業)
第3条
本会は、前条の目的を達成するため、次の事業を行う。
(1)年次大会及び例会の開催
(2)研究情報誌及び会報の発行
(3)芸術諸分野に関する展覧会、演奏会等の開催
(4)国内外の関係団体との交流
(5)その他、本会の目的を達成するために必要な事業
(会員)
第4条
1 本会の会員は、第2条に定める目的に賛同する者をもって組織する。
2 会員は、一般会員、学生会員、特別会員及び法人会員とする。
3 本会への入会は、所定の会費の納入及び委員会の承認を必要とする。
4 本会の会費を3年以上滞納した者は、会員資格を喪失する。
5 本会を退会しようとするときは、会員本人がその旨を事務局に申し出ることをもって足りる。
6 本会の信用と名誉を著しく傷つけたと認められる会員は、委員会の議を経て除名することができる。
(会費)
第5条
1 本会の会費は、次のとおりとする。
(1)一般会員 年額 5,000円
(2)学生会員 年額 3,000円
(3)特別会員 年額 10,000円
(4)法人会員 年額 1口 50,000円
2 項の規定にかかわらず、特別の経費を必要とするときは、臨時に会費を徴収することができる。ただし、この場合においてはその理由を付し、総会の承認を得なければならない。
3 納入した会費は返還しないものとする。
(会員の特典)
第6条
会員は、本会が主催する事業に参加することができる。また、研究情報誌及び会報に投稿し、その配布を受けることができる。
(役員)
第7条
本会に次の役員を置く。
(1)会長 1名
(2)副会長 1名
(3)委員 15名
(4)監査 2名
(役員の任務)
第8条
1 役員の職務は、次のとおりとする。
2 会長は、会務を統括し、本会を代表する。
3 副会長は、会長を補佐し、会長が欠けたときはその職務を代行する。
4 委員は、委員会を構成して、本会の事業を運営する。
5 監査は、本会の会計等を監査する。
(役員の選出及び任期)
第9条
1 委員は、第7条に定める委員定数の3分の2を会員の投票により選出する。残りの委員については、会長が委員会の構成に必要と認める者を会員の中から指名し、総会において承認を受け選任する。
2 本条第1項に規定する投票により選任する委員のうち、当選圏内最下位得票者の得票数が同数のときは、抽籤により順位を確定する。
3 会長及び副会長の選任は、会員の投票によって選出された委員の互選による。
4 監査は、委員以外の会員の中から委員会が選出し、総会の承認を得て選任する。
5 役員の任期は、2年とする。ただし、再任をさまたげない。
6 役員は、任期満了後においても、後任者が就任するまではその職務を行うものとする。また、任期途中で就任した場合は、前任者の残任期間とする。
(総会)
第10条
1 総会は、毎年1回開催する。
2 総会は、次のことがらについて審議する。
(1)事業報告及び決算報告に関すること。
(2)事業計画及び予算に関すること。
(3)役員選任の承認に関すること。
(4)会則の改廃に関すること。
(5)会費の改定及び臨時徴収に関すること。
(6)その他、本会の運営上重要事項に属すること。
3 総会の議長は、出席した会員の中から互選する。
4 総会の議決は、出席者の過半数をもって決するものとし、可否同数のときは議長の裁決するところによる。
5 会長は、必要と認めるとき、委員会の議を経て臨時の総会を招集することができる。
6 会長は、会員総数の5分の1以上の者から総会の開催請求があったときは、請求の届けられた日から起算して30日以内に臨時の総会を招集しなければならない。ただし、本条にいう会員総数とは、当該年度の前年度末日における在籍会員の総数をいう。
(委員会)
第11条
1 本会の円滑な運営を図るため、委員会を随時開催する。
2 委員会は、委員のほか、監査・事務局長をもって構成し、総会の決定に従い会務の運営について協議し決定する。
3 委員会は、会長が招集し、その議長を務める。
4 委員会の議決は、出席した委員の過半数をもって決する。可否同数のときは議長の裁決するところによる。
5 委員会には、必要に応じ専門部会を置くことができる。
(事務局)
第12条
1 本会に事務局を置く。
2 事務局に次の職員を置く。
(1)事務局長 1名
(2)事務局員 若干名
3 事務局長及び事務局員は、会長が指名する。
4 事務局長は、会長の命を受け会務を処理する。
5 事務局員は、事務局長の命を受け会務を処理する。
6 事務局長は、委員を兼務することができる。
(経費及び会計年度)
第13条
1 本会の経費は、会費その他の諸収入をもって充てる。
2 本会の会計年度は、毎年7月1日に始まり翌年6月30日に終わる。
(会計監査)
第14条
会計監査は年1回以上行うものとする。
(細則)
第15条
本会の運営に必要な細則は、別に定める。
附 則
(事務局)
本会則第12条第1項に規定する事務局は、本部を広島大学大学院総合科学研究科人間文化研究講座内(東広島市鏡山1-7-1)に置き、事務局をひろしま美術研究所内(広島市南区的場町1-8-15)に置く。
(発効日等)
昭和62年7月18日発効。
平成5年7月17日一部改正。
平成13年7月29日一部改正。
平成21年7月x日全部改正。ただし、発効日は平成22年7月1日とする。
■ 『藝術研究』編集部会の設置並びに投稿等に関する規定(案)
(編集部会の設置及びその目的)
第1条
研究情報誌『藝術研究』の編集を行うため、委員会内に編集部会を設置する。
(編集委員の定員及び選任の方法等)
第2条
1 編集部会に編集委員を置く。
2 編集委員は8名以内とする。
3 編集委員の選任は、委員会委員の互選による。
4 編集部会に編集長を置く。
5 編集長の選任は委員会委員の互選による。
(編集部会の招集等)
第3条
1 編集部会は、必要に応じ随時編集長が招集する。
2 編集部会の議長は、編集長が務める。
(原稿の査読及び校閲)
第4条
1 『藝術研究』誌に投稿された研究論文又は論考等は、編集部会の査読又は校閲を経て、委員会において承認されたうえで掲載される。
2 前項に規定する研究論文の査読は、編集部会の委員以外の研究者に委託することができる。ただし、委託に当たっては、そのつど委員会の承認を得るものとする。
(投稿資格及び掲載する記事の内容)
第5条
1 会員は、『藝術研究』誌に投稿することができる。また、委員会の議を経て、広く研究論文・論考を慫慂することができる。
2 『藝術研究』誌に掲載する記事は、おおむね次に掲げる内容とする。
(1)芸術文化一般に関する研究論文
(2)本学会ならびに会員相互の活動を総括し、問題を提起する論考
(3)本学会主催の年次大会及び例会において発表された論考
(4)地域における芸術文化の歴史を発掘し、将来を展望する論考
(5)会員が長年取り組んできた芸術文化に関する研究および芸術的実践あるいは経営の過程についての報告
(6)会員の動静等、地域の芸術文化活動に関する時事の記録
(7)その他、『藝術研究』誌に掲載するにふさわしい論考等
(原稿の締切日及び発行日)
第6条
1 投稿原稿の締め切りは、原則として毎年3月末日とする。
2 『藝術研究』誌の発行は、原則として毎年7月1日とする。
(投稿原稿の返却)
第7条
投稿原稿は、採否にかかわらず返却しないものとする。
(投稿の宛先)
第8条
投稿先は次のとおりとする。
〒732-0824 広島市南区的場町1-8-15
ひろしま美術研究所気付
広島芸術学会広島事務局 『藝術研究』編集部会
(施行)
第9条
この規定は、平成21年4月1日から施行する。
秋山和慶先生の広島市民賞を祝う会
秋山先生は国際的な指揮者であり、国内外において高名な方です。広島交響楽団のみならず、広島県民・市民のために多岐にわたって多くの貢献をしてくださいました。その業績は私たち広島芸術学会の皆さまにとっても共有の財産と思います。3月28日(土) 18時~ リーガロイヤルホテル広島で開催されます。「秋山和慶先生の広島市民賞を祝う会」に是非ともご出席ください。案内を会報に同封させていただいております。
(伴谷晃二)
第100号
広島芸術学会会報 第100号
新たな芸術学会に向けて
金田 晉
広島芸術学会(最初の5年間は「広島芸術学研究会」)は、昭和62(1987)年に設立された。それから20年が経った。人生で言えば、独り立ちの年齢である。
今年の第22回芸術学会総会で、私たちは学会の改革を提案し、賛同を受けた。設立時に掲げた「市民に開かれた学会へ」という精神にもう一度立ち返れ、それが主旨であった。早速、委員会を重ね、学会の行う諸種の事業を全面的に点検し、可能なところから改革に取り組み始めた。
まず例会の改革に着手した。9月の第84回例会は、広島市植物公園を会場にして、「秋の草木をたのしむ」体験を共有しながら、環境と美の問題に取り組む企画であった。制作の側から草木染のワークショップ(井上美津子会員)が、美学理論の側から、中国・山東大学の馬龍潜教授による中国において直面する環境美学の報告があった。12月例会には、美しくありたいという人間の願望を、顔のメーク、衣裳のファッション、街並みの装いという具体的場面から問い直そうというのである。美学のもっとも喫緊の問題は、書物の中にあるのでない。むしろ私たちの生きる、この「生活世界」の中にあるはずだ。議論の場は教室や講堂だけではない。むしろそのテーマが求められ、試される現場で行われるべきである。
私たちは、わが芸術学会は研究者と作家と市民(芸術愛好家)の<サンフレッチェ>で構成されていると言い、それが日本学術会議登録団体の中でのアイデンティティだと主張している。だがその三者はどれだけ向かい合ってきたか、それが問われている。ふだんはそれぞれ別の活動をするにしても、年に何回か、例会の時ぐらいには共通体験をもってよい。そこに対話、共同作業が生まれるはずだ。そこが明治以来の西洋美学の移植の過程に欠落していたところであった。三者の結びつきを果たすことによって、美学は新たな段階に立つであろう。
学会草創の頃は、広島の芸術環境も右肩上がりの時代であった。音楽大学があり、美術系の短大があり、4年制大学ができようとしていた。美術系公募諸団体は活発な制作発表活動をつづけ、全国有数のコレクションを誇るひろしま美術館(1978年設立)が生まれ、公立では広島市現代美術館(1989年設立)がオープンし、広島県立美術館(1968年設立)もリニューアルした。広島大学でも芸術系の教員養成と並んで、大学院で美学や芸術学の研究者、専門家を世に送りつつあった。財界も1990年代はじめ、芸術、文化の育成、支援事業としてのメセナ活動に力を入れていた。
今、世界は経済不況の只中。だがそれは芸術文化が人間の生きる力になれるか、試される時代でもある。「人はパンのみに生きるにあらず」。困苦の時代に、わが芸術学会は、芸術文化を結び目にして生きる喜びを分かち合う場であってほしい。市民と研究者と作家(演奏家)が手を取り合って、創造の舞台を演じあげることを願っている。
(広島芸術学会会長・かなた すすむ)
広島芸術学会第84回例会報告
広島芸術学会の改革第1回の例会は、時期に合わせて「秋の草木をたのしむ」を統一テーマに、広島市植物公園で開催された。朝方の猛烈な雨で、JR山陽線が不通になるなど開催が心配されたが、お昼頃から陽も射し始め、埃を洗われたすがすがしい森林浴をたのしみながらの一日であった。出席者31名。開催に当たっては、植物公園のサポートを受け、会場を用意していただき、研究発表後には園内を丁寧に案内していただいた。石田源治郎園長をはじめ職員の方々に感謝しています。
発表①
「自然を染める草木染」
染色作家 井上三津子会員
ワークショップ「柿渋で和紙を染めよう」
指導:井上会員+染色グループ「創り手人」
ワークショップの参加者には作品を仕上げて持って帰ってもらうために、ワークショップを下地作りと作品制作の二つの工程に分け、講義と組み合わせて行われた。まず重厚な手漉き和紙に濃い茶色の柿渋液を二度塗りして下地を作った。それが乾くまでの時間を念頭に置いて、草木染めの歴史や技法について解説された。講義後、参加者が再び制作にとりかかり、乾燥した紙に思い思いの模様や色を染めていった。柿渋の濃度と媒染剤使用の回数などによって色は変わっていく。工夫の仕方、手間暇のかけ方によってどんどん姿を変えていく。まさに生き物を見ているようであった。
草木染とは、野原や道端の草木の花、葉、落ち葉、実、小枝、樹皮などの色素を使って紙や布などを染める技法。その中から洗濯しても褪色しない方法が定着した。中でも柿渋は日本特有の湿気に対して防水と防腐)効果があり、その渋紙を畳の下に敷くなどして古くから日常的に使われてきた。美的な目的に使われるようなるのは、むしろ新しい。「天然染料は天然の素材にしか染まらない」「天然染料や媒染剤などもそのまま流すと環境によくない」という指摘も印象に残った。
発表②
「『新時期』における中国の生態論美学の形成と発展」
山東大学文藝美学研究センター 馬龍潜教授
中国美学は20世紀の始めに西洋から中国へ輸入されて以来、芸術の理論的思弁が重視され、社会現象や芸術実践との関係が軽視されてきた。中国では国を挙げて「新時期」」というかけ声で1978年以降近代化建設に取り組み、多くの成果を挙げてきたが、一方で様々な環境問題や自然災害が起きている。1980年代以来、現実に直面する諸問題を検討し、その地点から新しい美学「環境(生態論)美学」を提唱する理論的試みが始まっている。馬教授は三峡ダムについての自身の考察も紹介しながら、説得力をもって話された。中国は国土が広大で膨大な人口をかかえ、地域的に教育の偏差と発展や習慣の相違も大きい。政府の行政力のみに頼ることはほぼ不可能に近い。そのため学校や大学の教育で環境意識と社会的な実践力を育成することが要求されている。人と自然が共存・共生し、相互に通じ合う融合が要求されている。人間は自然という大きな生命システムの中にいて、その保護が最終的に一番利益を得ることを知らせることが環境教育の目的でもある。
(報告者:広島大学大学院博士課程 李恩和)
年報「藝術研究」を身近なものに!
金田 晉
第22回総会で報告しましたように、年報「藝術研究」第21号の刊行を延期して来年度第22号との合併号を刊行することにいたしました。今年度刊行に向けて投稿された執筆者各位、刊行の準備をされていた編集委員会、それから年報到着を心待ちにされていた会員各位にお詫びいたします。この延期を無為の時とせず、年報を会員の目線から発信される理論的表現の場に作り変えてゆくための時間にしたいと考えています。
わが芸術学会は創立以来、二つの性格をもってきました。一つは広島という地域に根ざすということであり、それはこの地域の研究者、作家、市民が集い、相互交流の中から新しい芸術文化の新しい可能性を模索する集合体であることによって示されています。もう一つの性格は、美学や芸術研究に関して全国に発信する第一線の研究団体であろうとし、その願いは全国の同学の研究者に共鳴を受け、かれらはわが学会に参加し、支援してくれました。その機関誌である「藝術研究」誌には、国際的に活躍する研究者(外国人を含む)が寄稿され、全国の若手研究者が競って論文を応募してきました。現在、「藝術研究」は美学や芸術学の分野での全国水準の学術誌と承認され、そこに掲載される論文(査読を受ける)も高い評価を受けています。
だが「藝術研究」誌はたんなる学術雑誌ではありません。隔年に、学会員の作家たちが開催する展覧会「芸術展示」への出品作品が掲載されてきました。芸術学会の記念大会等で企画された特別講演、シンポジウム報告も掲載されるようになりました。また学会員の多くが参加した、たとえば昨年の岡本太郎の「明日の神話」誘致運動についての総括報告も執筆されました(21・22号合併号に掲載予定)。その年その年のアクチュアルな問題も「藝術研究」には取り上げてきました。この方向はもっと充実してゆくべきでしょう。
だが、既刊「藝術研究」を概観するとき、掲載論文が大学アカデミズムの研究論文に偏向していることは否めません。もっと会員の手許にあって、読まれる雑誌にしてゆくべきでしょう。1)作品制作や演奏研究の過程で行われる研究や調査など。2)広島の地に関わる芸術文化の歴史の発掘。芸術文化をひろく考えると、「文房四宝」の一としての、呉で生まれた万年筆(セーラー万年筆)や香りと味覚の芸術とも言える安芸津生まれのニッカウィスキーの研究などがあってもよい。3)未曾有の不況下にあって、美術館や文化施設の経営や運営に関する論考。4)アカデミズムの外で長年研鑽してきた会員の研究、調査、資料発掘、紹介等。5)その他。これらの研究、論考は、査読を経なくても(文章上のチェックはしますが、)掲載してゆきたい。査読を希望するかしないかは、投稿者に決めてもらいます。
年報「藝術研究」を、会員にもっと近しい存在にしてゆくために、会員の強いバックアップを期待しています。奮ってご投稿ください。「藝術研究」がどこまでも会員の近くにあってほしい、それが委員会でこの間議論してきた共通の願いです。
東アジアの現代音楽祭2009inヒロシマ ~作曲家の現在~
<広島からのメッセージ>(案)
伴谷晃二
広島芸術学会運営委員会(10月19日)において、2009年度の事業案として「東アジアの現代音楽祭2009 inヒロシマ ~作曲家の現在~ <ヒロシマからのメッセージ>」を提案し了承を得ましたので、企画・内容についてご説明いたします。
上記の企画・内容は日本現代音楽協会(ISCM)創立80周年記念行事(2009~2010年)のプレイベントとしてもリンクしています。
韓国、中国、台湾、フィリピン、香港他の国々の現代作曲家との交流をとおし、世界における文化・芸術の東アジアの潮流に触れることにより、日本のとりわけ広島を中心とした中国・四国地方の現代芸術の発展に貢献・寄与することを目的とします。2009年10月3日(土)4日(日)、アステールプラザ・オーケストラ練習場において「東アジアの現代音楽祭2009 in ヒロシマ ~作曲家の現在~ <ヒロシマからのメッセージ>」(現代音楽プロジェクト+広島芸術学会の共同主催)においてコンサートと基調講演およびシンポジウムを開催し、全国的および世界的な展開を図ります。
つきましては、会員のみなさまのご協力およびご参加をお願いいたします。企画・内容については下記のとおりです。
記
公演名
「東アジアの現代音楽祭2009 in ヒロシマ ~作曲家の現在~
<ヒロシマからのメッセージ>」(仮称)
日 時
2009年10月3日(土)4日(日) *10月2日(金):リハーサル
会 場
アステールプラザ・オーケストラ練習場
主 催
現代音楽プロジェクト+広島芸術学会(共同主催)
共 催
ひろしまオペラ・音楽推進委員会、(財)広島市文化財団
協 力
日本現代音楽協会、中国・四国の作曲家、エリザベト音楽大学、国際現代音楽協会(ISCM本部:オランダ)、アジア作曲家連盟(ACL本部:香港)他(予定)
後 援
(社)日本作曲家協議会、文化庁、文部科学省、サントリー音楽財団他(予定)
協 賛
(株)ヤマハミュージック瀬戸内、ブレーン(株)、(株)河合楽器製作所他(予定)
<プログラム>(予定)
1. コンサート:2009年10月3日(土)
第1部:14:00~16:00
第2部:17:00~19:00
Gene W.Lee、Boknam Lee、朴 銀荷、金 重希(韓国)、Wen-Tze Grace Lu、
Tzyy-Sheng Lee(台湾)、Wing-Wah Chan(香港)、陳 明志(香港)、C.Toledo(フィリピン)、JIA Da-Qun、Henglu Yao、郭 元(中国)、湯浅譲二、糀場富美子、伴谷晃二(日本)他の室内楽作品(1~3人の演奏者:2003~2008)を発表する作曲作品展。
2. 基調講演+国際シンポジウム:2009年10月4日(日)
基調講演 :14:00~14:30
シンポジウム:14:45~16:30
「東アジアの作曲家の現在<ヒロシマからのメッセージ>」(仮称)
基調講演:湯浅譲二(予定)
国際シンポジウム:伴谷晃二(日本;コーディネーター)、湯浅譲二(日本)、
Gene W.Lee(韓国)、Wen-Tze Grace Lu(台湾)、Wing-Wah Chan(香港)、
C.Toledo(フィリピン)、Henglu Yao(中国)の6名のシンポジュストを予定。
<現代音楽プロジェクトチーム>(企画・構成・運営他)
音楽監督:伴谷晃二 プロデューサー:馬場有里子
ディレクター:能登原由美 事務局:大橋啓一、大山智徳、米門公子他
新コラム 展覧会評
G・S・A展
会場::ギャラリーG(広島市中区上八丁堀4--1)
会期::平成20年9月30日(火)~10月12日(日)
松田 弘
広島市の中心部、広島県立美術館のはす向かいにギャラリーGというギャラリーがある。
G・S・A展、は、G・セレクション・アワード展のことであり、ギャラリーが選出した若い作家たちに作品を展示してもらい、その中から賞(アワード)を授与し、これからの制作活動を支援しようとするものである。第一回の今回は、梅田美里(版画)、黒田大祐(彫刻)黒田ふみ(油彩画)、新庄加奈(日本画)、長岡朋恵(インスタレーション)、山浦めぐみ(日本画)、山田哲平(彫刻)ら7人の作家たちが出品した。
この展示を見て、感じたことを述べてみたい。個々の作家たちには当然のことであるが個性があり、独自の造形思考を持っている。そのことを認めた上で、彼らにはある共通点を指摘したい。それは、程度の差、あるいは自覚的かどうかの違いはあれ、「存在」の問題に関わった制作をしている、ということである。
例えば、新庄加奈の絵画作品は、若い女性が背中合わせに立って横を向いている。顔つきから判断して同一人物の二重像のようにも見える。しかし腕は一本しか描かれていない。自己同一性の希薄さ、あるいは個としての人間存在の不安やもどかしさを感じさせる。実存の喪失ともいえなくもない。
また、山田哲平の彫刻は、特定できない動物の頭だけのものと、白いやぎを思わせる比較的小さな動物像の作品である。彼の作品は動物の形をしているが、そこに「人格」のようなものを感じさせるところがある。動物の体に人間の存在を仮託しているともいえる。あるいは、その動物と観る側の私たちの間で、存在を巡る会話が始まりそうな気配を感じさせる。作家本人とも話したが、私は彼の作品に、小説家の村上春樹の作品とに共通するものを感じる。現代社会における人間存在のリアリティーの喪失である。
今回、ギャラリー側の選考委員会によって一席のグランプリを獲得したのは黒田大祐である。ギャラリーの外の屋外に展示されていたが、木の板をガタガタに組み合わせ、一台の自動車を作っている。その表面には手彫りによって細い溝が無数に彫られ、銀色に輝くアルミ箔が貼られている。作家によると、これはイワシの魚群の形象化である。捕まえどころなく形を変えて遊泳する魚の群れ。その形があってないような存在に、作者は興味を持っている。作家は独自の感性で、生命の存在が不定形であることに気がつき、確信された確固とした不動の存在としての生命とは別の存在の仕方を見つめているのだ。
ここで言及しなかった作品には、存在の問題には一見して無関係のようにも見える作品もあったが、彼らは大学を卒業したばかりの者から30歳そこそこの若者たちであり、人生の長い旅路が始まったばかりの者たちである。個人的な人生にしても、作家としてのキャリアにしても、これから自らの存在の意味と、芸術家としての普遍的な存在の意味とを意識せずに過ごすことは不可能だろう。その意味では、今回の展示に「存在」の問題を共通点として見ることは当然といえば当然のことだ。だが、私は、現代の若者たちが「存在」の問題に直面せざるを得ない状況のどうしようもない困難さを無視できない。そして、その困難さは、真の芸術家が背負わなければならないものであり、彼らにはそれができるような予感がする。彼らは可能性に満ちている。今後の制作に期待したい。
投稿・エッセイ
中国の新しい風
広島大学 袁 葉
地下鉄駅への降り口で車椅子の方を目にした私は、思わず足を止めた。バリアフリーが進んでいない北京の街では、実に珍しい光景なのだ。下から数人が駆け上がってくる。誰かが係員を呼んできたらしい。車椅子を抱えてゆく彼らの後ろ姿から、まるで清風が吹き抜けたような感じがした。今年9月、パラリンピック開催中の北京の街角でのワンシーンである。
数歩遅れて階段を降りながら、初めて日本の土を踏んだ時のことを思い出していた。85年10月、文部省(現文科省)の奨学生として来日し、大阪空港に到着。歩道を引いていくスーツケースが何かに引っかかって止まった。下を見ると、デコボコの付いた黄色いタイルのようなもので、それは延々と連なっており、まるで長い帯が路面を締めているかのように見えた。
「これは何ですか?」と出迎えてくださった文部省の方に尋ねてみた。
「ああ、これは点字ブロックといって、目の不自由な方のために取り付けられているんですよ」
冷戦の時代とあって、「弱肉強食」が資本主義の代名詞と教わってきた私は、意外な答えに立ち止まって向き直った。
「これは空港の敷地内のものですか?」
「いいえ、空港の外にも、あちこちにありますよ」
目を閉じてその「帯」の上を辿ってみると、足元からふわーっと温かいものが体の中に流れ込んでくるような気がした。
ところで数年前、障害者をテーマにしたある中国映画が日本で上映された。『きれいなおかあさん』(2000年)。軽度聴覚障害児とその母親の健気な生き方が描かれた作品だ。普通の小学校に通わせたいという母親の願いが、叶えられぬまま迎えるエンディング…。中国社会に大きな波紋を投げかけた。
その映画を観て、私は留学生時代の「広島大学附属中学校見学」を思い出した。初めて知った養護学級というものの存在。担任の先生に「同情心を持って接していらっしゃるのですか」と尋ねると、「いいえ、同情心ではなく、同じ普通の人間として接しています」という答えが返ってきた。当時80年代の中国では、障害者は「残廃」と呼ばれていたのだ。
月日が経ち、3年ほど前から「養護学級」は「特別支援学級」と呼ばれるようになり、日本人の考え方も時代の流れと共に進んでいると感じさせられた。
しかし、中国も変わりつつある。90年代に入ってから、障害者は「残疾人」と呼ばれるようになり、今年9月北京に里帰りしている間に、テレビから「残疾人士」、「残障人士」(人士→方、方々の意味)という呼び方を多く耳にした。
それは、選手村以外でも、車椅子の方や目の不自由な方を案内するボランティア活動が活発に行われていると報じていた。
今回のパラリンピックの開催によって、中国人の障害者に対する思いやりの心が大きく育まれたに違いない。
広島芸術学会会員各位
12月の初めに、会報100号を会員の皆様にお送りしたのですが、編集のミスで、水島裕雅氏の投稿文が掲載もれとなってしまいました。対応策を委員会で話し合いました結果、次号の巻頭言に掲載させていただくことになりましたが、まずはホームページに掲載させていただきます。
心からお詫び申し上げます。
広島芸術学会事務局
栗原貞子記念平和文庫について
広島大学名誉教授 水島裕雅
本年(2008年)10月7日に、「生ましめんかな」「ヒロシマというとき」などの詩で国際的に著名な広島の詩人栗原貞子さんの全文学資料が、長女の栗原眞理子さんによって広島女学院大学に正式に寄贈された。その資料の内容と意義ならびに女学院大学に「栗原貞子記念平和文庫」として寄贈されることになった経緯などについて論じてみたい。
寄贈された資料はダンボール約160箱であるが、その内容は多岐にわたっている。それらの資料のうち、書籍1901冊、雑誌類2331冊、反核・平和・環境団体発行の機関紙・パンフレット類46種の大半は開架で収蔵されている。また、肉筆原稿204点、肉筆ノート・メモ132点、寄稿原稿26点、書簡(ダンボール8箱分、点数未確認)、写真(ダンボール半箱分、点数未確認)、新聞類307部(戦後発行に携わった「広島生活新聞」など)、スクラップ類(ダンボール30箱分)は閉架で収蔵されている。このなかには国会図書館にも揃っていない『中国文化』や『広島生活新聞』など、戦後間もなく栗原夫妻が編集・出版に携わったものが数多く含まれている。また、『栗原貞子全詩篇』(土曜実術社、2005年)に収録されていない詩も多数見つかったそうである。さらに、無数のスクラップ類やメモなどは、時事問題に関わった日本で数少ない詩人としての栗原貞子の詩を解明する良い手がかりであろう。
これらの資料についてはいずれインターネットで公開される予定と聞く。栗原貞子ならびに広島の平和運動の研究は、今後この「栗原貞子記念平和文庫」を中心になされるであろう。女学院大学の関係者ばかりでなく、一般の人々がこの資料に触れて、戦争ならびに平和と文学の問題を考えてもらえれば、この資料が未来の平和のために役立つことと思う。
今回、女学院大学が進んで栗原貞子文学資料を引き受けてくれたが、当初この資料は広島市立中央図書館に寄贈される予定であったし、事実この資料の一部は一度中央図書館に寄贈されたものである。ところが、中央図書館側はそのとき約束したその他の資料の調査を長い間なさず、また連絡もしなかったので、遺族の側から契約不履行による資料返却要求がなされ、最終的には秋葉市長の裁断によって返却されることになったと聞く。私は長く「広島に文学館を!市民の会」の代表として文学館創設運動に携わってきたので、こんな時こそ広島に文学館があればと思った次第である。広島市は文学館創設運動が起こった1987年に、中央図書館に間に合わせの「広島文学資料室」を作り、文学館の必要はなくなったと言ってきたが、図書館が文学館の役割を果たすには荷が重過ぎるのである。原爆文学に限っても、被爆後63年も経ち、作者は亡くなり、遺族も高齢化する時代になった。広島の文学と文学資料の行く末が案じられるこの秋であった。
広島芸術学会事務局から
※かねてより気になっていたのですが、会報を発行する合間に、皆様にお知らせしたい情報が届くことがあります。その場合、Eメールをお使いの方には一括でお知らせできるかと思います。ご希望の方は事務局(大橋事務局長のEメールアドレス)まで、お名前とEメールアドレスをお知らせください。
※以前に、広島芸術学会についてのアンケートを同封させていただきました。まだお送りでない方は今からでも、ご記入の上、事務局宛にFAX(082-506-3062)でお送りください。
第99号
広島芸術学会会報 第99号
展覧会ツーリズム
松田 弘
9月18日まで、広島県立美術館では「ル・コルビュジエ 光の遺産」展が開催されている。と、他人行儀な言い方はやめて素直に言えば、この展覧会は私の担当である。
ル・コルビュジエ(1887-1965)は20世紀モダニズム建築を代表する建築家である。今年、彼の設計した建築作品22件が世界遺産に申請され、本展覧会ではそのすべてを写真や模型などで紹介している。
さて、この展覧会について、私の友人の編集者から言われたことなのだが、見ているうちに「旅」をしているような気分になったというのである。展覧会としてのツーリズム。うーむ。虚を突かれた感じだが、確かにこの展覧会を通底するテーマとして、旅というのはあるのかもしれない。
まず、第一に、今回世界遺産に申請されたル・コルビュジエの建築は、フランス、ベルギー、ドイツ、スイス、日本、アルゼンチンに及ぶ。ヨーロッパ大陸から極東の日本、そして南米大陸まで、地球をぐるっと一周している。(なお、インドも当初は含まれていた。) 第二に、ル・コルビュジエは若い頃、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、旧ユーゴスラヴィア、ブルガリア、ギリシャ、 トルコなどを経て、最後はイタリアを北上してスイスに戻る大旅行をしている。この間、アテネのパルテノン神殿、ポンペイの廃墟の町並みなどの写真を残している。この写真は少々ピンぼけだったり、露出が不十分だったりするが、建築家「ル・コルビュジエ」が確立される前の青春の遍歴を見る思いがする。心の旅と言ってもよいだろう。これらの写真は今回初公開である。
ところで、最近、あなたは旅をしていますか。仕事が忙しいとか、一緒に行ってくれる人がいないとか、お金が無いとか(これが一番切実だが)、なんやかやと理由をつけて旅に出ていないのでは。言うまでもなく旅の効用は日常を離れて、精神をリフレッシュさせることにあります。美術館の中でル・コルビュジエ展を体験するだけでも、精神の「旅」はできるのです。さあ、美術館で非日常の旅に出よう。
と、ここで普通は終わるのだが、ふとあることに気がついた。私たちの日常の中にこそ、実は小さな旅行が繰り返されているのではないかと。その積み重ねが人生という奥深く、深遠で、壮大な旅になっていくのではないかと。うーむ。日常を軽く見てはいけないと思う今日この頃です。
(広島県立美術館学芸課長 松田 弘)
広島芸術学会第22回大会報告
<研究発表①>
荻生徂徠における古楽の復元
-楽律・楽制・琴学に関する検討-
発表:広島大学大学院博士課程 陳 貞竹
報告:東京芸術大学教育研究助手 朝山奈津子
江戸中期の儒学者、荻生徂徠(1666-1728)と音楽との関わりは特に、明代の琴曲《幽蘭》の譜を解読、作品を復元したことで知られている。それは、徂徠が儒者として中国古代の音楽全般を深く研究した末の成果であった。しかし、徂徠が残した著作の多くは、史的考察が不十分で論に飛躍多しとの理由から、伝統音楽の理論と実践において顧みられることが少なかった。そうした中、陳貞竹氏の研究は、徂徠の音楽論全体を古楽の復元という観点から取り上げるという、興味深いものである。今回の発表では、膨大な原典資料を丹念にあたった成果の一端が披露された。以下、発表の流れに沿って報告する。
陳氏はまず、「古楽」すなわち先王の時代の音楽の復元が中国、韓国、日本の儒学に共有される重要なテーマであったことを述べた上で、中国における議論と徂徠の主張との相違を指摘した。中国では、正確な伝承と音律の計算方法が問題である。しかし徂徠は著作『楽律考』において、日本の十二律と中国の現行のそれとの違いを検討し、日本の楽律こそ大陸ではすでに失われた周漢時代の正統のものであると結論した。従って、真の古楽は日本に保存されており、計算で導き出すまでもなく再発見されうるのである。
これを踏まえて次に、徂徠の独特の理論である「五調」が紹介された。音階上の相対的な位置を表わす5つの階名(宮商角徴羽)を普通は「五声」と呼び、中国の古楽復元論においてはそれぞれの音が人間に与える影響を議論する。しかし徂徠は、著作『楽制篇』においてこれを「五調」、すなわち5つの音階種と捉え、日本の雅楽の五調子と結びつけた。そして、中国では見失われ見誤られた古い理論が、またしても日本には生きたまま残っていると主張する。
陳氏はさらに徂徠の『琴楽大意抄』を読み解き、その音楽論の本質に迫る。楽器はそもそも歌の伴奏であり、歌を引き立てるために歌とは別の調をとらねばならない。そして、異なる調の演奏をうまく調和させることから、君主が広く多様な臣下の意見を入れて正しい政治を行なうことを学びうる、と説く。古楽の実践は天下の治平に通ずる道なのである。
徂徠はこのような観点からさらにさまざまな音楽を評価した。俗楽、能など現行の諸楽は総じて古楽の精神に反している。のみならず中国についても、漢唐の時代以降は正統な楽が実践されず、中国はもはや夷狄に異ならない、という。一方、日本には古楽が本質的に保存されていることから、我が国こそが真の王道の後継者であると述べた。
陳氏の発表はこのように、徂徠の音楽論が儒者としての体系的思想の中枢に関わることを明らかにし、それが強烈なナショナリズムに彩られていることを指摘するものである。発表の最後には、古代の先王がなした詩書礼楽の四術による「士」の養成を手本として、江戸においても武士の音楽教育を徂徠が推奨した可能性に言が及んだ。「士」がすなわち武士を意味するかどうかは議論の余地があろう。しかし、歌舞音曲の類に積極的ではなかった武家の因襲の中に、「楽」を取り入れる余地があったとすれば、たいへん興味深い。今後の研究から、徂徠の実践についても明らかにされる予定である。
筆者はフロアより、徂徠がナショナリズムを主張した背景について質問した。これには、漢民族の王朝が絶えて満州族の清が興り、中国の権威が減じたこと、また、朝鮮通信使の将軍謁見に際して日本文化の位置づけを明確にする必要があったことが考えられる、との回答を得た。
「古代」と現在との関係をどのように捉えるか。これは歴史を書く上で、自国のルーツと権威に関わる重要なポイントである。徂徠の主張が当時の政界や学界にどのような影響を与えたのか、また、彼が音楽の理論と理念を通じて叙述しようとした民族の精神史は、その後どのように受け継がれたのか、すなわち、日本における音楽史ないし文化史記述の変遷の中に徂徠が位置づけられるなら、陳氏の研究はさらに大きな意義をもつと期待する。
研究発表②
オーネット・コールマンの音楽 -そのヘテロ性と自由-
発表:大阪大学大学院博士課程 佐々木 優
報告:能登原由美
ジャズ・サックス奏者、オーネット・コールマンは、1960年代のアメリカで一大ブームとなった「フリージャズ」ムーブメントの創始者として名高い。佐々木氏によって行われた本発表は、フリージャズという枠組みに限定されたこのようなコールマンの位置づけに疑義を唱え、楽曲分析を通じて彼の音楽の独自性を明らかにしようとしたものである。なかでも論点は、コールマンの音楽がもつ「ヘテロ性と自由」であった。
具体的な考察に先立ち、本発表の方法や対象の妥当性を裏付けるものとしてコールマンの音楽活動全般にみられる特徴が2点指摘された。すなわち、「2」という数字への偏執、独奏がないこと、である。さらに、このように独奏を行わなかったコールマンが好んだ編成には必ずベースが含まれていたことから、考察方法としてコールマンとベーシストの関係を明らかにすること、なかでも、演奏スタイルに重要な変化がみられる《Congeniality》を取り上げ、前作《Tears Inside》と比較考察することが述べられた。
まず、《Tears Inside》については、従来の機能和声的なビバップのスタイルを用いる代わりにコールマンは「トーナルセンター」という手法に基づき即興を行っていることが説明された。コールマンの奏法では全面的転調を伴うが、このことは一時的な転調しか行わないビバップ形式を遵守するベーシストとの間に齟齬をもたらす。その齟齬、ズレを表現した “discrepancy” という言葉の接頭辞 “dis-” をとって、こうした異質性が、「分裂している」という意味でのヘテロ性と捉えられることが示された。
次に、《Congeniality》については、もはや調性上では予め定められた形式のないことが示された上で、形式に基づくのではなく「音を聞く」ことによって奏者相互の一致( “congeniality” )を可能にしていること、しかし同時にここにも新たなズレが生じていることが明らかにされた。その新たなズレとは、トーナルセンターという中心が他者の解釈の介入により複数化することによって生じるズレであり、奏者間の関係性が必要条件となる。その意味で、 “con” 「共に」という構造の中で生まれるズレ、ヘテロ性であるとされた。ここから、コールマンの音楽における「自由」も、独奏ではなく他者がいるからこそ可能となる自由であり、それは最初に述べたコールマンの音楽活動全般にみられる特徴にも繋がりがあることが最後に示され発表は終了した。
佐々木氏の発表は、論旨が明快であったばかりでなく、楽曲分析という聞き手にも専門的知識を求めるアプローチを取りながらも、説明や言い換えを適宜交えるなど聴衆を配慮したわかり易いものであった。それは、この研究がジャズ音楽史の読み直しに繋がるものか、聴衆との関係はどのような影響を与えるのか、など会場から多くの質問が挙がったことにもみてとれる。それだけに残念だったのは、機器の準備の不手際により開始時刻の遅れや中断が生じてしまったことである。発表内容自体に水をさすことのないよう、運営側、発表側双方とも事前の準備・確認を怠らないようにしなければなるまい。
報 告
岡本太郎《明日の神話》広島誘致顛末記
発表:美術評論家 竹澤雄三
報告:詩人 井野口慧子
広島市に誘致をと、市民運動を展開した《明日の神話》は、結局今年の三月、東京の渋谷区に恒久展示が決定と発表された。だが岡本太郎と敏子の広島との関わりは深く、そのエッセンスだけでも報告させていただく。
太郎は10年間のパリ生活を終え帰国。1944年、太郎が33歳の時、広島の宇品港から出兵、中国大陸に向かった。戦後には平和式典への提言や原爆死没者慰霊碑、碑文論争、第五回原水爆禁止世界大会記念美術展参加。また〈夜の会〉のメンバーであった本郷町出身の文芸評論家、佐々木基一を通じて、原民喜、大田洋子とのつながりも早くからあった。
大田洋子の『半人間』(1954年講談社)の表紙は太郎が表紙・装丁をしている。
1954年3月、第五福竜丸がビキニ環礁でアメリカの水爆実験によって被爆した後、《燃える人》を描き、《青空》《瞬間》(この作品は所在が不明。森永製菓のチョコレート缶のデザインに使かわれた)《死の灰》などに《明日の神話》の原型がある。
実は1967年秋、学生時代に《太陽の塔》の模型制作アルバイトで南青山のアトリエへ1、2ヵ月通ったことがある。岡本太郎は、私たちが石膏像をきれいに整えたと思ったら、それを鉈であっという間に切り込んだり、塔の最上部の金色の顔には、台所から鍋蓋を持って来て取り付けたりした。太郎と間近に接することのできた貴重な体験だった。
そして私が広島市現代美術館に勤め、再び岡本太郎との巡り会うこととなった。
2003年7月、熊本市現代美術館で「岡本太郎展」が開催された時、講演で来ていた敏子さんから初めてメキシコで確認された《明日の神話》の話を聞いた。広島の市民がそれなりの対応をしてくれたら、世界発信の場所として、ぜひ広島に置きたい、「有料はイヤ。無料で見てほしい」とも言われた。
1996年1月、ちょうど被爆50周年記念事業「岡本太郎展」開催中に岡本太郎が亡くなったこともあり、敏子さんの想いは広島に傾いていたと思う。
2006年10月27日、広島誘致会イベントでは、市民球場で実物大の《明日の神話》を参加者一人ひとりがワンピースを配置して実物大(5.5x3m)のモザイクパズルを制作した。
そして広島での実際の設置案を現代美術館の回廊や、地中(まだ現物を見ていない時期)そしてハノーファー庭園にと、丹下健三の構想に基づいて最終案を村上徹さんに作ってもらい、東京に提出した。
前後するが、2005年4月、ギャラリーGでの「明日の神話展」は、前年パルコでの講演会の時に敏子さんと約束されたものだった。オープンの19日、空港に迎えに行っても敏子さんは飛行機から降りて来られなかった。翌朝、オープン当日にご自分の部屋で亡くなっておられたことがわかった。枕元には旅行の準備、飛行機のチケットが置かれていた。
敏子さんの想いはきっと次代に引き継がれることであろう。
今振り返ってみると、修復のことなどに気持ちがのめり込んでいて、著作権、展示権、アスベストの問題などの詰めが出来ていなかった。渋谷でいい展示ができればと、今は願っている。敏子さんは“太郎さんのおぼし召しで必ずふさわしい所に行く、作品が自らの場所を選ぶ”と言われていた。
かつて故今堀誠二先生が、広島には日本一のものが必要だと言われたことがある。今それが《明日の神話》だったのだと思う。カラッとしていてじめじめしていない、ストーリ性も人間の再生表現になっている。もともと知名度が高く、「芸術は爆発だ!」とのパフォーマンスでさらに有名になった岡本太郎の非常に優れた作品だからこそ、皆が一生懸命になった。
チェ・ゲバラが広島を訪れた時「こんなにひどい目にあって、なぜ立ち上がらないのだ!」と言った。革命的行動をとらない日本人は「人を恨まない」と言う。日本人の美意識かもしれない。この誘致で広島を見直す力を見いだした。広島は東京、大阪と競争をしたわけではなく、その立場を貫いたのだ。「タローポート」と名付けて広島を拠点に作品を貸し出そうという構想も、ヒロシマがもつ基本的な考えに基づく。今後私たちは、さらにここから広島の「まちづくり」イクオール「ひとづくり」展開をしなければと思っている。
以上
今回、竹澤雄三さんならではのお話を聞かせていただき、それぞれがそれぞれの想いや形で岡本太郎とつながり、<広島>が芸術を通じて一つになった体験を、これからもっと豊かに連動させていけたらと願う。私事だが、竹澤さんと同じ故郷、三次で過ごした時期、母のような存在だった叔母が今年6月に他界。晩年しばらくお世話になった牛田・神田山の長生園の玄関に、竹澤さんの父上、丹一先生の書が掛けられていた。「今日も仲良く」という何とも平凡な言葉が、緑色の強烈な文字で描かれていて、訪れる人の胸をぐいと捉えてしまう。
竹澤丹一という芸術家のいくつかの展覧会でも感じたことだが、生き方そのものも太郎に通じていた。その息子の雄三氏が太郎と出会ったのも納得してしまう。今後のご活躍を心から祈りたい。
なお、竹澤氏の報告をまとめさせていただいたのを機に、広島発の季刊誌「旬遊」のvol.22号(㈲メディクス発行 9月25日発売 750円)<詩が生まれる場所>に、私自身の岡本太郎との出会いを書いてみた。ご一読いただければ幸いです。
シンポジウム
アートにおける「記録と記憶」
-芸術が残すことと、芸術を残すことをめぐって-
報告:呉工業高等専門学校建築学科 冨田英夫
① 基調講演
「ル・コルビュジエの記録と記憶について」
千代章一郎(広島大学大学院教授)
②パネルディスカッション
「アートにおける/をめぐる「記録と記憶」
司会:松田 弘(広島県立美術館学芸課長)
パネリスト:千代章一郎、柿木伸之(広島市立大学国際学部准教授)
的場智美(アーティスト)
吉井 章(広島市立大学教授)
近代建築や広島について、記録と記憶が議論されるのは、直接的な体験者や体験物が失われつつあり、これまでとは異なった記録・記憶との関係が求められているからだろう。
本シンポジウムのテーマは松岡剛氏によるもので、ル・コルビュジエ作品の世界遺産への登録申請から始まる説明文には大きく分けて2種類の芸術作品と記録・記憶の関係が示された。すなわち、①芸術作品が記録され、その価値が継承されること、②芸術作品がその時代の社会と文化を記録すること、の2種類である。結果として今日の発表では②の方の内容が多かったが、①のテーマも語るべき重要なテーマであったと考える。
千代章一郎氏はフランス近代の建築家ル・コルビュジエの建築制作における記憶について発表した。まずコルビュジエにおいて記憶することとは、①記録すること、②参照すること、③想起すること、という整理がなされた。①記録することとは、例えばコルビュジエが若い時に勉強した建築の古典を、旅行で実際に体験し、動く製図台であるスケッチブックに手で記録することである。なお、彼の記録は他者の作品だけでなく自己の作品にもおよぶ。②そして、それらを建築の制作において参照する。例えば、ラトゥーレットの修道院の場合、アトス山で見た張り出すバルコニーなど多くの要素が参照される。 ③同時に、制作においては旅の記憶が自発的に想起される。例えばロンシャンの教会堂では、現象学的な意味でヴィラ・アドリアナの光が想起される。千代氏の発表はコルビュジエの建築的制作における「光の現象学」に注目し、そこに歴史的人間環境の再構築という意義を見出す点が特徴であった。
柿木伸之氏の発表は、「未問の記憶へ -記憶の痕跡としての美術作品の経験、その広島における可能性によせて-」と題する論文を資料として配り、それを読む形式で行われた。まずアドルノの「あらゆる芸術作品は文字である」というテーゼに注目し、「文字」としての芸術作品は沈黙において語りかけ、謎をかけ、常に新たな解読を迫ることを示した。つまり、芸術作品は無意識的なドキュメントとして、かつそれを今ここで不断に更新する想起の媒体として、記憶の現場でありうるのではないかという考えである。広島という都市において「記憶を想起しつづける」という芸術作品の持つ可能性への指摘は非常に示唆に富むものであった。
的場智美氏の発表は、アーティストの立場から自作の解説を中心におこなわれた。氏の作品は、地図という客観的な表現形式をとりながらも、現実とは異なる形で世界中の有名な30の都市が配置される。それらの都市は実に巧みに配置され、緻密に加工された一枚の地図上に存在している。その精度は地図に記された都市名を読み込むまでは、加工された地図であることに気づかないほどである。そして、鑑賞者は現実には隣合わない二つの都市の間を行き来することで、作者の言う「文化の隙間」に入りこみ、そこでの体験を想像するのである。
吉井章氏の発表は、「表象都市メタモルフォーシス広島」(2003)での作品を掘り下げて説明する形で進められた。「なぎの情景」と題する作品は高さ2m幅8.1mで、かつ絵の下方が少し折りまげられるという観賞者の視野を覆うような規模・形式の作品である。作者自身が記憶画のようなものと表現するように、作者が昔、遊んでいた頃の記憶をもとに広島の街が描かれた。今日の発表の中では最も「記憶媒体としての作品」という趣旨に近い発表であった。
また、会場から記憶と創造性との関係について質問があったことで、制作とその成果の作品における記憶の創造的な可能性がより明らかになったのではないだろうか。
投稿・エッセイ
「五輪」の花が咲く北京
広島大学 袁 葉
絢爛豪華かつ優雅な歴史絵巻が繰り広げられるにつれて、私は知らず知らず夢幻の世界へと引き込まれていった―北京五輪の開会式だ。
中国の四大発明のうち「紙」「印刷」「羅針盤」をテーマにしたスペクタクル。「火薬」は取り上げなかったようだ。「和為貴」(和を以って貴しと為す)という古代中国思想と、平和の祭典との繋がりを感じさせられた。この印象を北京の母に話したところ、「火薬もあったわよ。あの花火こそ、平和利用の象徴じゃないの」と切り返されてしまった。
だが、理想と現実のギャップはあまりにも大きい。開催中に起きたロシアとグルジアの紛争、新疆自治区でのテロ事件、北京での米国人殺害事件…。大会が無事終了できることを祈るばかりだった。
閉会式、いよいよ聖火台の火が消えてゆく。名残惜しいというよりも、やれやれ! という安堵感が先に立った。
悠久の歴史を誇り、世界最多の人口を持つ中国。五輪の開催がようやく今日になったわけは、中国人の気質および歴史的背景にあるようだ。
日本語には「いい汗」という表現があるが、中国語にはない。反対に「臭汗」という言葉はある。些細なことのように見えるが、中国人の伝統的なものの考え方を垣間見ることができる。
古くから中国では、「労心者制人、労力者制於人(頭脳を働かす者は人を支配し、肉体を働かす者は人に支配される)」という儒教思想があった。そして、日本と同じく「士農工商」という階級制度があったが、日本の「士」が「武士」の意味であるのに対して、中国では「士大夫」即ち科挙試験に合格した官僚や文人を指した。日本の武士が身体を剣道などで鍛えたのと異なり、士大夫の嗜みといえば、「琴、棋(囲碁、将棋)、書、画」であった。その名残か、中国では健康を維持するには伝統的に太極拳のようなゆっくりした動きが良いとされてきた。
中国の有名な作家・思想家―林 語堂は、『中国=文化と思想』(1937年)(講談社学術文庫1999年)の中で「中国人の精神は多くの点で女性的だ」と指摘していた。
五輪の開催は、「中国人百年の夢であった」と報じられているが、その根拠は、百年前に『天津青年』という雑誌に、五輪を紹介する論文が発表されたことによる。「いつ中国は五輪に選手を送れるのか、いつになれば中国は五輪を開催できるのか」とある。
しかし、アヘン戦争(1840年)以降、中国人は西洋人から「東亜病夫」(東亜の病弱な人)と評され、国民は列強各国の蹂躙と清朝の圧政に喘いでいた。千年以上も続く女性の纏足の慣わしはまだ存在していたし、識字率も低く、おそらく五輪の存在すら、ほとんど知られてはいなかっただろう。
1949年に中華人民共和国が建国してから、スポーツへの関心が次第に高まってきてはいたものの、俗に言う「四肢発達,頭脳簡単」(うどの大木)にも表われているように、旧来の考え方が依然として根強かった。
さらに、中国は台湾問題で1958年「国際オリンピック委員会」を脱退し、五輪は長い間、中国国民とは無縁のものとなっていた。ようやく夏季五輪への切符を手に入れたのはロサンゼルス大会、1984年のことになる。改革開放政策から5年目、ちょうどテレビが普及し始めていたのも手伝って、女子バレーが初優勝すると北京中が歓喜に沸いた。
当時、私は北京放送大学(現中国マスコミ大学)で日本語講師をしていた。興奮した私が「いつか、中国でも五輪を開催できたら…」と、それまで考えてもみなかったことを口にすると、同僚たちは目を丸くしたものだ。
24年後の今、ついに北京でそれが現実のものとなった。マラソン中継でテレビに映る故郷の街並みを見ながら、懐かしさに浸っていた。とその時、両親の母校、清華大学が画面に現れた。各国の選手がそのキャンパスを走り抜ける光景に、感無量だった。もしも60年前、そこの図書館で二人が出会っていなければ…。
それにしても、今回の大会が成功できたのは、陰で支えている日本人の力も大きい。メインスタジアム「鳥の巣」の構造設計や開会式の衣装デザイン、閉会式のテーマ音楽などは、日本人によるものである。
競技のみならず、いろいろな感銘を与えてくれた北京五輪。しかし、私の瞼に一番鮮やかに残っているのは、開会式で唯一、日中両国の旗を持って行進してくれた日本選手団の笑顔であった。
インフォメーション
<書展の案内>
「アートな瞬間 ~明日を信じて~ 前衛集団「太陽社」の仲間たち」
前衛書道を学んだ16名が、各々の今の生き様を示す「アートな瞬間」を旧日銀の空間に展開。一階大ホールでは、「命」をテーマに、来場者の参加によるオブジェ創りを行う。出品作家16名のうち、足利敏子、椎木 剛、三好尚美、山本てるみの4名は当学会の会員の方々。
日 時:10月1日(水)~19日(日) 10時~19時
会 場:旧日本銀行広島支店(広島市中区袋町5-21)
入場無料
広島芸術学会事務局から
○予定ではありますが、今年度の例会日程が決定しました。
第85回/12月20日(土)
第86回/2009年3月14日(土)
第87回/5月16日(土)
○第83回の野外例会「鞆の浦散策」報告は紙面の都合上、次号に掲載します。
第98号
広島芸術学会会報 第98号
広島芸術学会第22回大会資料
●研究発表要旨
①荻生徂徠における古楽の復元
―楽律・楽制・琴学に関する検討―
広島大学大学院博士課程 陳 貞竹
古楽の復元という主題は、例え中国の朱熹、蔡元定、朝鮮の丁若庸にも見られるように、儒教思想の展開とともに近代以前の東アジアと広がっていた研究テーマの一つである。そこには個別の研究文脈において、異なる視点・方法が用いられ、古楽復元の作業がさまざまに試行された。
江戸において、古楽の復元に関する議論はそれほど大きく取り上げられていないが、積極的に行ったのは、荻生徂徠・富永仲基等が挙げられる。中では、例えば徂徠の楽論を修正しつつ継承する太宰春台・山縣大貳等がいたのに対して、富永仲基のように徂徠楽律論を強く批判する人もいたように、継承にせよ、批判にせよ、徂徠は、江戸における古楽の復元に重要な基点となっている。つまり、江戸における古楽の復元という主題の展開を把握するに当たって徂徠は避けられない存在である。
古楽の復元について徂徠が具体的に取り組んだのは、楽律・楽制・琴学に対する論考である。これらの業績は、従来、古楽譜の「幽蘭」の解読に大きな業績を残した琴学研究では高く評価され、他方、徂徠の楽律に対する認識は、歴史的な事実と乖離する点でマイナス的に評価されてきた。これらの評価は、音楽考証からの客観的な評価である。しかしながらその一方、江戸において古楽の復元はいかに論じられたかを把握するに当たって、音楽思想からのアプローチで徂徠の古楽研究を検討する余裕がまた残っている。
本発表では、江戸における古楽の復元を検討するための一つ基礎作業として、荻生徂徠における古楽の復元に焦点を当て、その楽制・楽律・琴学の捉え方、及びその総合的な関係を検討し、徂徠における古楽の復元の在り方および特徴を明らかにしたい。
②オーネット・コールマンの音楽
―そのヘテロ性と自由―
大阪大学大学院博士課程 佐々木 優
オーネット・コールマン(1930-)は、アメリカ・テキサス州出身のジャズ音楽家である。1950年代に演奏家・作曲家としてのキャリアをスタートして以来、従来のジャズ演奏のスタイルにおさまらない彼の音楽は「フリー・ジャズ」と呼ばれてきた。コールマンをこの動向の創始者の一人と見なすという点において評価は安定しているが、彼の音楽そのものに関しては活動の当初から現在に至るまで賛否が分かれている。こうした賛否の激しい対立は、コールマン自身が自らの音楽理論として提唱する「ハーモロディクス」なるものの存在によってさらに拍車がかけられている。コールマンは1972年以降、このタームを頻繁に口にするようになり、ハーモロディクスという理論体系をまとめたものを書籍として公刊するとの発言を繰り返してきた。しかし、未だ公にされることなく、半ば秘教化されたまま現在に至る。
こうした状況の中でコールマンを考察しようとするならば、まずは作品や演奏自体を分析してみる他はない。分析を通してわかるのは、様々なレヴェルでなされる異質なものを共存させるコールマンの手法、その所謂「ヘテロ的」なあり方である。本発表は、こうした理解のもと、コールマンおよび彼の理論であるハーモロディクスの位置づけを試みる。その際、コールマンにとっての「フリー」な演奏とは何か、ということが同時に問われることとなろう。
●報告要旨
岡本太郎《明日の神話》広島誘致顛末記
美術評論家 竹澤雄三
岡本太郎・敏子にとって広島は特別の町であった。だが《明日の神話》の恒久展示場として、広島は一貫して「ヒロシマ」を主張したが、東京の渋谷と決定されてしまった。しかし、広島のその姿勢は今後のまちづくりに反映される。
●テルミン奏者のプロフィル
船田奇岑(ふなだ きしん)
CBSソニー中国地方SD、制作スタジオ サウンドデザイン MITなどを経て、現在もHALEレーベルなどで活躍中。
本業は絵師。日本画から現代美術まで幅広く活動し、東京・代官山アートフロントギャラリー、広島・福屋本店美術画廊などで個展を多数開催。2007年開業のザ・ペニンシュラ東京には130点の作品がある。
最近はテルミン(Theremin)の即興演奏での可能性を求めて、現代邦楽、フリージャズなどのミュージシャンとも、コラボレーションを数多く行っている。
投稿・エッセイ
「愛に国境なし」-6.7四川大地震救援チャリティーイベントの報告
范 叔如
5月12日、中国四川省?川でM8の大地震が発生しました。死者は7万人近く、今なお行方不明者約1万人、負傷者に至っては30数万人に上り、被災者全体は1千万にも及ぶ大災害です。甚大な被害は、生き残った人々の生活にも深刻な影響を与えています。この地震は1976年7月に起こった唐山大地震以来、中国最大規模の地震となりました。被害は広範囲に及びましたが、特に小中学校の校舎倒壊により多くの児童生徒が犠牲となり、世界中の人々を悲しませました。世界各地から次々と支援が寄せられる中、日本からはいち早く救援チームに続いて医療チームまで派遣され、中国の人々に感動を与えました。
広島県と四川省は友好提携都市であり、広島に住む一中国人として、さらには一芸術家として、震災地に何かできないかと考えました。そこで広島国際書芸交流会代表の馬仁武さんと相談した結果、広島で芸術活動をしている中国人音楽家・芸術家たちとでチャリティーコンサートと書画作品の実演即売を実施し、広く来場者に被災者義援募金を呼びかけることにしました。その輪は次第に広がって、日本人の音楽家や書家らも参加することとなり、広島市と広島平和文化センタ-からは共催支援を受ける形で、最終的に6月7日、広島駅エールエール地下広場にてイベントが実施されました。
今回の広島在住の中国人ならびに日本人音楽家と書画家による「中国・四川大地震救援チャリティーイベント」は、参加者すべてボランティアで、交通費や書画の用紙まですべて自費で賄いました。5時間にも及んだイベントには多くの市民が訪れ、同地の被災者救援に向けて市民の関心を高めるとともに多額の募金を集めることができ、救援活動の一助とすることができました。募金への参加者は延べ400人、集まった総額は54万円あまり。広島市・広島平和文化センタ-から日本赤十字を通じて中国赤十字に贈る予定です。
アーティストたちが提唱した今回の救援チャリティーイベントの開催は、芸術家社会における一つの非常に意味ある活動に違いありません。芸術家はいかなる社会的責任を担い、市民との交流活動はどうあるべきかについて考えさせられ、一般市民たちの被災地の人々に対する深い同情と心温かい支援は、参加した芸術家にも感動を与えました。日本の社会は、今回の四川大地震に極めて大きな関心を寄せています。災難時の人々の愛は、国境を越えると実感した次第です。
今回のイベント出演者 書画は臧新明、王海賓、馬仁武、范叔如、朴曜子、吉井美智子、村中美香子、西谷洋美。歌は韓伶俐、申咏梅。二胡は姜曉艶と広島二胡十二楽坊。ビオラ演奏は沖田孝司。篠笛演奏は江村章子。バイオリン演奏は周艶。古筝演奏は夏田。オカリナ演奏は江村克己。ハープ演奏は藤田真衣、西川有里子。変臉は王若涛。また他の参加者は金樹華、金嵜耕壮、内田政美と安田女子大学書道専攻の学生たち。代表は馬仁武。(敬称略)
「軽生」する日本人?
広島大学 袁 葉
2008年―中国人が鶴首して迎えた年だ。アヘン戦争以後の長い間、西洋人から「東亜病夫」(東亜の病弱な人)と言われていたこの国で、オリンピックが開催されるからだ。
ところが今年に入り、「餃子事件」や「チベット騒乱」、「聖火リレーへの妨害」などの芳しくないニュースが相次いで流れており、胡錦涛国家主席の訪日によってさえ、その暗雲を吹き飛ばすことができなかった。
加えて、世界的にも稀に見る大地震が、中国の四川省を襲った。まるで今まさにジャンプしようとした人間が、顔面パンチを喰らった上に、脚までへし折られたようで、もう「オリンピックどころではない」と思われた。
とその時、日本のマスコミは大地震報道の翌日から、救援募金を呼びかけた。なんとコンビニにまで募金箱が…、胸が熱くなった。
さらに外国からの救助隊の中では、日本が先頭切って現地入りした。任務を終えた隊長は,生存者の救出に至らなかったことを悔やみながらも、被災者からのカップ麺の差し入れや、子供がチョコレートをくれたことを述べた。命がけの救助活動が、衣食にも事欠く人々にも感動を与えたのだろう。
しかし、中国人の心を打ったのは、なんと言っても、瓦礫の中から遺体が運び出される度に、日本の救助隊が黙祷する姿だ。
日本人の「生死」に関していえば、中国人はつい、「切腹」や戦時中の振る舞い、自殺者の多さなどから,「軽生」(生命を軽んずる)と結びつけてしまう。日本人の救援活動ぶりは、テレビを見た中国人の間に大きな波紋を広げた。日本を快く思わないと書いたある中国人でさえ、ネットに次の文を載せた。
「…日本の救助隊が今回被災地で犠牲者に捧げた黙祷は、私たちの心を強く揺さぶった。我々は知っておかなければならない。彼らが救助活動中に見せる死者への哀悼と告別、それはどの隊員も真摯な態度で、身体中から人間性の輝きを放っている。その悲しみ、その情は天地を揺るがすものである。(中略)我々は言いたい。『友よ、いつか中国人は必ず恩返しをします。』」(筆者訳)
このような文章は、ネット上に数多く寄せられている。
そもそも、両国の「死」に対する考え方は大きく異なっている。中国語には「死生観」という言葉はなく、「生死観」となる。中華人民共和国成立後、死後の世界を迷信として批判してきた。今ほとんどの中国人は無神論者である。「死」とは体の機能が停止して土に帰ること、一種の自然現象として捉える。一方日本では、肉体が無くなっても魂は生きている。「千の風になって」の大ヒットの所以だ。また、中国には昔から「善人は死んでも善人だ、悪人は死んでも悪人だ」という考えがあるのに対して、日本では「どんな人でも死んだら仏になる」(死者に鞭打つのを嫌う)となる。
日中関係が近年ちぐはぐになっていた。「遠親不如近隣」(遠い親戚より近くの他人)日本と中国とは、喧嘩しても引っ越すことのできない宿命的な隣人になっている。
今回の大地震は、奇しくも中国人の日本人に抱くイメージを大きく変えてくれた。これを機に両国民が互いの伝統文化や風俗習慣はもとより、ものの考え方の相違についてより理解を深めていけたなら、唐の時代のような友好関係が続くのではないだろうか。
「祈り」
画家 高山博子
昨年、私は二度インドに出向きました。それは運命の糸に導かれるような不思議な縁の連続で、私にとっては夢に、未来に向かう新たな旅立ちになりました。以前から憧れていたタゴール国際大学を訪れることができたのです。タゴール国際大学はシャンティニケタンにあり、インドの生んだ最大の詩人で哲学者のラビンドラナート・タゴールが1901年に設立しました。日本からは明治時代より、岡倉天心、横山大観をはじめ哲学者、画家、音楽家が訪れ、多くの留学生が学んできました。ここでは精神的な豊かさを発見できる。タゴールの理想とした世界が広がっているのです。
一度目の訪問は6月下旬から7月でした。梅雨時期のインドは経験したことがなかったので、多少の不安もありましたが、大麻様からシャンティニケタンに長く住んでいらっしゃる牧野財士先生のことをお聞きして、是非訪ねてみたいと思い立ち、そう思うと一刻も早く実現したくなったのです。牧野先生は日印関係史の生き証人のような方です。昭和33年、34歳でインド教育連盟の要請により獣医畜産指導のため船でインドへ向かい、50歳の時、タゴール国際大学の日本語教授になられ、15年間もインド人学生に日本語を指導されました。
大麻様から牧野先生のことをお聞きし、カルカッタのホームステイ先のディパリさんにお尋ねしたらなんとか住所も分かるのでは、と助言をいただいていたものの、私には何のあてもありませんでした。ところが何十年ぶりかというモンスーンで、カルカッタはすごい雨でした。ホームステイした家の前の道も1メートルくらい水が溜まって外出もままならず、雷に停電です。私の人生で経験したことのないことばかりで驚きと恐ろしさで、心も不安定になり、雨がやんでくれますようにと祈る日々でした。
しかし、雨はやまず、仕方なくシャンティニケタン行きを断念し、デリーに戻ることにしました。その前に日本山妙法寺のカルカッタのお寺にお参りしました。そこでお話をする機会を得たのは斉藤上人です。私は牧野先生を訪ねたくてインドへ来たとお話をして、日本へ帰りました。
梅雨のインドは貴重な体験でしたが、シャンティニケタンへは行けませんでした。帰国して1ヵ月余り経ったころ、もう一度チャレンジしようと心に誓っていたころでした。思いがけなくインドの斉藤上人からお便りを頂戴しました。そこにはシャンティニケタンの牧野先生の家の電話番号が記されていました。斉藤上人は私のためにわざわざ調べてくださったのでした。嬉しくて感謝の気持ちでいっぱいになり、すぐインドへ電話をかけました。牧野先生に是非、お会いしたいという思いを伝えさせていだだきました。
デリーの日本山妙法寺で11月14日に世界平和仏舎利塔の落慶法要があることを聞いていたので、その法要に参加し、その後でシャンティニケタンに行きたいという思いがわき起こってきました。
二度目の旅はこうして実現しました。法要に参加するツアーに同行させていただき、途中から単独でカルカッタへ向かう予定になりました。
日本山妙法寺はこれまで、山口恵照先生とともに何度かお参りをさせていただいたことがありました。故藤井口達先生は世界平和を願い、ガンジーのアヒンサー(非暴力)とインドの独立運動に理解を示されていました。そして藤井先生の随身であられた堀内克子さん。小柄で華奢なお姿からは想像のつかないほどの熱い思いで多くの苦難を乗り越え、仏舎利塔の完成にこぎつけたと聞いております。
式典にはダライ・ラマ猊下をはじめ多くの方々が集まられ、世界平和を願う祈りの声は天高く響き、それは崇高な雰囲気でした。私も片隅で自分の芸術を通じてインドにお返しができ、世界平和へとつながる何かの架け橋になりたいと誓いました。
カルカッタに着くとすぐに牧野先生からお電話をいただきました。牧野先生は「用事でカルカッタへ行くのでその時会って、一緒にシャンティケタンへ帰りましょう」と言ってくださいました。
カルカッタの日本山妙法寺で牧野先生に初めてお会いすることができました。それから、3時間ずっと同じ汽車でシャンティニケタンへ向かったのです。到着してすぐに牧野先生ご夫妻は私の宿泊先を見つけ、タゴール国際大学へ行って、学舎の間に立つ仏像やタゴールの住居の跡、タゴール博物館、瞑想ホールを案内してくださったのです。雄大な自然の中にある大学。そこには人間の本来の営みが根強く残っていると感じました。
私は27年前、初めてインドと出会い、幾度もインドを旅してどのような生き方をすべきかを学ばせていただきました。画家として、人をテーマに生命の喜びを描きたいとこの道を歩んできました。今年、50歳を迎えます。インドから帰国し、残された生命、自分の芸術を通して愛するインドと日本の架け橋になりたいという気持ちがいっそう強くなってきました。
仏様のお導きとしか思えません。タゴール国際大学でお目にかかった美術科の学部長から、今年2月に招待のお手紙を頂戴しました。そして今年11月からタゴール国際大学へ客員教授として赴くことになったのです。インドが私を呼んでくれたと、感謝の気持ちでいっぱいです。インドと私何か昔から糸で結ばれていたような気がしてならないのです。
振り返ってみれば昨年のインドの旅は祈りの旅でした。カルカッタの日本山妙法寺から始まり、デリーでの落慶法要、そして牧野先生との出会い。仏像とともに、仏様に守られ導かれての旅でした。長い人生、どんな苦難に出くわすか分かりませんが、いただいたこの道一筋に精進していこうと誓いを新たにしています。生かされている一人として、世界が平和であることを願い続けます。
第97号
広島芸術学会会報 第97号
サイト・スペシフィック + ヒロシマ
「サイト・スペシフィック」という概念を特に意識していた訳ではなかった。しかし、広島に来た時から、「この地で個展を開くなら、被爆建物で」という思いは持っていた。それまでも行っていた、東京の美術館やギャラリーとは異なる「ここでしかできないこと」をしたかった。それが実現するまでに14年もかかってしまった訳だが、私にはそれだけの準備期間が必要だったということだろう。彫刻的な力量の向上やテーマの考察と明確化、そして何よりも人との出会い、それらの機が熟し、昨年末、広島市立本川小学校・平和資料館(被爆建物)で個展「REALITY OF LIFE AND DEATH / HIROSHIMA《ヒロシマのピエタ》」を開催させていただくことができた。
「サイト・スペシフィック」という言葉については、美術手帖(2008年4月号、特集「現代アート事典」)に、「モダニズム以後における美術作品の自律性という主張は、ホワイトキューブという語が典型的に示す通り、作品が置かれる『場』を非-場所的なものとして抽象化する。これに対し、『場所の特殊性』へと向かう主張は、作品と、作品が置かれる場とを分節せずに、両者を不可分なものとしてとらえる思考である。」とあるが、この語はロバート・スミッソンやクリスト&ジャンヌ=クロードといった「ランド・アート」の文脈の中で語られているので、正確には、私が行ったことは当てはまらないのかもしれない。
しかし、未熟ながらも私自身がこれまで追ってきた 「REALITY OF LIFE AND DEATH」」というテーマの彫刻作品を、原爆投下により多くの方が亡くなった建物自体に展示するという試みをしたかった。そしてそれは、命を軽んじる事件が頻繁に起きている現代社会だからこそ、広島から発信する意味があるのではないか、と考えていた。先術書の中で「サイト・スペシフィック」には、2つの方向性があるとされ、1つは、「作品を設置することで場を読み替え、特殊な場を生成すること」、もう1つは、「場の特殊性を所与の条件とし、それに沿うように作品を生成させること」とあるが、私の場合は被爆建物という場所性と、「命」「生」「死」等のテーマ性という点で、どちらのアプローチにも当てはまるような気がする。私が行いたかったのは、被爆建物である「場」が持つ強い力を借りながら、そこに生や死をテーマにした彫刻作品を展示・配置することにより、会場全体を作品化してみることだった。
元々、このテーマは生や死に関わる私的な体験に端を発しているが、例えば、アウシュヴィッツやニューヨークのグランド・ゼロ、ベルリン等で見、感じたことも含めて、これまで自分が接してきた様々な出来事、人々からインプットしたものを、私なりの方法でアウトプットしたものであった。この度の展覧会は一応の帰結点ではあるが、今後も「生きる意味」を、彫刻制作しながら考えていきたいと思う。
会期中、第52回ヴェネチア・ビエンナーレ日本代表の岡部昌生さんをはじめ、本当にたくさんの方々が会場を訪れてくださったことに心から感謝している。
一鍬田 徹 (広島大学教育学研究科准教授・ひとくわだ とおる)
第82回例会報告
研究発表①
湿潤の風土に培われた日本絵画の空間性
―何故「雲」は描かれ続けたか
発表:広島市立大学大学院芸術学研究科日本画専攻 山浦めぐみ
山浦氏の発表の眼目は、表題に端的に示されているように、日本絵画(明治以降の西洋画または洋画に対抗する区分として普及した言い方としての「日本画」ではなく、概ね唐様に対して和様が成立したとされる10世紀後半以降から江戸末までの絵画)が、その特質を獲得し、それが連綿と維持され、それゆえ日本独自の絵画様式として大きな絵画的成果を上げた原因として、「湿潤」という気候風土があるのではないか、ということである。
まず、山浦氏はそもそも日本絵画の成り立ちから論を起こし、それは西洋の額縁に入った単独の絵画とは異なり、日本においては生活の場で実用を兼ねて制作された平面作品がもっぱらであったことを挙げ、具体的に神殿造りや武家造りの居住空間における襖や障子の機能に注目された。その襖には絵が描かれ、そこに居住する人は、その襖絵の題材による独自の空間に遊ぶだけでなく、その開閉するという襖の機能により、視覚的にも(実際にはその場では見えない空間も感覚的に感受できるのだが)空間移動という点からも空間の多層性と、固定することなく移り行く感覚を得ると指摘された。論者はこれらを「しつらい」「見え隠れ」や「気(き)」と「気(け)」あるいは「うつりゆき」という概念で説明された。
これらの概念や感覚は、日本人が湿潤な気候風土の中で、長年かけて獲得した生理的あるいは観念的記憶でもあり、心的特質にもなっているといってもよいものである。絵師たちは、それらは「雲」というモティーフを使うことによって、絵画空間の中に有効に表現できることを発見した。雲によって風景や人々の暮らしぶりは「見え隠れ」し、その雲の向こう側の見えないところに気配(「気(け)」)や匂いや季節の「うつりゆき」を感じたり、想像することができるのである。山浦氏は、これが湿潤な気候風土に暮す日本人が、日本絵画に「雲」を描き続けた理由であると結論づけられた。
他にも、膠を使う日本絵画の素材や技法が日本の湿度や温度に適していること、岩絵の具の乱反射する柔らかい光の効果が、湿潤な気候風土を描くとき親和的であることなど、日本絵画が現在まで連綿と描き続けられている理由も述べられた。
私は、日本絵画における「雲」の表現を、何気ない絵画における一様式としてしか考えていなかったが、今回の発表でこれが日本の気候風土や生活習慣の奥深いところで繋がっていることを知ることができた。
(報告:広島県立美術館学芸課長 松田 弘)
研究発表②
ゴッホの農民画について ~ミレーの影響を中心に
発表:財団法人ひろしま美術館学芸員 水木祥子
本発表は、田園風景や農耕作品を扱った作品をテーマとした展覧会「田園賛歌~近代絵画に見る自然と人間」(ひろしま美術館では2/23(土)~4/6(日)開催)の展覧会カタログに寄せられた水木氏のエッセー「ゴッホの農民画~ミレーの影響を中心に」がもととなっている。
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890年)はオランダ南部の小村に生まれ、37歳でこの世を去ったが、その短い人生の中でも画家として活動したのは1880年(27歳)以降の僅か10年間である。しかしその間にゴッホは、素描も含めると実に2000点以上にもなる大量の作品を残している。とりわけ農民はゴッホの画家人生において彼の心を捉え続けた主題だった。それでは何故ゴッホは農民に心惹かれたのか、そして如何に表現しようとしたのか。これらの点について水木氏は、ゴッホが特に影響を受けていたと考えられる19世紀フランスの画家ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875年)との関係を中心としつつ、ゴッホの書簡をもとに考察された。
ゴッホの画業は、オランダに滞在し主に暗い色調で描いた時代(1881-1886年)と、その後フランスに移り、独自の明るい色彩で描いた時代(1886年-1890年)に大きく分けて考えることができる。とりわけオランダで活動した最初の5年間の絵の主題は農民が中心だった。1870年代は農民の生活を描いた絵が大流行しており、中でもゴッホはミレーに影響を受けた。1880年には既にミレーの複製画を部屋に飾り、「この巨匠を真剣に研究しようと努力」(書簡135)している。ゴッホは「炎の画家」といわれるように情熱的な画家のイメージがあるが、実際はこつこつと勉強していくタイプの画家だった。事実、ゴッホが制作を開始した最初期、彼はミレーの複製画を碁盤の目を用いて正確に模写したり、モデルに同じポーズを取らせて素描の勉強をするなどしている。そんなゴッホにとって、慎ましく勤勉に働く農民の姿は理想の姿でもあった。また、ひたむきに働く農民の姿を描いたミレーは憧れの存在だった。こうしたミレーへの憧れは、ミレーを貧窮の中で描き続けた不遇の芸術家というイメージに仕立てたアルフレッド・サンシエの評伝によってより強められた。ゴッホの書簡の中には、サンシエがミレーについて語った「彼の農民は種をまいている土で描かれているようだ」という言葉がくり返し引用され、自らも土の匂いのする農民画を描くことを理想としていた。そして、そのためには解剖学的、構造的に正しく描くことよりも、情感を込めて描くことが必要であると考えていた。
ゴッホの絵に大きな変化が現れたのは、1886年にゴッホがフランスに移って以後である。パリで印象派や日本の浮世絵に出会うことによって、ゴッホの絵は明るい画風へと転じている。フランスではしばらく鮮やかな色彩を用いて麦畑や積みわらのある風景を描くのだが、その後再び≪種まく人≫で人物画を再開する。この作品では、ゴッホはミレーの作品を自分の色彩を用いて描き直している。ゴッホはミレーの作品を模写することで、ミレーが農民に見出していた宗教的な深い精神性を再現するとともに、自分なりの色彩を用いてそこに新たな「解釈」(書簡607)を加えようとしたのだ。こうした色彩を用いた模写は晩年までくり返し行われた。
ゴッホにとって、農民の勤勉な姿は芸術家としての理想像でもあり、生涯を通じて描くべき対象であった。また、農民の姿に深い精神性を表現したミレーを手本としながら、感情を表す独自の色彩によって自らの世界を表出させようとしたのである。
(報告:広島大学大学院教育学研究科博士課程前期一年 田村桂子)
投稿・エッセイ
百聞不如一見
広島大学 袁 葉
数年前に、テレビ番組で次のような実験を見た。日本人女性が道端で落としたコンタクトレンズを探している。さて、通行人はどう反応するか? 日本では、しばらくすると声をかけてくれる人が現れ、一緒に探し始め、それがやがて四、五人になる。タイでもほとんど同じ、さすが微笑の国だ。ブラジルでは、たちまち十人くらいになり、野次馬を含めると二十人を超えている。しかも見つかると、全員で「パラパラ」を踊りだした。次は華の都-パリだ。遠く低く構えたカメラの画面に、次から次へと紳士・淑女の脚が現れては消える。結局、そのまま30分が経過し、実験は打ち切り…。
その一年後、あるフランス人教授に食事に招待された。奥さんは日本人で、かつてフランスに8年間住んでいた。この番組のエピソードを話し、「フランス人はアジア人に対して冷たいのでしょうか?」と尋ねたら、奥さんからこんな答えが返ってきた。
フランス人は徹底した個人主義であり、他人のことに関しては基本的にはノータッチだ。が、自分がいた時、近所の学校から日本音楽の紹介を依頼され、ピアノ演奏をしたりしていた。アジア蔑視どころか、異文化に関しては興味津々だった。
そして、病気の時は現地の友人が家族同様に看病してくれた。だから、本当に困っている人になら、援助の手を差し伸べるという感じ。現に、世界のどこかで災害が起きると、フランスはEUでは一、二を争う速さで現地への医師団の派遣や物資の援助を行っている。
そう言えば、昔から亡命者受け入れにも積極的である。
昨年、北京に里帰りしていた時、こんな記事を目にした。79年にシラク前大統領は、かつて植民地だったベトナムの中国華僑を養女にした。
07年の年末に夫とフランスを旅行した。パリのセーヌ川にかかる橋を渡っていくつかの角を曲がると、鉛色の空の下に白亜のノートルダム寺院が現れる。荘厳な姿にアーチ型の門と花形のステンドグラスからは、優雅な香りが漂っている。入場を待つ列の私たちの前は、スラブ系の男女、後ろはドイツ語で話す若者が四、五人。
祭壇で手を合わせたあと、右側の通路へ進むと、スポットライトの下でガラス張りのケースを囲んで、何かを書いている人たち…。見ると、4色のメッセージカードが置いてある。
「Message of peace― Message de Paix」
壁側の豪華なステンドグラスに気を取られて通り過ぎる人は別として、そのまま立ち去る人は一人としていなかった。ケースの中には色とりどりのカードの山、一枚また一枚と増えていく。
肌・眼・髪の色、言語も信仰も考え方も、イデオロギーもアイデンティティも異なるにも関わらず、「平和」への想いとなると、自然と一つの「輪」になる。
これまで、色んな国で幾十もの教会を訪れたことがあるが、このような空間は初めてだ。フランス人の平和を希求する心に、世界中からの人々が応えている。
赤いキャンドルの数々をバックにした目の前の光景から、なぜか金子みすずの詩を思い出していた。
「みんなちがって みんないい」
広島芸術学会事務局から
*5月18日の野外例会には会員でない方も大歓迎です。お友達をお誘いの上、どうぞ。
*広島芸術学会 第22回大会は2008年7月26日(土)を予定しています。内容は研究発表とシンポジウムです。
*広島芸術学会主催の次の芸術展示は2009年1月13日(火)~1月18日(日)を予定しています。ジャンルは問いません。どうかふるってご出品ください。出品規定など詳細は後日送付させていただきます。
*会報の次号発行は7月初めです。掲載ご希望の展覧会案内や原稿がありましたら、どうぞ事務局・大橋(TEL082-506-3060)までご一報ください。
*広島芸術学会ではいつでも新会員のご入会をお待ちしています。関心がおありの友人・知人がおられましたら、事務局までご連絡ください。会報(無料)や年報(1500円)のバックナンバーもそろっています。
第96号
広島芸術学会会報 第96号
インドの光と影
広島経済同友会のインド経済視察団の団長として初めて成長著しいインドの土を踏んだ。11月17日から総勢21人のあわただしい8日間の旅だった。
17日午前8時前、広島駅を出発、福岡空港11時45分発のタイ国際航空機でバンコク経由、デリー午後11時前到着。(日本との時差は3時間半、日本時間では翌日の午前2時半)
24日までの8日間、デリー市内観光(アグラ城、タージ・マハル)、ベナーレスへ飛んでガンジス河岸の沐浴を見学。その後インド最大の都市ムンバイ、さらに「インドのシリコンバレー」と呼ばれるインド南部カルナタカ州の州都バンガロールを視察し、バンコク経由で関西空港へ帰国した。
その間、主な市内観光やデリー郊外のスズキの子会社「マルチスズキ」のグルガオン工場をはじめ、バンガロールではインドを代表するIT企業「インフォシス・テクノロジー」の本社などを視察。また、各都市で日本人経営者やインド駐在員との昼食墾談会、ムンバイ日本国総領事館・日本人会理事との懇談会を持った。
インドは日本の国土の9倍、人口は12億人を超える。中国に次ぐアジア最大の大国である。ただ短い期間だったが、予想以上の貧富の格差に正直驚かされる。大都市のどこへ行っても街にあふれる路上生活者。インド最大の都市で人口1,600万人のムンバイでは、700万人がスラム、路上生活者100万人、住居不定が20万人と半数以上が定職がない状態。路上生活者に混じってヒンドゥー教の聖なる生き物として別格扱いの野良牛が歩き回る。その他野良豚、犬、ヤギ、ラクダ、猿などもあちこちに見られる。
インドを語る時、光と影、成長と貧困、渋滞、雑踏、猥雑、喧噪・・・あらゆる表現ができる。ただ、どんなに貧しくても路上生活者の表情は明るい。
限られた時間ではあったが、「生きる」ということを改めて考えさせられた旅であった。
山本一隆 (やまもと かずたか 中国新聞社)
第81回例会報告
研究発表①
「性格のない人間」における身体の一考察
R・ムージルの小さな物語をめぐって
発表:郵便事業株式会社広島支店 大山智徳
第一次世界大戦前夜のヴィーンの閉塞した精神風土を風刺的に描きながら、いかなる「特性」にも甘んじることなく未来の可能性を追求し、神なき時代を生き抜く人間の内面に迫ろうとする実験として、巨大な断片『特性のない男』を残したオーストリアの作家ローベルト・ムージル。その掌篇「性格のない人間」に描き出されるのは、固有の性格を追い求めながら、結局は自分を社会的に認知されたアイデンティティにおいて同定する視線を、肥満してゆくみずからの肉体において引き受け、ついには身体を同定されうる形姿で近代の社会的空間のうちに現出させる規律と訓練──まさにミシェル・フーコーが、人間の身体を近代的な権力の効果として現出させるとしたあの「規律=訓練」である──を要請するに至る、あまりにも現代的な人間である。大山智徳氏の研究発表「『性格のない人間』における身体の一考察──R・ムージルの小さな物語をめぐって」は、そのような一人の男を主人公とする、反教養小説とも言うべきムージルの掌篇を記号論的分析の俎上に載せ、それがどのような記号として身体を描いているかを浮き彫りにすることで、この作品を、身体を語る言説の可能性の場として読みなおす見通しを切り開こうとするものである。
大山氏は、とりわけロラン・バルトによって洗練された記号論に独特の解釈を加えながら、「固記号」、「閉記号」、「開記号」という記号の三様相を、身体のありようと重ね合わせようとしている。そうすることで、言説の効果として身体が記号として現出する次元に開かれた視座を確保するとともに、そこにある内部と外部の転換をとらえようとするのである。そのように身体を記号としてとらえる見方を、ムージルの作品に適用したとき、作品世界の内部にどのような身体像を見届けることができるのか。この問いが、大山氏の発表のライトモティーフをなすものであろう。
大山氏によれば、ムージルの「性格のない人間」は、近代の統合された、一つの閉じた記号としての身体が形成される手前で、どのような言説が力として作用するのかを描き出すとともに、統合された身体において一定のアイデンティティを担う人間像を超越論的シニフィエとする近代的な「個体」の概念が、実は虚構にすぎないことを暴き出してもいる。自分の身体を社会的に認知された性格の場として規律し、訓練する権力のまなざしを、固有の性格の断念とともに引き受ける主人公の姿は、身体解釈としての権力の言説が身体を可視化する近代の空間を浮かびあがらせるとともに、そこに現出する身体が中心をもたないことを示しているのだ。そうであるがゆえに、ムージルの作品においては、近代の社会空間のただなかに、宙づりの身体が現われる。大山氏が「差異身体」と呼ぶ、身体技法によって統御されえない身体が、そこで浮遊し始めるのである。
このように近代の空間を内側から揺さぶるムージルの作品は、大山氏によれば、近代的な身体像を相対化する視座を提供すると同時に、現象学的な身体論をも乗り越える身体論の可能性を暗示するものである。それは、情報によってさらに内側から管理されようとしている現代の身体にどのように切り込んでいくのか。身体論の今後の展開を楽しみにさせられる発表であった。
(報告:広島市立大学国際学部准教授・柿木伸之)
研究発表②
画家の残したスケッチブック ─児玉希望に関する新出資料紹介
発表:広島県立美術館 永井明生
安芸高田市(現在)出身の日本画家児玉希望〔明治31(1898)?昭和46(1971)〕は、その画風の多様さなどから一貫性がない、通俗的などと批判されることもあるが、広島の日本画界の礎であり、指導者であっただけでなく、近代日本画壇においても伊東深水らとともにリーダーの一人であったと高く評価されている。永井氏はそうした希望の芸術の解明に取り組み、研究を続けておられるが、本発表では永井氏が調査され、新たに紹介が可能になった、希望の120余冊にのぼるスケッチブックをはじめとする資料の概要と新知見の報告がなされた。
永井氏はまず、希望の画業を戊辰会、希望画塾、日月社など、概ね時代順にたどり、その作風変遷を作品をとおして紹介され、この変遷の内実の解明が希望研究の課題の一つであることを示された。
次に、広島県立美術館における3度の回顧展や泉屋博古館分館(東京)における最新の展覧会などをとおしてなされた希望研究の現状を報告された。それによると日本画、水彩画、油彩画など、変化に富むこの作家に関して、未だ所在不明作品が存在しているような状況ではあるが、初期作品や渡欧時の資料の確認などもなされ、更に資料が見出されつつあるということである。今回紹介されたスケッチブックはそうした中でも、今後の希望研究に大きな進展をもたらす重要なものと位置付けておられる。
そして、2007年2月に5日間にわたって行われた調査の成果の一端が、120冊のスケッチブックの一覧として纏まられ、示された。それを拝見すると、スケッチブックの法量、図の数、希望の書込み等が詳細に記録され、綿密な調査が行われたことが伺える。発表においては、No.18とされたスケッチブックの内容が細かく紹介された。このNo.18は法隆寺における、特に夢殿の救世観音像の写生と、それに基づくと思われる観音像制作の各種構想図からなっている。中には「決定」の書き込みのある図もあり、作品制作におけるモデルの写生、構想、決定という流れを想像することができる内容であった。
この後、永井氏は研究の今後の課題として、さらなる資料の調査、精査、所在不明作品の探索、滞欧時の足跡の解明などが必要なことを指摘された。
今回の発表の中心であった大量のスケッチブックの分析も始まったばかりということであったが、スケッチブックが作家の制作活動の源泉であり、創造の秘密が籠められたものであることは改めて言うまでもなかろう。その分析・研究が着実に進められ、児玉希望の芸術世界がさらに明らかにされることを期待したい。
(報告:広島大学 菅村 亨)
第95号
広島芸術学会会報 第95号
永徳が描いた信長の顔
「伝」も「派」もつかず真筆と定めて、狩野永徳筆の《織田信長像》(絹本着色、大徳寺蔵)がこのたびの初回顧展・京博に出陳されている。いま、その図録掲出の信長の顔を観察している(同じものが永徳特集の「芸術新潮」11月号にも載っている)。叙述してみる。
左4分の3向きの面差し、眼球は黒丸に一重の同心円。上瞼ふちは墨太線。睫毛は留意していない。上瞼部、左右不均等のしわ。特に右瞼は不正常で乱れた印象。眉は単調。鼻は不自然に大きい。暈しがあって立体感の意識がある鼻梁の線は額まで伸び、その両脇に額のたてじわ(都合3本)。頭部は概念的で量感欠如、特に後頭部。髪は少ない。さかやきを剃っているにしても薄毛。耳、ひきつったように不格好。唇、薄く貧弱。特に下唇には卑しい印象。上下唇の境は左右の端で針でも刺さるかのような細い墨線が附されている。あごは小ぶりに突出。あごひげはなく、上下2ヵ所の口ひげ。
僕の初発の感想は作者を画学生に見たてて、「キミねぇ、エカキがこんなヤクザみたいなヤツとつきあいだしたらオワリだよ」という老爺心ながらの仮想の説教。まるで品のない絵だ。《伝源頼朝像》の貴品と比べてみてほしい。品位だけでいうと(注目すべき研究に基づく制作年比較を示すと)1582年6月―83年6月の間に制作されたこの信長は1345年の伝頼朝こと足利直義像に遠く及ばない。 「陰鬱な表情」「不気味で病的」とは永徳《檜図屏風》に対する山本英男氏の創見のある評言だが、《檜》に先立つこの《信長像》に向けられてこそ、その批評の焦点が合致すると思う。
信長は元旦の祝宴で、漆を塗り金箔をかけた敵将の頭骸骨を肴にする人物である。延暦寺・興福寺・高野山弾圧、荒木村重一族、家臣への徹底的残虐をはじめとする、敵・離反者だけでなく、自分の家臣・女房たちへの異常な「成敗」。執拗かつ気まぐれに虐殺をたのしむ残酷ぶり(鈴木良一『織田信長』岩波新書)。
近年紹介されたというこの《信長像》に研究者みな「威圧感」を指摘する(宮島新一『肖像画の視線』吉川弘文館 1996、九州国立博物館「美の国日本」展図録2005)。「どこか近寄りがたい、凄みのある顔立ち」「刃向かう者に対する容赦ない態度と激しい気性」(山本英男、本展図録)。
信長像には本図のほか、(A)宗秀、1583、長興寺、(B)常信、総見寺、(C)不詳、総見院、(D)不詳、大雲院がある。大徳寺にはもう一幅、江戸期の作があるというがそれは別にして、この(A)~(D)いずれも本図が祖型。しかし、「威圧感」は失せ、柔和化していくようす。(A)の作者は永徳の弟。鈴木良一の新書の口絵など、よく使用されてきた。が、村夫子然として毒がない。凡庸な信長像などは見たくもないが、といって本図の如き凶悪の像と一緒の家にはいられない。気の滅入る嫌な絵。
再度慎重に見る。永徳は形をよく観察してはいない。狂ったデッサンというより、デッサンをとること、形態を把握しようとする志向がないのである。永徳真筆を承認しその上で言うが、永徳は対象の人間を前にして描く訓練はしていないのだ。1565年9月の《洛中洛外図》の群小人物たちはあれほど小気味よく、スタスタ歩き、走っているのに。省筆の身体は律動的だが、2500人の登場人物の顔は皆、無表情に近い。大人・子どもの弁別は丈の大小に過ぎない。
《二十四孝図》《仙人高士子図》らの中国人物ら、いずれもぎこちない。普通に目にする人間の表情を彼は生き生きと描けたことがあったか? 格式と体裁ばかりの家門制度のなかの粉本メソッドの英才教育の犠牲としての永徳のマイナス側面。
ひとつの納得はこの信長像、寿像ではなく、遺像(没後の像)であることだ。秀吉発注の信長葬儀用の像とする説に賛成。描くにふさわしい絵師は永徳以外に誰がいるか。信長の発展的継承者秀吉は永徳の新しいパトロンとなるのだ。永徳は肖像画も即成に描く。スピードと、さらに本図には信長という人物への批評がある。誰が病的狂的に残虐な信長に真実の敬愛を捧げていたか。この点、秀吉、永徳はひそかに一致する。恐れと嫌悪。戦戦恐恐と忍従してきた歳月…。永徳の信長像は秀吉への迎合ともなるのだった。批評がおもねりに、あるいはおもねりが批評的表現となる。永徳の御新規の阿諛追従が始まる。
重ねて図を目をこらして見る。信長の左眼の下部に涙が見える。
「永徳、そんな生き方でいいの? キミの表現者たる自立は?」
大井 健地(おおい けんじ・広島市立大学教授)
広島芸術学会第21回大会報告(会報94号に未掲載分)
研究発表②
ラ・トゥール作《聖ヨセフの前に現れたる天使》について
発表:ふくやま美術館 平泉千枝
ふくやま美術館の平泉千枝氏はナント美術館にあるジョルジュ・ド・ラ・トゥールの《聖ヨセフの前に現れたる天使》に関して研究発表を行った。ラ・トゥールは、16世紀末ロレーヌ王国に生まれた画家である。当時、ラ・トゥールの明暗画法(闇の画面)に対する評価は高く、名声を得ていたが、死後200年名声が失われていた。この間に多くの作品が失われ、現在確認できるのは40点ほどである。1915年になり再発見され、ヘルマン・フォスがラ・トゥールの作品4点を確認し、そのうちの一つがこの作品であり、彼によって《聖ヨセフの夢に現れた天使》とされた。しかし、この作品の主題には様々な説があがり、定まっていない。そこで、平泉氏は発表において、主題の問題について検討した。天使の像、聖ヨセフ、ろうそくについて順次取り上げ、それらのことから最終的にこの絵の主題が何であるかを示した。簡単に発表内容をたどる。
まず、主題に関して、この絵はヨセフが眠り込んでいるところへ天使が夢の中でお告げをする場面だとするフォスの説に対し、それに異論を唱えた3つの説を取り上げ、最終的にフォスの意見が有力であることを示した。そして次に、同時代の聖ヨセフに関する絵と比較してもラ・トゥールのものが特異であり、この人物像が聖ヨセフであった場合でも、聖ヨセフの複数ある夢のエピソードの中でもどの夢なのかという問題が残る。このことを考察することで、図像の特異な点を検討することでこの作品にこめられた意味を探った。
まず、一つ目の考察モチーフは天使。この時代に翼なき天使を描くことは異例な選択であるため、ここで翼なき天使が描かれているということは、何らかの特殊な宗教的思想、特定な鑑賞者が想定されていることを指摘した。次の考察モチーフは、聖ヨセフと蝋燭。この二つは14世紀の聖女ヴェルギッタによる『キリストの降誕に関する黙示』という著作でヨセフの蝋燭の光が非常に重要なモチーフとして扱われたことにより、後にこの図像が多く描かれることになったとのことであった。また、蝋燭の火を消す道具が置かれているが、蝋燭の火を消すことが当時宗教的な教訓の中で肯定的に受け止められていたことに留意しなければないとの解釈も示された。
そして最後にこの絵の全体の構図にもどり、天使の右手がヨセフの手にかかるのと同時に、炎を覆い隠してしまっていることにも言及がなされた。この<覆い隠し>の構図はラ・トゥールの作品の特徴である。この<覆い隠し>の構図は当時の神秘主義の思想と重なる部分があるため、神秘思想とラ・トゥールの絵の関係はさらに深く検討されるべきであるということである。
以上のことを考慮して、ヨセフが光を消して暗闇に身をしずめ、神の光を見るために試練に耐えているように見えることから、平泉氏は本作品を、神の光が到来する以前、つまりヨセフの最初の夢であると最終的に結論づけられた。
今回の氏の発表は謎解きのように進行していった。そのため、いつのまにか話に惹きこまれ、自ずと納得していた。今後、神秘思想とラ・トゥールの絵画の関係の謎が解けていくことで、このストーリーの続編を期待できるであろう。とてもスリリングで、すとんと腑に落ちる発表であった。美術史の面白さが存分に味わえた。
(報告:広島大学総合科学研究科 博士課程前期 船本菜穂子)
研究発表③
1930年代半ばのハイッデガーにおけるasthetisch概念のもつ意味
発表:同志社大学大学院 近岡資明
asthetischという語は美学(Asthetik)を扱う上で外せない語彙であるが、これまで「美的な」、「感性的な」など多岐に渡る解釈がなされている。本発表では、特にマルティン・ハイッデガーのasthetisch(Martin Heidegger,1889‐1976)の解釈に着目し、彼の美学に対する態度を明らかにした。ハイッデガーにおいては、このasthetischという語は自身の美学思想を展開する上で重要な鍵となる。というのも、ハイデッガーは、1936-37年に行ったニーチェ講義を通して、ニーチェの積極的解釈を試みると同時に、asthetischという語を「考察様式と研究方法」を指す語として捉えた上で、自身の美学思想を展開しようとしているからだ。具体的に、ハイッデガーは、美によって、触発された感情状態をニーチェの言う陶酔(Rausch)であると述べ、この感情状態こそが、美的根本状態であると述べる。そして、この陶酔状態は身体を介した現存在が、主観-客観という枠組みを越えて、存在するもの全体(「自然」)へと広がりをもつとする。
さらに、このハイッデガーの言う存在論は真理の問題とも関わってくる。というのも、ハイッデガーの唱える芸術論においては、存在のあらわれとしての真理が、存在するもの全体へと問いを向けることにつながるからだ。それゆえ、彼はそれまでの美学に見られるように、芸術をもっぱら美に関係づけるのではなく、真理との関係において捉えようとしている。このことは、それまでの美学における性格、つまり、感性に限定された体験としての芸術省察というプラトニズムに傾倒したありように異を唱えることを意味する。つまり、存在論的真理にまで深化させて美を捉えようとしたハイッデガーにとって、このような美学のありようは批判すべき対象であると同時に、克服すべき問題だったと考えられる。
以上のことから、ハイッデガーにとって、asthetischという語は何より、それまでの美学におけるasthetischという語の適用範囲に、新たに存在論的な問いを立てる方法論を表す鍵概念としてあったであろうと推察される。
このように、ハイッデガーは、ニーチェの思想に最大限の評価を与え、自身もニーチェに傾倒しつつ、自身の芸術論を展開させようとした。しかし、実のところ、ニーチェの思想は、ニーチェ自身、反プラトニズム的立場をとりながらも、プラトニズムの枠組みに囚われていた。ゆえに、ハイッデガーにとって、それまでの美学同様、ニーチェの立場をも克服すべき対象にせざるを得ないという矛盾した立場に追い込まれる。1930年代半ばのハイッデガーは、asthetischな考察様式の点では美学に身を置きつつも、根本において反プラトニズムの立場に立つがゆえ、結果的に美学から身を引かざるをえなくなる。以上のように、1930年代におけるハイッデガーの美学に対する態度は理解されるであろう。
今後の課題として、発表者は、30年代において提唱されたasthetischな方法論がそれ以降の彼の思想にどのように影響を与えているのかを考察、検討することを挙げている。
(報告:広島大学大学院 総合科学研究科 博士課程前期 片山理美)
シンポジウム
テーマ:美術作品と場所
-作品の誕生とその存在に広島はどのように関わってきたか-
パネリスト:竹澤雄三(前広島市現代美術館副館長)
木村成代(ギャラリスト)
前川義春(広島市立大学教授)
松岡 剛(広島市現代美術館学芸員)
石丸勝三(石の彫刻家)
司 会:松田 弘(広島県立美術館総括学芸員)
本シンポジウムでは、広島県内にて芸術作品の制作活動に関わっている5名のパネリストからの事例報告をもとに、「芸術作品」と「場所(広島)」の関係性についての検討がなされた。「美術作品と場所」という一見広範とも思われるこの議題は、本シンポジウムにおいては主に以下2点の場合に限定して語られたと言えるだろう。まず一つは、広島という場所が作品制作の契機になり得るという場合での両者の関係性であり、もう一つは、制作を終えて制作者の手を離れた作品と、その後にそれが設置された場所とを考える場合での両者の関係性である。
司会の松田弘氏による議題説明は以下の通りである。芸術作品が或る権力者からの委嘱によって制作されることが無くなり、市民層による絵画市場が成立して以来、創作活動とは、芸術家たちの自由な発想によってなされるものとなった。今日に至ってもそれは変わらない。しかし、全ての芸術家たちの手に全くの自由が与えられているというわけではない。松田氏は、その大きな要素の一つとして「美術作品と場所」という問題がある、と提言する。例えば絵で言うと、制作者たちは、描く題材或いはモチーフとして特定の「場所」を扱い、そして描こうとするとき、その「場所」のもつ歴史的な背景などからある程度の制約を受ける。しかし創作過程においては、「場所」のもつ制約をネガティブな意味で捉えるのではなく、むしろ積極的に捉えることでインスピレーションを得ることが大いにあるのだ、というのが氏の主張である。
上記のような司会の松田氏の導入の言を受け、5名のパネリストからの事例発表が行われた。まずは竹澤雄三氏(前広島市現代美術館副館長)が「岡本太郎《明日の神話》」について報告を行った。2003年にメキシコ・シティー郊外で見つかった岡本太郎作の巨大壁画「明日の神話」(縦5.5m、横30m)とは、メキシコ人の実業家からの依頼を受けた岡本太郎が、1968年~69年にかけて何度も現地に足を運んで完成させた作品である。原爆の炸裂する瞬間をモチーフとしたこの作品「明日の神話」からは、原爆を受けた広島という場所が絶望の瞬間を迎えはしたが、残された人々は明日への希望を信じ続けて生命を紡いでいくのだという岡本太郎自身の原爆と被爆者(地)に対する真に迫った想いが窺える。竹澤氏は最後に広島という場所と芸術について、被爆六十周年に現代美術館で展覧会を開催したときに寄せられた三宅一生の言を借りて、以下のように括った。「悲劇の上に悲劇を重ねても悲劇の街が強調されるだけ」であり、「広島に必要なのは光を見つけること」「広島は平和のメッセージを伝える発光体のような存在であってほしい」と。岡本太郎と直接の交流が深かった竹澤氏ならではの貴重な報告であった。
竹澤氏に続いて木村成代氏からは、昨年12月に設立された岡本太郎「明日の神話」広島誘致会(TARO’s Port Hiroshima)の活動報告がなされた。本学会の会報90号、出原均氏のイベントリポートに触れられていた「明日の神話」誘致会は、木村氏によれば、昨年12月に誘致会に昇格し、今年4月から積極的に活動をはじめたとのことである。報告は、作品「明日の神話」を広島(という港)へ迎え入れるために署名活動ほか様々なイベントを開催しているという内容のものであった。
次に、広島市立大学の前川義春氏より、広島市立大学芸術部による一連の展示活動の写真がスライドによって紹介された。ここでは、広島県内外での広島市立大学芸術部の制作活動の様子について、制作者の現場での言葉を交えながら報告がなされたので、非常に興味深く拝聴することができた。
第三に、松岡剛氏(広島市現代美術館学芸員)の報告、「広島平和記念公園とその周辺の作品」が行われた。本報告で松岡氏は、広島平和記念公園や平和大通り周辺に置かれた芸術作品を時代順に紹介しながら、慰霊碑や噴水、花壇、時計などの記念碑と芸術作品(例えば或る彫刻家の作品など)が物理的、機能的にも隣接して存在するという場合を特に取り上げられた。はじめに作られていた慰霊碑や記念碑などの周辺に、例えば彫刻家が作った彫刻作品を設置者が置く。すると、作者や設置者の意図の有無とは無関係に、その両者の境目が曖昧になっていくのである。そうした両者の絶妙な「共存」に焦点を絞った松岡氏の報告は、広島という土地が背負う重い歴史と、それをモチーフにした芸術作品が極めて自然に共存し得ることに改めて気づかされるものであった。
最後に石丸勝三氏は岡部昌生の手掛けた第52回ヴェネチア・ビエンナーレ日本館の展示について報告された。本報告において紹介された岡部氏の作品は、広島港にある旧国鉄宇品駅のプラットホームを擦り取った1,400点ものフロッタージュ、そのネガフィルムを挟み込んだライトボックス、植物標本が埋め込まれた鉄製のグリッド、これら全てを会場の壁面に取り付け、中心に、広島倉橋島産の被爆石を直線的に配したというものであった。
以上の4件の事例発表は、どれも広島に関連する具体的芸術作品に即する形でなされたこともあり、広島という場所のもつ可能性を深く考えさせてくれる貴重な契機となった。広島という場所は、私たち住人が日常生活をただ繰り返すことだけで日々変容していくが、芸術作品もしかり、制作者の手を離れて広島に設置された作品は、この土地で生活する人間と共に変化していくのだろう。それがまた新たな広島の歴史や文化を育み、風土となっていくのではないかと感じられた報告であった。
(報告:広島大学大学院・福光由布)
第80回例会報告
第80回例会広島芸術学会例会は大衆演劇観劇だった。広島芸術学会初の試みだ。場所は大衆演劇専用劇場の清水劇場。参加者は16名。9月22日11時40分に集合し、エレベーターで3階の劇場へ。大衆演劇は初めての会員が多い。月代わりで一座が代わる。今月は劇団花吹雪。私たちの予想に反し、198席の椅子も大入り満員のため補助席が用意された。事務局長が10席予約していたのだが当日参加の会員もおられ、席がたりず補助席で観劇する会員も。見回すと年配の方が多い。劇場の内側に「女形大会」「ニューハーフショー」などの垂れ幕がある。うーん、いい味だ。
12時開演。まずは、演劇。演目は「男の花道」。ヤクザの兄弟分3人のうちの1人が二代目親分に襲名するのだが、そのうちの1人が嫉妬で任侠道一筋の桜春之丞演じる主人公を罠にかけ、妻を殺させ、それに気づいた主人公が最後は敵討ちに成功するのだが、同時に自らも殺されるという悲劇であった。
このように書いてしまうと身もふたもないのだが、主人公を演じる桜春之丞がいい。飛び切りの美男子で、何より華がある。侠(おとこ)道まっすぐな役にぴったりだ。これから舞台に立つたびにますます磨かれるのだろう。悪役の2人もいい。役とはいえ、憎たらしい限りである。また、劇の途中でアドリブが飛び出す。余裕である。近代演劇を見慣れた会員にとっては、軽妙に観衆との心理的距離を縮めるこのアドリブという制度の意味が不明だったようである。このとき、私が声をかけようかと思ったが、お花の用意をしていなかったので遠慮しておいた。このサービス精神が大衆演劇の魅力の一つである。主人公が目隠しをされ、献身的な自分の妻とも知らず突き刺すシーンでは後ろの席からすすり泣きが聞こえる。大衆演劇ファンは泣き所を知っているのだ。それから、この劇団の特徴でもあるのだろう、切った切られたでは真っ白な着物に赤い血のりがべっとり。リアリズムである。大衆演劇では初めて観た。時々、観客席にスポットが当たり、そこに俳優がいることもしばしば。身近に来られると、そのオーラに圧倒される。さすがプロだ。
主人公が敵討ちを果たして最後に舞台中央奥で腰から徐々に落ちていき、白い着流しに血まみれで死にいく様は今でも強烈に印象に残っている。
ここで幕。ホッと一息。こんなにシリアルでリアルな大衆演劇は初めてだ。
座長挨拶。しばらく舞踊ショーまで時間をいただきたいとのこと。その間に、前売り券を先ほどまで舞台に立っていた俳優さんが売り始める。前売り券は飛ぶように売れていた。実はこれも大衆演劇の魅力なのだが、初めての会員には新鮮な驚きだったようである。
15分の休憩後、今度は舞踊ショー。いなせで力強い男踊り、女性以上に色気のある女形の妖艶さ、一瞬たりとも止まらず、流れ続ける身体のしなやかで艶やかな踊り。この媚態に満ちた踊りに観客は魅了されるのだ。特に女形。首が少しずつ左を向き、そのまま目が徐々に左に。まさに流し目。これには参った。魂が身体から離脱するかと思った。たぶん、3秒見つめられると私の魂は帰り場所を失っただろう。それくらい凄い。するとおもむろに観客の1人が扇形に開かれた1万円札を9枚もって、この俳優のもとへつかつかと近づく。そして、左胸に。「おー、お花だ。」と思うとすぐに同じく9枚扇形の1万円札を右の胸元へ。計18万円のお札が円を描くように胸に輝き、なおも踊りが続く。会場は拍手の渦。現場で観ると何ともいえぬ高揚感に包まれる。こうした光景がしばしば。1500円の入場料の100倍はかかっている。うーん、やはり、大衆演劇には近代演劇には見られぬ魂を離脱させる神がかり的な力が宿っているのだと思う。恐るべし大衆演劇。
今回、特別に宝塚ショーというのがあった。妖艶な美男子たちが宝塚ショーを演じる。先ほどまでヤクザものをやっていたのに今度は洗練された宝塚ショーを演じている。動きがまるで違うのだ。プロって凄い。するとちょうど私の横の通路にスポットが当たる。元星組未央一さんの歌。歌の次元が違う。本物の宝塚の歌だ。そして、スタイル抜群、目はパッチリ、姿勢もしぐさも決まっている。さすが元宝ジェンヌ。なるほど、これが宝塚の魅力か。
こうして、約3時間半の講演は終了。
会場の出口には俳優さんたちがお見送り。気安く握手もしてくれる。こんなところにも気配りが感じられる。
会員は一様に感激。みんなが口々に感激の様を何度も語る。このまま黙って帰るわけにはいかないと残った7人で近くの居酒屋へ。歩きながらサービス精神に感激したとか、衣裳が凄かったなど、感激をそのまま口にする。居酒屋で一杯飲み、二杯飲むにつれ、演劇の脚本に話題が行く。なぜ、あの賢老人である叔父貴は最初だけ登場したの? なぜ主人公は二度も裏切られたの? ちょっと脚本にアドバイスをしたら等々。突然、シューベルトを十八番にしていた宮廷歌手Gerharut Huschが数十年前に勇壮でいなせな夏祭りを見て言った言葉「着流しは高からず低からずへこ帯を結ぶ」を思い出された会員もおられた。近代演劇を見慣れた目には大衆演劇を論理的に眺めるという制度に縛られているようだ。そんなことは小さなこと。少々の論理矛盾やギリシア的知性を期待してはいけない。大衆演劇は義理人情が主題だ。それさえ伝わればそれでいいのだ。大衆演劇はギリシア的演劇とは違った系譜の演劇なのだ。
大衆演劇はそれを観る観客とともに内容も変わる。今回の劇団花吹雪の俳優さんはみんな若い。新しい時代のニーズに応じて大衆演劇も変化していくのだろう。ずっと残っていて欲しい部分、大衆とともに歩んでいただきたい部分、それぞれあるが会員の皆さんもたまには大衆演劇に接していただきたいと思う。案外、近代演劇の相対化を図ることができるかもしれない。
それにしても女形の流し目になんと色気のあったことよ・・・。
(報告:郵便事業株式会社 大山智徳)
インフォメーション
広島芸術学会作家会員お二人の個展です。
■村中保彦 金工展
日 時:11月22日(木)~28日(水) 最終日は17時閉場
会 場:福屋八丁堀本店7階美術画廊
(広島市中区胡町6-26 TEL82-246-6111)
「金属を素材にして動物や雲をモチーフに、生活の中で安らぎが感じられる物づくりを心がけています。オブジェから生活の中で使える小品まで制作しました」
(村中保彦 金工展DMより)
■REALITY OF LIFE AND DEATH
《ヒロシマのピエタ》一鍬田 徹彫刻展
日 時:<展覧会>11月23日(祝・金)~12月16日(日) 会期中無休
【月~金】9時~17時、【土・日・祝】11時~17時
<コンサート>①11月25日(日) ②12月9日(日)の 14時~14時30分
テーマ:「ピエタ(哀悼・慈悲)」
演 奏:大下詩央(ヴァイオリン)、須藤千晶(ピアノ)
会 場:広島市立本川小学校 平和資料館(被爆建物)地下室
(広島市中区本川町1-5-39)
入場料:無料
「本展はREALITY OF LIFE AND DEATH《ヒロシマのピエタ》と題された彫刻の展覧会です。なぜ生きるのか、どう生きるのかといった哲学的な問題は、(意識しているかどうかは別として)常に私たちのすぐそばにあります。しかし昨今の痛ましい事件は、命の重みとはまるで逆のベクトルで頻繁に起こっています。現代ほど、この当たり前の問いがゆらいでいる時代もないのではないでしょうか」(リーフレットから抜粋)
第94号
広島芸術学会会報 第94号
展示の空間
展示される空間も美術作品の一部だ、という考え方がある。事実、作品がどのような環境に置かれるかによって、その印象は大きく変わってしまう。そのため、展示空間とは作家とその他の展示に携わる者にとって、大きな関心事なのである。
たとえば現代美術におけるひとつのジャンルであるインスタレーションとは、空間における配置のされ方自体を重要な要素とする表現であり、非常にポピュラーな表現方法のひとつとなっている。また、絵画をはじめとする平面作品であれば、その作品の何倍もの面積の壁面に1点だけ展示されていることも少なくない。贅沢な空間の使い方だが、これが適切な展示方法とされることもある。つまり、作品以外の要素が鑑賞に影響しないことが求められている。あるいは逆に、ひとつの作品がいかに大きな空間に緊張感を与えられるか、という点を表現の強度と捉える見方も可能だろう。より多くの作品を見せることよりも、それぞれの作品をよりよく見せたい。そんな理由によって、ゆったりとした展示が行われることも多い。
ただし、それが唯一の方法ではない。たとえば大竹伸朗という作家。絵画作品のみならず、写真や廃材、印刷物などを素材としたコラージュや立体作品、そして絵本制作、音楽活動まで、さまざまな領域で、さまざまな手法を駆使し、膨大な作品を生み出し続けているアーティストである。このたび、広島市現代美術館では9月15日から11月25日にかけて、「大竹伸朗展 路上のニュー宇宙」と題した展覧会を開催する。本展で紹介するのは未発表作160点あまりを含む約630点の絵画、水彩、素描、彫刻などである。3万点を上回るともいわれる大竹伸朗の創作のスケールと比べると、この作品数はほんの一端を垣間見せるにすぎないものだが、私たちの美術館としては異例の点数である。
しかし、それ以上に強調したいのは、その密度だ。展示室は作品で埋め尽くされ、ゆったりと余白を持たせた展覧会とは全く異なる体験をもたらすことになるだろう。コーナーによっては、個々の作品の独立性が失われ、まるでひとつのコラージュのように作品が影響しあうかもしれない。そのような空間は通常我々が演出するものとは全く異なる意味を持っている。このエッセイを書いている時点では、その展示空間がどのようなものとして成立し、機能するのか明らになっていないが、より多くの人々に衝撃をもって受けとめられることを期待している。
松岡 剛(まつおか たけし 広島市現代美術館学芸員)
広島芸術学会第21回大会報告
★研究発表① 日本近世における「養生」思想について
―貝原益軒『養生訓』を中心に―
発表:広島大学大学院 福光 由布
本発表は、江戸前期の儒家貝原益軒の『養生訓』に焦点を当て、まず「養生」という概念が中国から日本へ輸入された経緯とその受容を明らかにし、さらに『養生訓』における「楽」「私慾」「富貴」の解明を通して、貝原益軒養生論の意義を改めて論ずるものである。
氏は、まず中国における養生という概念の発展を医術・養生術・五行・?緯などの方術を伝統的に継承している道家的養生と、理気二元論を包摂することで諸器官連鎖論と精神主義養生論を支えた儒家的養生によって、把握する。道家的養生は、生命の永続と賦活を目的とし、身体・精神両面の健康を保持・増進しようとするものであり、儒家的養生は、「礼」の実践による「修心」の結果(「仁」)として長生がもたらされ、人間の天与の本性を涵養するものであり、道家的養生と儒家的養生が中国においてそれぞれの仕方で展開されたと指摘した。
こうした中国の養生論の日本における受容について、氏は次のようにまとめた。まず、中国の養生論、特に道家的養生論は、古代期の日本の養生論の基調となった。そして、十七世紀末から十九世紀中頃まで、古代期に受容された道家的神仙医学に対する儒医学の立場からの批判が現れ、また、織豊時代に朱熹の性理説に基づいて形成された「李朱医学」の輸入によって、中国の養生書を祖述したものである田代三喜、曲直瀬道三らの『摂養要訣』『延壽撮要』の養生書が書かれた。後に、曲直瀬一門による説が観念的認識にすぎないと批判され、より経験的、実証的な診断、治療を標榜する「古医方」学派が形成された。益軒の『養生訓』は、このような背景のなかで著された。
益軒の『養生訓』について、氏がまず指摘したのは、益軒の養生論は、伝統的儒家の養生説の範囲を越え出ではいないが、その一方、積極的に道家の養生術を取り入れた。さらに、氏は、益軒の「養生の要訣」としての十二個の「少」は、孫思?の「十二少」を継承しながら、「笑」「楽」「喜」の諸項目が削除されたことに注目した。そこで、氏は、この三つの項目が削除された理由を掘り出すことによって、「楽」を用いて養生を説いた益軒の養生論の独自性を見出そうとした。
益軒において、本来自身に備わった「内の楽」の発揚が、耳目を満足させ、情操を豊かにする「外の楽」の助けをもらった際、自身の元気を保持することができる、というような養生における楽の働きが構想される。一方、「外の楽」にも人間に苦しみや不利益を与え、「私慾」へと駆り立てその身を損わせる「世俗の楽」が含まれる。こうした人を苦しめる「楽」がさらに「富貴」と結ばれて「富貴」を求めすぎることが先天的に存する「内の楽」までをも失わせてしまうと説かれる。こうした人を苦しめる「楽」の存在に対して、益軒は「きはまりなき楽」を天地自然のうちに自身が見出せる「楽」と見なし、「身に道を行ひ、ひが事なくして善を楽し」み、「身に病なくして、快く楽」み、「命ながくして、久しくたのしむ」ような人身の健康保持にきわめて有効的な「三楽」を唱え、「三楽」と養生との関係を明示した。ここで、益軒の目指した養生とは身心両面の相関を想定し、「心」が「和楽」であるという精神的保養と血気をめぐらすために「身」を動かすという肉体的摂生との調和によるものである。こうした心身の一元的「楽」を提唱した益軒が賞賛するのは、音楽、詠歌、舞踏であった。音楽、詠歌、舞踏などによる精神的、肉体的「楽」が「人のむまれ付きたる天地の生理」であり、これを積極的に楽しむことが「天地の道理」と主張されたのである。
氏は、以上のような益軒の養生論の最たる特徴は、この「楽」を古楽や舞に適応し、心身両面の「楽」が養生の道へ繋がると強調したところにあると結論付け、西欧医学体系が導入された今日における益軒の養生論の意味を提起した。中国と日本における養生の発展を辿りつつ、益軒の養生論の意味を論じた今回の発表は、非常に興味深いものであり、様々な面において考えさせられた。
(報告:広島大学大学院 陳 貞竹)
★研究発表④ アレクサンドル・チェレプニンについての研究
―中国と日本における活動を中心として―
発表:エリザベト音楽大学大学院 王 文
アメリカ国籍を持つロシア人の作曲家・ピアニストであるチェレプニン(1899-1977)は、1934年に演奏旅行として極東を訪れた。その際、中国や日本の音楽状況および伝統音楽に興味を持ち、数週間の滞在予定を3年間へと大幅に延長した。彼はその間両国の音楽について研究し、結果若い作曲家たちに多大な影響を及ぼした。今回の王氏の発表は、「作曲家」あるいは「ピアニスト」としてではなく、「教育者」としてのチェレプニンの側面に注目し、彼の両国での具体的な活動に関する詳細な調査報告であった。以下、その内容について簡単に紹介しよう。
①演奏活動:中国における二つの演奏会「歓送斉爾品(チェレプニン)先生音楽演奏大会」(1935/1/19)「歓迎斉爾品先生演奏会」(1936/6/26)、および日本での「近代音楽祭」(1936/10/5~10)にて、自身あるいはロシア人の作曲家のみならず、両国の作曲家の作品を初めて演奏プログラムに用いた。
②教授・交流活動:中国では国立音楽専科学校の名誉教授として教鞭をとり、それ以外に個人レッスンも実施した。また日本では個人レッスンのみならず、「新興作曲家連盟」に属する音楽家たちと交流を持ち、影響を与えた。
③コンクール:両国での滞在中に自費で作曲コンクールを開催した。中国の「徴求有中國風味之鋼琴曲(中国的ピアノ作品募集)」と日本の「チェレプニン賞」(伊福部昭の《日本狂詩曲》が有名)である。その目的は、両国の「国民的音楽創作」の奨励にあった。
④出版活動:チェレプニンは、日本および中国の若い作曲家の作品の出版を依頼したが、興味が無い、難しいとの理由で出版社に断られた。そこでチェレプニン自らが機関を設立し、全39巻からなる「チェレプニン・コレクション」として出版した。この出版事業は、経費や売り上げから考えて決して「ビジネス」ではなく、純然たる慈善・教育的活動であった。
⑤創作・執筆活動:チェレプニンは、中国・日本において「自国の」民族音階に基づいたピアノ教則本が無いことを憂い、すぐさま研究し創作した(日本では未完だったようである)。また、両国の音楽・音楽家に関し、欧米の新聞・雑誌に紹介の意味で記事を寄せた。
以上から窺えるように、チェレプニンは多岐にわたって両国の音楽教育活動に精力的であったようだ。今回の王氏の発表は、あまり知られていない「教育者」としてのチェレプニンに関する、氏の丹念な調査に裏づけされた極めて具体的且つ詳細な報告であったが、当然そこからは、両国の西洋音楽教育の黎明期における、史的視座からのチェレプニンの意義・役割が問われよう。もっともそれは氏自身も次の課題として自覚しており、研究の本来の目的はむしろそこにあるとのこと。チェレプニンという個人の問題を史的枠組みから捉え直すことで、より広がりを持った研究となることが期待されよう。先行研究もまだなされていないようなので、今後の成果を待ちたい。
(報告:広島大学大学院 上野 仁)
★エンターテインメント
木原朋子さんの箏演奏と現代箏曲についての覚書
井野口 慧子
広島芸術学会の発表の中で、楽しみなのが音楽家によるミニコンサートだ。このたびも緊張した研究発表による言葉たちの森の中を、涼やかな風が吹き抜けた。奏者は箏の木原朋子さん。会員の画家、木原和敏さんのお嬢さんである。エリザベト音楽大学4年生。現在ただ一人、箏を学んでいる。14歳から箏、高校から地唄三味線を始めた(実は私も過去20年余り、地唄三味線の稽古に通うだけは通ったのだが、あまりに上達しないので、先生がお気の毒で、ついに昨年見切りをつけた)。
木原さんは2004年、NHK邦楽オーディションに合格、05年沢井箏曲院教師資格試験を首席で合格。現在、沢井箏曲院教師、若岡史子主宰“ことのは会”「ことのは合奏団」所属。
彼女の演奏を5月30日(水)、アステールプラザで(伴谷晃二先生作曲)聴かせていただき、ソロ演奏を聴いてみたいと思っていた矢先だった。
曲目は10年前に他界された現代箏曲で知られる沢井忠夫の「讃歌」。留め袖の着物地を洋服に仕立てた衣裳で現れて、たちまち沢井の世界へ私たちを引き込んでいった。
20年前、かつて生田流のお姫様といわれた野坂恵子さんが、伝統的な箏の世界を飛び出して、アメリカでの模索時代の後、日本の各地で小さなコンサートツアーをされた。当時、白いシャツ、黒のパンツルックで立ったまま二十弦の箏を叩いたり、はじいたり、谷川俊太郎の詩を朗読しながらの演奏や、キース・ジャレットのケルンコンサートの曲を再現させたり・・・目の醒めるような現代箏曲との出合いだった。(連れて行った当時4、5歳だった次男が帰るなりピアノを体ごと叩いたり、ぶつかるように音を出したり、かなりの影響力だった)。
沢井忠夫夫人の沢井一恵さんの演奏は、5、6年前、住職で画家でもある碓井真行さんの光明寺(広島市東区牛田)で大鼓方の大倉正之助さんとのコラボレージョンを、真ん前で聴いて圧倒された。まるで何かに憑依されたような激しさで、渾身の力を込め、身をよじりながら、あちらの霊を呼び出すような・・・そんな演奏だった。
広島芸術学会で一度演奏していただいたこともある榊 記彌栄さんも、その時お会いしたが、昨年、広島三次会での演奏を久しぶりに聴き、一恵さんの流れを継ぐ、女の悲しみ、喜び、情念といった言葉を超える円熟した自然との一体感のある表現に感動した。
また三次出身の元広島テレビ取締役、エッセイストで活躍中の吉村淳さんの姪の吉村七重さんの二十弦箏は、海外でも高い評価を得てきた。つやのある凜とした鍛え抜いた確かな技法で魅了する。
さて、そうした現代箏曲の流れにあるまだ若い、これからの木原朋子さん。その演奏が始まるとたちまち風のそよぎ、木の葉のゆらめき、光の舞いなど・・・心身が浄化されていくようなイメージが湧いた。透明な音色とやさしい響きに、彼女の持つ独特の資質、天性といったものが、垣間見えてきた。演奏後の曲の内容について“自然讃歌”との説明に思わず頷く。もっと聴きたいような余韻を残しつつ終了。
学会後の打ち上げの時、“沢井忠夫は青、一恵は赤と言われる”と木原さんから聞いて納得した。青の流れの今回の音色から、まだ若い彼女の色はどのように変化していくのだろう。楽しみである。ご活躍を心から祈っている。(2007年8月)
*研究発表②と③およびシンポジウムの報告につきましては、都合により次号に掲載。
インフォメーション
■林 晶彦 平和を求める祈りコンサート2007
日時:9月17日(月・祝) 17時開演(16時30分開場)
会場:ウエストプラザ5階サロン
(紙屋町交差点みずほ銀行南側・広電紙屋町駅徒歩1分)
料金:3500円(前売り3000円)
内容:宮沢賢治の舞台音楽や「エヴァンゲリオン」のピアノソロを手掛けたことで知られる林 晶彦さんのピアノ演奏会。「心にしみわたる」という表現がぴったりの澄んだ音色をお楽しみください。
申し込み・問い合わせ:グリンSHATSU(常田裕生)
TEL:082-262-2152(10時~19時)
E-mail:htnejhdj@yahoo.co.jp
■川崎理恵 心の部屋
日時:9月19日(水)~25日(火)10時~18時30分
(初日は正午~、最終日は16時まで)
会場:ギャラリーブラック(広島市中区鉄砲町4-5)TEL082-224-4569
■西条・酒まつり 左手のピアニスト・智内威雄の「蔵シックコンサート」
日時:10月13日(土)14時~、10月14日(日)11時~、14時 合計3回公演
会場:賀茂泉酒造(東広島市西条上市町2-4)
入場料:2000円(全席自由席)
問い合わせ:賀茂泉酒造 TEL082-423-2118
■事務局から
年会費の振込用紙は次の会報送付時に同封いたします。
第93号
広島芸術学会会報 第93号
<広島芸術学会第21回大会資料>
●シンポジウム「美術作品と場所」の趣旨説明
広島県立美術館 松田 弘
美術作品が誕生する契機はさまざまである。古代ギリシアにおいては神殿に奉納されるために制作された。神に捧げるために創られたのである。中世ヨーロッパにおいてもやはり神の威光を称えるために大聖堂や無数の教会堂を飾ることとなった。ルネサンス以降も、キリスト教会からの制作委託により美術品が創られ、同時に時の政治権力を握った王侯貴族たちの注文にも応じて制作されていった。
それが、17世紀に入ると、特に富裕な市民層が出現したオランダにおいて、市民たちがあらかじめ制作された作品を、画廊を通じて購入するという事態が生じた。いわゆる絵画市場と画廊の成立である。これにより作品の制作の契機が宗教的、政治的な権力からの注文だけでなく、画家自身の意思に内在するようになったのである。以降、近代から現代に至るまで、画家の自発的な制作衝動が創作上の大きな契機となっている。
そしてこのような作家の自由な制作の契機の中に実は「場所」というファクターがあることを見逃してはならない。この「場所」という要素は、作者たちに完全なフリーハンドを与えることを拒むと同時に、作者自らがこの「場所」の持つテーマ性に大いに感化され、霊感を与えられ、制作上の重要な契機となることがあるのである。
今回のシンポジウムはこのことに焦点を当て、特に「広島」という「場所」性が作品の誕生にどのような影響を与え、かつその誕生以降もどのような関係性を持つに至ったかを、具体的な事例をとおして提示してみたい。そのことによって、「広島」が持つさまざまな意味と局面、つまり時間、空間、都市、政治、人道などが、美術作品とどのように関わってきているのかを知ることになるだろう。それは広島に住む我々にとって、好むと好まざるとに関わらず永遠の課題であり、これからも我々が「広島」という場所を考える時の契機ともなるはずだ。
最後に、今回のシンポジウムによって、芸術と人間と場所の本質的な関係性に少しでも触れることができれば望外の幸いである。
●箏奏者・木原朋子氏のプロフィル
14歳より箏を始める。若岡史子氏に師事。2000年くすのき文芸の里箏曲コンクールにて優秀賞受賞。高校より地唄三味線を始める。04年エリザベト音楽大学演奏学科箏専攻で入学。大学にて脇節子氏に師事。同年NHK邦楽オーディション合格。05年沢井箏曲院教師資格試験首席で合格。現在エリザベト音楽大学4年に在学中。沢井箏曲院教師。若岡史子主催ことのは会、ことのは合奏団所属。
●研究発表レジュメ
①日本近世における「養生」思想について
― 貝原益軒『養生訓』を中心に ―
広島大学大学院総合科学研究科博士課程後期2年 福光由布
今日まで「養生(ようじょう、ようせい)」という語は、東洋においてきわめて広義的に用いられてきた。
例えば中国において「養生」とは、肉体延命をのぞむような神仙医学、つまり道家的立場では、個の人間の「生」を充実させていく理念、ひいては永寿や不老不死などという人類の永遠の理想を語る語として用いられる。一方で、『孟子』に「養其性、所以事天也(『孟子』「巻第十三 盡心章句上」)」とあるように、儒家の立場では、精神的側面における自然的な本性を養う語、つまりは「養性」「修身」の語として用いられている。
近世の日本では、こうした中国における道家的神仙医学の「養生」論を一部受容しながらも、それを〈精神-肉体〉〈欲望-倫理〉の相関に深く配慮していないものであるとして批判した儒(医)学の立場が出現する。儒学者達は、非医療人である俗人を対象に〈医学的啓蒙〉として「養生」論を展開し、それは出版文化の盛行や俗人の生活様式の変化にあずかりながら十七世紀末から十九世紀中頃まで、長く支持された。しかし、この「養生」思想は、近世末期、西欧医学体系が導入されるにつれて次第に終息することになる。
以上のような「養生」論の経緯を鑑みて、今回発表者は、道家的、儒家的、或は日常生活の医学的啓蒙、この三項を明確に区分して「養生」を語らなかった儒学者、貝原益軒(1630-1714)の「養生」論に着目する。古楽を愛好したという彼の考える「養生」とは「楽を失なはざる」ことであり、「詠歌・舞踏」などをして「心を楽しましめ」る術であった。つまり、益軒の思い描く「養生」とは、肉体と精神それぞれに対応するものではなく、身心両面の相関を想定したものだったのである。本発表では、益軒が晩年に著した『養生訓』を主に取り上げ、彼の目指した「養生」観について詳しく検討したい。
②ジョルジュ・ド・ラ・トゥール作
《聖ヨセフの前に現れたる天使》について
ふくやま美術館 平泉千枝
フランスの17世紀の画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥール作の《聖ヨセフの前に現れたる天使》(ナント市美術館)は、画家の最も完成度が高い作品であると同時に、謎を秘めた作品ともいえる。じつは本作については、その主題の解釈すら完全に定まっているとはいえず、今まで「聖マタイと天使」や「聖ペテロと天使」、または「祭司エリとサムエル」といった様々な主題の候補が挙げられてきた。現在は、「聖ヨセフの夢」、つまりイエス・キリストの養父ヨセフと、その夢枕にお告げに立った天使の姿を表わしたものとする説が最も有力である。ラ・トゥールはこれ以外も聖ヨセフを主題とした《大工の聖ヨセフ》(ルーヴル美術館)を描いており、また「聖ヨセフの夢」という主題も、聖ヨセフ崇敬が盛んであった当時は度々描かれた主題である。しかし本作における問題点は、天使とされた画中左の人物の姿である。美しい少年または少女のような姿で描かれた画中の人物には、ニンブス(光輪)や翼といった、通常天使のそなえる表徴が何一つ見あたらない。これは同時代の天使像と比べても、極めて異例な姿であるといえる。発表では、伝統的な天使の図像や、同主題の図像との比較を通して、ラ・トゥールの作品の特異性を明らかにするとともに、その意味について考察してみたい。
③1930年代中盤のハイデッガーにおけるasthetischの問題
― 感性の在処と美への問い ―
同志社大学大学院博士後期課程 近岡資明
美学Asthetikという学問領域において、その扱う対象を表すasthetischという語には曖昧な規定が与えられてきた。この語は近代美学の確立者であるカントの用法に照らしてみても、「感性的」「美的」といった二つの意味で用いられている。カント以降の美学においては、もっぱらこの二つの意味のどちらかに意味が限定され議論が展開されてきた。
本発表は、1930年代中盤のハイデッガーの思想を通して、asthetischへの考察を試みる。これまでは彼の芸術論である「芸術作品の根源」(1935-36)の後記で表明されたアイステーシス批判、つまり感性的な受容に対する批判がよく知られており、ハイデッガーにおいてasthetischは「感性的」という意味にのみ限定されると考えられてきたが、同時期のテキストには「美的」なものに関する発言も多く見られる。そこでハイデッガーによるこの二つの意味を貫く包括的なasthetischへの洞察を取り出すのが本発表の目論見である。
④アレクサンドル・チェレプニンについての研究
― 中国と日本における活動を中心として ―
エリザベト音楽大学大学院博士後期3年 王 文
アレクサンドル・チェレプニン(Alexander Nicolayevich Tcherepnin 1899 ? 1977)はアメリカ国籍を持つロシア人作曲家・ピアニストである。1934年に演奏旅行のために極東にやってきた彼は、数週間のみ滞在する予定だったが、当時の中国と日本における音楽状況と中国伝統音楽に深い興味を持ったというきっかけで、数週間の滞在予定を三年間も延ばすようになった。彼が滞在中に両国の音楽を研究し、またその素晴らしさを認め、若い作曲家たちに民族性を持つ音楽を創作することを触発、鼓舞した。
今回はチェレプニンの活動を中心にして発表する。チェレプニンの活動内容を演奏活動、交流活動、作曲コンクール、出版活動、執筆活動の五つに分けて順に紹介していきたい。
第79回例会報告
5月12日(土)、広島芸術学会野外例会は尾道散策だった。JR尾道駅に10時20分に集合。全員で15名。さっそく、タクシー4台に分乗し、なかた美術館へ。私の知らない美術館であったが、桜並木の川沿いにある予想外のすてきな美術館であった。
この美術館、故・中田貞雄氏のコレクションをもとに作られた美術館である。
第一展示室はポール・アイズピリの後期の作品が展示してあった。鮮やかな色彩と大胆な描写でどこか突き抜けたような天真爛漫な作品群であった。第二展示室はアイズピリの30代の作品で、こちらは観念的で思索的な作品が展示してあった。これらの苦悩の時期を乗り越えて魂が浄化され、後期の作品群につながったのだろう。もう1人、ピエール・クリスタンの作品群があった。耳が不自由な中で創作された作品群は形より光におしゃれな魅力を持っていた。きっと女性にもてたに違いないのだが、彼の恋人になった女性たちは彼の感受性にふりまわされたのではないかなどと勝手に想像しながら観賞した。
第三展示室は尾道を描いた作家たちの作品の競演。尾道という街はかくも芸術家の魂を揺さぶる街なのだろうかと驚いた。私の知らない作家たちばかりの作品であったが、私以外の会員のみなさんはこれだけの作家たちの作品をよく収集できたものだと感嘆していた。もちろん、作品のレベルは高い。彼らの視線を通してみる尾道は極めて美的な視点で再構成させてくれる。個人的には中根寛の「尾道黎明」という200号の大作には圧倒された。彼の表現した尾道はかくも美しくイデア的な作品だった。
続いて常設展示。ルオー、コロー、ルノワール、デュフィ、ブラマンク、ユトリロ、キスリング、ドンゲン、マリー・ローランサンというエコール・ド・パリを代表する作家たちの作品が一つの展示室に展示してある。作品のおかれている高さもちょうどいい。額縁もすてきだ。お互いの作品が共鳴しあっている。そこに徐々に興奮していた私を自覚した。
最後の一室は小林和作の作品群。大胆な筆致はたくましい精神性を感じさせた。
そして、ランチ。これがまた、おしゃれですてきだった。すぐれた作家たちの精神との饗宴を楽しみながら味わって幸福なときを過ごした。そして、庭園散歩。山の一角が庭園となっている。日本の庭園っていいなあと感じる。心地よい風とほんわかした陽射しが私を幸福にしてくれる。
13時にタクシーでふくミューゼ(29musee)へ向かう。元々江戸時代の脇本陣で、時代を感じさせる内装だ。いかにも元本陣らしい作りの建物を突き当りまで進む。すると1787年生まれの女性作家、平田玉?の歳時記と思われる屏風に出会う。しばし、観賞。洒脱な筆致に時代を超えた精神ののびやかさを感じる。壁の上にはなぎなたと槍があった。やはり、時代を感じさせる建物だ。別室には鶴を描いた作品が2つ。こちらは高い精神性を感じた。3階にはディズニーの絵本がいっぱい所蔵してあった。また、映画監督大林宣彦の資料もいっぱいあり、興味深かった。圧巻は漫画家・園山俊二の弟さんの園山春ニさんが焚いてくださった4畳半の部屋でのお香。得も知れぬ甘美で柔らかい香りで全身が臭覚を中心に再構築される。初めて、お香の魅力を発見。また、床の間には一抱えもある大きな沈香木が置いてある。これだけ大きな沈香木はお目にかかったことがない。これだけでマンションが買えるとか、貴重な品に出合えて感激である。次の目的地へ向かうため、外へ出て、建物の全体を眺める。近代的なるものと本陣的なるものが融合した建物であり、外観へのこだわりが感じられた。
続いて、歩いて5分、江戸時代の豪商、橋本家の別荘であった爽籟軒の庭園へ。平らな日本庭園である。これで別荘かと思うとため息が出る。穏やかな天気に恵まれ、私も豪商になったつもりで庭を散策。とてもいい気分になった。面白かったのが、庭にある池。現在は少しの水しかなかったが、昔は海の潮の満ち干きによって水位が変わったと伝えられているそうだ。これは村上水軍の動きを庭に居ながらにして把握した装置ではないかとの意見をくださった会員がおられた。言われればそんな気がする。庭の説明をしてくださったおばあさんはとても温厚でその存在自体で心が温かくなった。
15時30分。歩いて千光寺公園行きのロープウエー乗り場へ行く。待ち時間にすぐ近くの艮(ウシトラ)神社へ行く。境内の樹齢900年の巨木に圧倒される。また、縦横5メートルくらいの巨大な石も祀ってある。絵を描いている高校生もおり、和んだ空気が漂っていた。
ロープウエー3分で頂上へ。そこで、みんなで大きな木製の長いすに座り、なかた美術館に展示してあった尾道の作品の視点と重ねつつ尾道の景色を眺めながら、ソフトクリームを食べる。私は桜とバニラの2色のソフトクリームを食べたが、量も多く、満足。
そして、尾道市立美術館へ。ポスター作家のレイモン・サヴィニャック展を観る。残念ながら私にはポスターを観るという観賞技法が完全に欠落しており、作品の価値はわからなかった。ただ、彼のポスターには多くの人を引き付け、動かす力が宿っていることは会員の方々の観賞態度から伺うことができた。その後、美術館の喫茶室でお茶をし、ここで解散。
たまたま浄土寺で開かれる広島文化賞を受賞している尾道薪能があることをポスターで発見。観賞したいという6名の会員と尾道ラーメンを食べいという会員で歩いて山を下り、船着場のすぐ横にある中国料理店で全員、海鮮塩ラーメンをいただき、2度目の解散。
私もせっかくなので薪能を観賞することにした。薪能を観賞するグループは急いで浄土寺に向かう。会場は700名でいっぱい。能のファンの多さに驚かされる。狂言「呼声」で笑った後、仕舞「玉鬘」「小鍛冶」で「動」の身体を観賞。あたりが暗くなり始めた頃、薪に火がつけられ、幽玄なムードの中、最後に能「花月」を観る。能の基本的な知識さえない私だが、しだいに音楽と舞いで非現実と現実の境界で魂が幽体離脱を起こし始める。日本で600年以上続く、伝統芸能をしばし堪能。8時終了。
余韻の残る中、これで、尾道とお別れとなった。私は何度も尾道を訪れているが、私の知らない尾道を教えていただいた貴重な1日となった。いつも周到な準備をしてくださる事務局のみなさん、ありがとうございました。
(広島中央郵便局 大山智徳)
インフォメーション
★「西部国展」の紹介と観覧のご案内
(広島芸術学会第21回大会が開催される7月28日、同じ広島県立美術館で同時開催中)
日本の抽象から具象まで絵画造形表現分野で活躍する作家が多数所属する公募団体、在野団体最大規模の国画会を母体として、西部国展は広島以西の出品者で構成された公募団体です。
出品者約70名、大作約110点余を一堂に展覧、西日本においての美術文化の振興発展に寄与することを目的としています。西部国展の沿革は、九州では知られた抽象画家宇治山哲平を中心に、1985年、国展本展が大分で開催したことが土壌となり、1996年広島以西の国展出品者約40名が一堂に会し、田川市美術館において第1回西部国展がスタート。以後、九州各県で毎年開催される。昨年は、第11回展を広島で開催して新たな局面を見せることとなり、今年の第12回も引き続き広島での開催となっています。ところで本年の国展は、六本木にある新設の国立新美術館、貸し会場(5部門室内約10,000㎡、野外1,260㎡東京都美術館時代より約3倍)で全室借り切り、第81回国展を開催しました。観客者数も倍増し推定8万人を超える大規模な展覧会となっています。日本での新たな美術動向を示す国展の一つの局面である西部国展を紹介したい。
(西部国画会事務局 吉井 章)
★資料展、シンポジウム、ミニ・トーク案内
「広島に帰ってきた峠三吉の『原爆詩集』の草稿」
昨年(2006年)の11月に峠三吉の『原爆詩集』の刊行直前のものと見られる草稿が峠三吉の甥・峠鷹志氏宅で見つかり、「広島に文学館を!市民の会」に寄託されました。かつてこの原稿を見た人はいたようですが、皆高齢化し、あるいは故人となっていて、長らくその所在が不明でありました。今回の再発見と市民の会への寄託を受けて、その重要性に鑑み、広島平和記念資料館と相談し、同館の東館地下1階情報資料室で5月15日から8月20日まで展示することになりました。なお、土・日・祝日は閉室ですが、8月4?6日は開室されます。
『原爆詩集』は1950年6月の朝鮮戦争勃発と、その後の朝鮮半島での南朝鮮(韓国)を支援する国連軍の苦戦を受けて、アメリカのトルーマン大統領による原爆再使用声明(同年11月)がなされ、緊迫した状況下に書かれました。当時の日本は敗戦後のプレスコードによって原爆を悲惨なものとして描くことは許されませんでしたが、広島で被爆した峠三吉は原爆の再使用を許してはならないという強い思いによって『原爆詩集』の刊行を決意し、翌年夏(「あとがき」には1951・6・1となっています)孔版(謄写版)印刷で出版しました。
今回発見された草稿の「あとがき」には1951・5・10とありますが、赤インク、青インクや鉛筆で多くの書き込みがなされ、推敲の跡がよく分かるとともに、緊迫した状況下にあっても統一された丁寧な字で書かれていて、彼の沈着な精神の激しさとねばり強さを如実に感じることができます。この草稿を中心に、「広島に文学館を!市民の会」は平和記念資料館と広島市立中央図書館と共同して、資料展「ちちをかえせ ははをかえせ??『原爆詩集』のできるまで」を開催するとともに、シンポジウム「峠三吉を語る」(6月30日:午後2時より、平和記念資料館地下1階・会議室(1)にて:パネリストは御庄博実、相原由美、池田正彦、海老根勲)ならびにビデオとミニ・トーク「みつめなおす原民喜・峠三吉」(7月14日:午後2時より、平和記念資料館地下1階・会議室(1)にて:講師は水島裕雅)を開催いたします。
『原爆詩集』は戦後の日本を代表する詩集の一つであり、核兵器の開発と核戦争の危険が去らない現在において今なお重要な詩集であります。どうぞ皆さま、被爆63年目の夏、また峠三吉生誕90年の年に、峠の詩集とその業績を振り返るために平和記念資料館にお出かけ下さい。(なお、シンポジウムとミニ・トーク当日は土曜日ですが平和記念資料館の計らいで情報資料室は午後開室してもらえることになりました。入場は無料です。)
(「広島に文学館を!市民の会」代表 水島裕雅)
★金属工芸「木本一之展」
会期:2007年9月11日(火)~16日(日) 11時~20時(最終日17時まで)
会場:gallery G(広島市中区上八丁堀4-1 公開空地内(TEL082-211-3260)
内容:鍛鉄技法を用いて制作した作品や鋼板を溶接で組み立てた新作「鉄のオブジェ」 約15点を展示します。
★藍染めのワークショップ
「第8期 野で育て創り還す~蓼藍の生葉染から沈澱藍まで~」
古代より藍染をする民族はたくさんいますが1つの国で含藍植物が4種類も成育している国の民族は他にいないと思います。日本にはマメ科のインド藍、キツネノマゴ科の琉球藍、タデ科のタデ藍、アブラナ科の大青が自生や栽培されています。このワークは、栽培が易しく唯一の1年草のタデ藍を育て、色を貰う6日間ワークです。
主 催:アースネットワーク 共催 西光寺
日 時:7月17日(火)10時~7月22日(日)16時
会 場:三次市吉舎町敷地610 西光寺
講 師:角 寿子(染織家) 天然染料顔料会議理事
参加費:30000円、宿泊1泊2500円
食 事:<精進カフェ>1日3食2500円
材料代:無漂白布と麻生平、絹布、摺り刷毛、渋紙など実費
問い合わせ・申し込み先:
① 西光寺 三次市吉舎町敷地610 TEL0824-43-3029
② アースネットワーク広島(常田)TEL082-262-2152
広島市南区段原2-18-11グリンSHIATSU内
*作業工程の関係で1日のみの参加は不可。
*生葉染は絹、顔料摺り染めの布は全て無漂白綿か麻生平を使用します。
*受講生の方にはテキスト集や秋に藍や日本茜の種、他を配布します。
*2006 ユネスコ天然染料シンポジウムの報告や資料等用意しています。
■事務局から
会報第92号に掲載の寄稿文のタイトル「一見如故(y jinr g)」は「一見如故(「yi jian
ru gu」、文中の『白黒』は(白黒)の誤りでした。訂正してお詫びいたします。
第92号
広島芸術学会会報 第92号
口元の美しさ
小原 啓子
歯科医療の分野では、美しい笑顔で見える歯の並びをスマイルライン(あるいは、smile arc)という。少し顎を引き笑顔を作ると歯が見える。上の歯の先端が連なるラインと下唇のラインが一致している状態を示し、両ラインの一致が最も魅力的であるとしてその考えが応用されている。
この歯の見え方については、男性よりは女性のほうが、また高齢者よりは若者のほうが多く見える という報告がされている(1978: Vig & Brundo)。これは、女性が無意識に笑顔の魅力の引き出し方をわかっているからという説もあるが、年齢を重ねると見えなくなるのは単に体の衰えしかない。人は年齢を積み重ねると、皺が増え、皮膚がたるみ、重力によって皮膚が下がる。笑顔は口の周りの筋肉(口輪筋、頬筋など)によって作られるため、衰えにより上の唇は長くなり、下の唇も同様に下にさがる。
しかし、高齢者はその生き方そのものが、皺の入る方向や深さに現れ、その人の魅力となっている場合が多い。歯がない場合、口のまわりの皺は一機に深く入るので、機能だけでなく審美的にも歯の重要性を意識することになる。
顔の若さを保ちたいと考えた場合、歯を大切することは必須である。厚生労働省と日本 歯科医師会では8020運動というキャンペーンを展開している。80歳で20本の歯を残そうというスローガンは、1989年愛知県で初めて謳われた時には達成率は80歳人口に対して4%にしか過ぎなかった。現在は21%である。それでは、どうすれば目標達成できるかをあげておこう。
① 歯科医院へは定期健診で1年に2回程度来院し、予防の処置を受けること
② 毎日のブラッシングは、できれば音波ブラシを使うこと。この第3世代歯ブラシと呼ばれるこの機械は、実際に当たっているところからさらに3ミリ先までをきれいにすることで、歯磨きの考え方を一新した。
さて、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた「モナリザ」。わずかに微笑んだ肖像であるモナリザの歯は見えない。世界3大美女といわれる小野小町、楊貴妃、クレオパラも同様であろう。平均寿命が短かった時代の歯は、生きている間の機能を維持できていた。したがって、その人の顔の美しさを象徴するものではなかったのであろう。しかし、80年生きる現代社会では、歯の存在価値は確かに高い。豊かな人生を育むために・・・。
(おばら けいこ・歯科衛生士 DMS Hiroshima代表)
第78回例会報告
アクションペインティングの変容とその政治経済的条件について
発表:神戸大学博士課程 平田 思
第二次世界大戦後のアメリカ美術界において登場した抽象表現主義に関する研究では、これに関わったアーティストや作品とその政治的・社会的文脈との関わりが見直されるようになる1970年代まで、専ら「個人の自由を主張しながら」描かれた「情動的な抽象画」である絵画の形態について言及されることがほとんどであった。本発表において氏は、1970年代以降から現れた抽象表現主義への社会的・政治的観点からのアプローチをふまえ、特にアメリカの抽象表現主義期に顕著な活動をした批評家ハロルド・ローゼンバーグが打ち立てたアクションペインティングという概念についての考察を行った。
アクションペインティングは、1950年代から60年代にかけて、ジャクソン・ポロックやウィレム・デ・クーニングの制作行為と結びつけられて世に知られるようになった。しかし、当初のアクションペインティングの概念には「画家を構想する社会革命」を提唱する意味合いが含まれていた。したがって、今日のように現代美術におけるアヴァンギャルド概念としての地位を確立する以前、アクションペインティングは政治におけるアヴァンギャルド概念として解釈することが出来た。氏はこのような概念の変容が起こった背景と、その結果として概念自体のラディカルさが軽減したという二点の見解を、オートンと川田都樹子らの議論を参照しながら、ローゼンバーグの残したアクションペインティングの構想を通史的に分析した。またその際、具体的な作品例としてはデ・クーニングやポロックの絵画作品を提示した。
まず、ローゼンバーグがアクションペインティングの概念を打ち立てた動機として、共産主義への失望によって社会的に疎外されていた同時代のアメリカの知識人やアーティストたちの救済が挙げられる。今日の一般的なアクションペインティング解釈が論拠とする1952年の論文「アメリカのアクションペインティングの画家たち」で、未だ共産思想を捨てきれずトロツキスムに希望を託していたローゼンバーグは、革命の主体をプロレタリアートから画家に置き換え、当時アメリカの美術界で台頭してきた制作プロセスを強調するアヴァンギャルドにおいて、アクションペインティングという概念を打ち立てた。氏は、こうした概念をやはり政治的文脈において読み解くことで、描くという行為性に「日々の画家の行為は革命のための出来事を引き起こす行為」であり「過去のあらゆる価値を否定する」という革命的な文脈を読み取っている。こうした解釈からは、個人の自由を保障する新しいコスモポリスとしてのアメリカの創造というユートピア思想を読み取ることが出来る。
しかし、この革命的な概念は実際的な有効性を持ちえず変容を迫られた。氏は、その政治的背景として、アメリカ型アートの売り込みによる文化におけるヨーロッパからのヘゲモニーの獲得を挙げている。こうした政治的動向から、ヨーロッパのモダニズムの影響が大きい作品は当時のアメリカの美術市場から締め出され、独自のスタイルを獲得したアーティストだけが生き残ることになった。1950年頃からアメリカ美術界に台頭した「製作過程を重視するアヴァンギャルド」もそのひとつである。このアヴァンギャルドイデオロギーの動向の中で、アーティストたちは革新的な制作に没頭するとともに必然的にアメリカの帝国主義的な動向とシンクロするという逆説的な立場に立たされることとなった。更に氏は、その理由として抽象表現主義者とWPAとの関係、抽象画の購買層である中産階級の台頭、新進アーティストが抱いた一攫千金の夢の三点を挙げて説明している。
こうした社会的な動向から、ローゼンバーグは1969年の著作『美術作品とパッケージ』において以前のアクションペインティングの概念に修正を加えている。彼自身が上述したアメリカ資本主義に同化することによって共産主義的思想を取り下げ、具体的な作家を明示してアクションペインティングと他のアートとの関連を語ることで、アクションペインティングは単に美術の領域における表現形式の問題として扱われることが可能になった。加えて、イデオロギーとしてのシュルレアリスムとの違いが明らかにされることで、アクションペインティングが持つ特色としての個人の自由が主張された。氏はさらにこのことについてデ・クーニングの《女Ⅰ》とポロックの《ナンバー30:秋のリズム》といった具体的な作品を比較し、冷戦構造下のアメリカにおける個人主義の一端としてのアクションペインティングの特異性にまで考えを巡らせている。
今後、氏は同じ抽象表現主義として括られることの多いヨーロッパにおけるアンフォルメルについても研究を進め、やはり局地的な条件下で発生した動向としてアクションペインティングとの相互の関連を明らかにしたいとのことであった。こうした政治・社会的観点からの研究はその時代のアーティストや芸術活動の置かれた状況を明らかにすることであり、非常に興味深い。
(報告:広島大学 田村 桂子)
日本画基底材としての和紙
-日本・中国・アジア諸国における製紙法の比較を通して-
発表:日本画家 長瀬 香織
広島市立大学にて博士号を取得された長瀬氏は、日本画家として活躍しつつ、和紙についての研究も同時に行っている。今回、氏は、作家としての立場から製紙に関心を持ち、日本・中国・アジア諸国における製紙法の現地調査を行い、これをふまえ和紙の理想的な使用方法を模索し検討した。
まず始めに、和紙の原料、製紙法ついて述べられた後、氏が現地調査を行った3ヶ国6ヶ所の製紙所での製紙工程をスライドと映像を使い、各国の製紙法の違いを示した。日本の和紙については、まず表装用紙である宇陀紙と美栖紙を取り上げ、そして、中国の富陽宣紙と竹紙、桑紙、ラオスのsa paperについて比較検討し、次のような見解を示した。中国の紙は繊維の短い原料を使用し薄く柔らかな滲みの美しさを目的とした紙である。ラオスの紙は、原始的で原料の繊維の残る素朴な紙である。これに対して、日本の紙は、たとえば、日本画などに使用される雲肌麻紙や表装に使われた宇陀紙と美栖紙等、用途・産地によって様々な特徴がある。
さらに、氏は、製紙工程、制作過程、保存方法より生じる紙の劣化と保存の問題を取り上げ、作家としての観点からその要因を探り、認識することで、問題点と対処法を提示した。特に礬水や、ベニヤパネルのアクが紙に及ぼす影響は興味深いものであった。
最後に、氏は、今後の制作において、それぞれの紙の特性を把握するため、日本国内・中国・韓国・ラオスと今までの現地調査・収集してきた紙の性質・滲み・特徴を比較する実験を行った。これらの実験を通して、紙の原料や製紙法によってまったく異なる滲み、発色がみられ、写真や文献では分かり得なかった手漉き紙の幅広さを感じることができたと氏は述べている。そして、このような比較から得た結果を基にし、中国の夾宣、韓国の楮紙とラオスのsa paperを使用し、作品制作を行うことで、日本画の多様化する表現に即した紙を追求し、手漉き紙の新たな可能性を示した。
今回の発表において長瀬氏は、作家の立場から、さまざまな紙を比較研究し、紙の性質が制作にもたらす可能性を明確に示された。それのみならず、こうした結果をさらに自らの創作にも生かすことを試みておられる。今後、氏が、研究と創作を共にしながら、如何に日本画の新たな可能性を示していかれるか楽しみである。
(報告:広島大学大学院博士課程後期 陳 貞竹)
寄稿
一 見 如 故(yi jian ru gu)
広島大学 袁 葉
“名古屋”と聞くと,私にとっては格別な響きを持っています。というのは、かつて抱いていた日本へのマイナスイメージを,180度変えてくれたからです」
3月3日に名古屋で行われた「あいち平和映画祭2007」での講演で、私はそう切り出した。
1971年に名古屋で「第31回世界卓球選手権大会」が開かれ、その記録映画『白黒』を私は中国の片田舎で観た。時代は「文化大革命」(66~76年)のさなか、文化部(「部」は日本の省に当たる)に勤める両親は、「知識人は農村へ行って農民による再教育を受けなければならない」という毛沢東の命令に従って、同僚たちほぼ全員と共に北京を離れた。重労働による思想改造のためである。行き先は北京から南へ千キロも離れた長江流域にある湖北省で、小学生の私もついて行った。そこでの唯一の楽しみは、時折開かれる星空の下での映画鑑賞だった。
映画のファーストシーンは、上空から鳥瞰する名古屋の街。マッチ箱のようなものが一面に広がっているのは、どうやらビルのようだ。当時の北京の建物はほとんど平屋だったので、ずっと進んでいる感じがした。やがて大きな建物の屋根のクローズアップ。会場の体育館だとナレーションで分かった。そして、私の目線はカメラと一緒に降りていく。
次のシーン。レンズが体育館の前に列を作っている人々とすれ違っていっても、軍服姿は見当たらなかった。まして、銃や軍刀を持っている人なんて…。それまで「日本人」というと、劇映画に登場する日本兵のイメージしかなくて、恐怖と嫌悪感の対象だった。だが,目の前のこの人たちは悪い人には見えない…。
その夜はなかなか寝つかれなかった。あの体育館の前に並んでいる人々の姿が再び目の前に浮かんできた。初めて目にしたホンモノの日本人だ。ああ,隣国にはこのような人たちが住んでいるのか、と思うと、ホッとしたような不思議な気持ちになった。
その大会が、日中国交正常化のきっかけ「ピンポン外交」の舞台だったとは後になって知った。
「まさか36年後に、この名古屋の地で講演をさせていただくなんて、本当に夢にも思いませんでした。もしかすると、今この会場に、あの時列に並んでいた方がいらっしゃるかも知れません」と言い終わるやいなや、さっと手を挙げた方があり、会場に静かなさざ波が広がっていった。時空を超えた感動に一瞬言葉を失った私が「皆さん、お招きいただきまして、本当に心から感謝いたします」と言ってお辞儀をすると、会場を埋めた五、六百人の聴衆から一斉に拍手が湧き起こった。
「一見如故」(一見旧知の如し)のような温もりに包まれ、最後までお話をさせていただいた。
翌日、あの卓球大会の会場となった「愛知県立体育館」まで足を運ぶ途中、「袁葉さん、この角を曲がると、もう見えますよ」と主催者の一人から告げられて、私は胸に手を当てて立ち止まった。
「ち、ちょっと待ってください。まだ、心の準備ができてないんです…」
「ははは、まるで初恋の人と再会するみたいですね」
「体育館の方も、びっくりするかも」
弥生の空に和やかな笑い声がはじけた。
インフォメーション
■八千代の丘美術館「広島の作家 15名の展覧会」
広島県内を拠点に活躍中の15名の作家がそれぞれの棟で1年間作品展を開くという形がとられている「八千代の丘美術館」(安芸高田市八千代町)。この4月から第6期展が始まり、当学会の作家3名の方が展示中です。ドライブがてらどうぞ、お出かけ下さい。
H棟:石下早苗(染色工芸)
L棟:村中保彦(金属造形)
O棟:酒井一彦(日本画)
■「未来美術館へ行こう! 柴川敏之展」記録集プレゼント情報
2005年夏に奈義町現代美術館で開催された「未来美術館へ行こう! 柴川敏之展」を完全収録した記録集で、展覧会のようすなどが凝縮されています。応募方法は名前、所属(仕事など)、送付先、簡単な応募理由・、活用方法などを記入の上、メールで応募してください。メールの宛先欄に「記録集プレゼント係」とご記入ください。当選者には後日柴川氏からメールが届きます。
宛先&お問い合わせ先:柴川敏之(美術作家/福山市立女子短期大学准教授)
福山市立女子短期大学 美術デザインコース
〒720-0074 福山市北本庄4-5-2 TEL084-925-2511
Eメール:shibaka@m13.alpha-net.ne.jp
http://www.gaden.jp/arts/shibakawa.html
第91号
広島芸術学会会報 第91号
現代アートの現場から
高原 小夜
あっという間に、両手が絵の具でべとべとになった。使う道具は段ボールと絵の具と定規だけ。筆を用いず、道具を代えただけでも思いもつかない表現が次々と出来上がる。子どもたちから「おもしろいよ」の声が聞こえる。
主宰する造形美術研究所では、幼児・児童のあるがままの気持ちや弾むような、湧き上がる感性、そして乳幼児期にはしっかりと持っていた動物的本能を大切にしている。講師はテクニックの指導には重きをおかず、材料や素材のコーディネートに徹している。子どもたちには、少しの刺激とひらめきを促す程度に抑えている。材料はあくまでもシンプルで無限に発想し創造できるものを選定している。子どもの感性と力量でどうとでもなり得るものが面白いのだ。明るい、楽しい、肯定的な雰囲気の中、感性は生き生きとしてくる。
子どもの精神面の危機感が問題となっている今日、美術教育はすべての子どもにとって必要ではないかと思う。例えば、勇気、工夫、創造力、洞察力、個性など「生きる力」として大切なものである。これらの指導は美術を通して道徳教育ができるのではと思うのである。真っ白い画用紙にデッサンしたり、彩色する。無から有に変わる瞬間である。これは大変勇気のいることだ。制作中、 工夫することを考えなければならないことは多々必要となる。何々が無いからできないなどと言っていられない。何とか考え、工夫する知恵がいる。創造力は自分の中でいかに想い描くか。芸術活動を通じて訓練されるのである。洞察力は深く物を観察すること、感じること、考えることで身につくもので、作品制作になくてならないことである。物の形について思いめぐらし、また思いやることは思いやりを育むと同時に、物を通じて人間について思いをめぐらすことができるようになると思う。個性は自分なりの発想であり、芸術の世界ではオリジナリティは大切なことだ。学校教育で詩人、金子みすゞの「みんなちがってみんないい」を引用しているが、まさに芸術の世界がそうである。人と違うことは変なことでも、間違っていることでもないと思えれば、今の子どもたちもかなり気が楽になるだろうにと思う。朝、目覚めたら、あらゆる色と形が目に飛び込んでくる。美しい自然、それ以外はすべて人が創ったもの。物を漠然と見ないでよく見れば、美的センスも身につき、アートは人生を豊かに楽しくしてくれるであろう。そのことを教えたくて、日々子どもたちと作品を通じて心通わせている。
(造形美術研究所主宰・たかはら さよ)
第77回例会報告
子どものための哲学:物語と対話
講演:広島大学客員教授 K.L.ファン・デル・レーウ
本講演における「子どものための哲学」とは、小学校段階の子どもと教室で哲学的対話を行う試みであり、マシュー・リップマンによって1970年代以降に米国ではじめられた。その目的は、教師が子どもに哲学の知識や歴史を教えることにはなく、あくまでも子どもに自立的な思考の発達のための足場を与えることにある。したがって教室では、子どもが哲学を「する」こと、すなわち哲学的な疑問や問題について考え、議論することに重点が置かれる。また議論は、子どもが他の子どもとの間で、問題に対する共通の答えを見いだす探究ともなる。教室における哲学は、異なる意見への寛容さを子どもに求めるのであり、この意味で対人的な技能の育成にもつながっている。
続いて、子どものための哲学の方法論が説明された。まず、教師の役割は議論の進行役である。進行役は子どものグループを、意図された結論へ導くのではない。議論の端緒となる賢明な質問を立て、発言の中で何が重要であるかを子どもに気づかせるような哲学的直観が、進行役に求められる。最も一般的な方法は、教室で子どもたちを円になって向き合って座らせ、哲学的なテーマを含む短い物語を読む、あるいは子どもたちに読ませることである。こうした方法は、議論の方向性を仕組む策略と見えるかもしれない。しかし実際の議論は様々な質問や問題の発見へと展開し得るものであるし、あるいは、「いかなる質問が哲学的な議論に見合うのか」ということそのものを、哲学的な問題として提示することもまた可能である。以上のような物語の利用のほかにも、絵画作品をめぐって、その美的価値について多角的に議論する方法なども大変有意義である。
哲学のテーマは、子どもの年代や関心に応じて限定が必要となるという。一方で、一つのテーマが議論の過程で様々な展開を見せた例も紹介された。あるクラスでは、視覚障害の子どもが「黄色」とは何かを理解しようとする物語が読まれた。これに対してまず、視覚障害のある人に「黄色」とは何かを教えることは可能か、という問題が生じた。そこから、「黄色」の対象物を示すことと「黄色」の観念を伝えることの違い、さらにはその観念を伝えるための基準値とし得る「黒」を視覚障害の人は見ることができるのか、などの疑問が次々と生じた。その際ある少女は、父親が死の間際に盲目となった際、黒を見たと言った、と発言した。それまで周囲に父の死について語ることの出来なかった彼女の発言は、哲学的な対話が、子どもたちを一段高い関心のレベルへともたらし、個人的なことや痛みを伴うことを話す行為をも可能にしたことを示している。
「子どものための哲学」に関する、レーウ氏の幅広い知見と様々な教室の事例に裏付けられた本講演は、樋口聡先生の的確な通訳によるご助力もあり、非常に興味深いものであった。講演後の質疑応答では、このような哲学的対話を経験した子どもたちがいかに成人したか、あるいは哲学的対話とディベートによる二項対立的討議の相違点、などが話題となった。初等教育の現場における哲学的議論・対話の試みが、対象となる子どもたちに対してはもちろんのこと、本講演のような機会を通してそれを聞く私達のあいだにも、刺激を与えつつ広がり続けることを望みたい。
(報告:広島大学大学院 川口佳子)
シンポジウム「子どものための哲学と芸術」
パネリスト:香川龍介(画家、元広島市立毘沙門台小学校長)
角田 新(広島県立美術館主任学芸員)
三根和浪(広島大学教育学部助教授、美術教育)
三桝正典(造形作家、広島大学附属東雲中学教諭)
司 会:金田 晉(広島大学名誉教授、美学)
本シンポジウムは、さまざまな方面で〈子どものための美術教育〉を実践してきたパネリスト4人の経験談を聞き、フロア全体が同じテーマについて考えるという形式で開催された。
香川氏は、理想的な制作とは、作品を自分の支配下に置くのではなく、作品が自分を支配するような関係を築くことだと主張した。小学生の美術教育に携わってきた氏は、このように自分の思い通りにはならない〈もの〉、あるいはむしろ自己を動かしさえするような〈もの〉――それ自体は目には見えず、言葉では語り得ない〈もの〉――の存在を子どもに伝え、〈もの〉との関わりを自覚させることの重要性を説いた。それは単に藝術という特権的な場に限られるものではない。道徳の根は自分自身や他人や社会など、多くの〈もの〉と関わるところにある。香川氏の発表は、さまざまな〈もの〉との関わりを自覚的に構築していく作業の象徴として藝術行為を捉えた発表であった。
角田氏は、山間部や離島部など美術館に簡単に足を運べない子どもたちのために作品を運び、鑑賞したり、模写したり、絵を見た感想や連想した物語を語り合うという、現物教育の場を提供してきた。このような活動を展開してきた氏が、〈おもちゃを買ってあげるから〉とか、〈あとでケーキを食べさせてあげるから〉といって、美術館に子どもを誘う大人にこそ問題があると力説したことに、報告者は興味を引かれた。氏はまた、「本物を目の前にして初めて感じ取ることのできるものがある」と主張したのだが、前の香川氏と同様に、子どもにとって〈もの〉と出会う体験それ自体を主目的とすることの重要さと困難さを指摘しているように思われたからである。
三根氏は中学校で美術を担当した後、広島大学で鑑賞教育のためのワークシート作りに携わっている。氏は、「培」という字が、「草木の根や種に土をかけ、植物自体がもつ成長力を伸ばす」ことを意味すると説いた上で、大人の想定している場に子どもを引き上げるのではなく、子どもたちに機会を与えること、子どもたちが持っているものを伸ばすことの重要性を説いた。氏が紹介した展覧会「児童幼画堂」や研究会「図工の力」において、子どもたちが色や形や材質などを自分たちで確かめながら作品の制作過程を体験する、という取り組みもまた現実(三根氏自身は「リアル」語っていた)の〈もの〉と出会う体験を子どもたちが自覚的に行う作業である。大人の価値観を押し付けるのではなく子どもの潜在力を伸ばすという点については、後に香川氏が疑問を投げかけたが、学習院大学名誉教授の川島優が「子どもの頭や心に材料がない状態で考えろ、といっても無理なんです」と述べたことを想起させる。「基礎学力」と「応用力」のバランスをとりながら教育することが重要だということであろう。
三桝氏は、「自分とは何か」「生きるとは何か」を表現することを藝術行為だと位置づけ、自分の中の美しいものを一生懸命に楽しむことの重要さを力説した。氏は、藝術とは、表現においては「自分はなぜこのように描いたのか」を反省し、鑑賞においては「自分はなぜこの作品が好きなのか」を自問する、言葉と感性の交錯する場であると説いた。また、こうした活動を通して、人は自らが生かされて生きていることを自覚することの可能性を論じた。氏もまた、〈もの〉との出会いによって触発される他者への眼差しを重視している。
〈子どものための〉とタイトルがつけられていたものの、むしろ子どもと関わる大人において、子どもや社会あるいは名づけられ得ぬさまざまの〈もの〉の象徴としての〈藝術〉と如何に関わるべきかを考えさせるものであった。
(報告:広島大学大学院 長迫英倫)
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■東広島市立美術館特別企画展 現代の造形-Life&Art-
「竹 美への叢生」
東広島市立美術館では、「現代の造形-Life&Art-」を大テーマとした展覧会を企画し、美術と産業・生活の接点において、人や生活と美術とのかかわりを造形の視点から幅広く捉えなおすことを目指しています。
本年は、生活と美術とのかかわりに注目し、近年、山林の植生破壊による環境問題から竹炭などの天然素材としての製品まで、人々の日常生活の中で幅広く注目を集める「竹」をとりあげています。
この展覧会では、そうした「竹」を、絵画・彫刻からインスタレーションまで、分野を問わず現代の美術として造形した作品を展示しています。
会 期:2月9日(金)~3月18日(日)
月曜日休館。開館時間は10:00~17:00(ただし、入館は16:30まで)。
出品作家:五十嵐史帆、石丸勝三、梅田美春、岡原大崋、木村東吾、坂本奈穂
竹内雅人、中村圭、難波章人、原田文明、笵 叔如、藤江竜太郎(50音順)
入 館 料:一般600(500)円、大学生300(200)円、高校生以下は無料、( )内は20人以上の団体料金。
■講座「美学の将来」2005発刊のご案内
このたび、広島芸術専門学校(広島市南区的場町)で開催された2005年度現代文化講座「美学の将来」(講師 金田晋先生)の記録集が、100部限定で発刊されました。現代社会において芸術は何ができるか。目先の暗澹、焦燥をこえて、希望のイメージを、私のではなく、私たちの共同の財産にするために、美学はどのような役割を担うかを考える。受講者は研究者、作家、一般愛好者等多彩で各論10テーマの講座内容と受講者のレポートが掲載されている。手づくり限定で残り冊数が僅かとなりました。希望者会員の方には1冊900円にてお分けいたします。事務局大橋(FAX082-506-3062にて)までご連絡ください。
なお現在、講座「美学の将来Ⅱ」2006を開催中です。さらに4月以降も講座「美学の将来Ⅲ」2007を行う予定です。受講希望の方は大橋(TEL082-506-3060)までお問い合わせください。
■映画『ちゃんこ』のDVD、5月に販売予定!
広島大学相撲部の実話が映画化され、話題になった『ちゃんこ』を覚えていますか。同大相撲部を約20年前に創部し、現在はOB会会長と副監督を務める柴川敏之氏(福山市立女子短期大学美術デザインコース・広島芸術学会会員)が、シナリオ作りから美術関係までアドバイザーとして手伝いました。柴川敏之氏の役である「松川敏之」を俳優の渡部篤郎氏が演じています。映画の中に、「松川敏之」がひろしま美術館でゴッホについて語るシーンがあり、ひろしま美術館で撮影したゴッホの「ドービニーの庭」がフル画面で登場します。なぜ、ゴッホなのかは観てからのお楽しみ(もともと「ドービニーの庭」はベルリン国立美術館に所蔵されていました)。なお、柴川氏自身も「村相撲の中年男性、選手A」としてまわしを締めて出演しています。
なお、この映画は英訳され、今年2月に「第57回ベルリン国際映画祭」でも上映されました。
映画『ちゃんこ』の公式ホームページ
http://www.dreamonefilms.com/chanko/index.html
第90号
広島芸術学会会報 第90号
マンガとMangaのあいだ
清永 修全
マンガ・ブームである。98年にドイツに足を踏み入れたばかりのときは、まだそこまでのものではなかったように思う。むしろ、一部のアジア・オタクの非売品といったイメージの方が強かった。それが今ではちょっとした名の知れた大きな駅のキオスクでマンガ・コーナーを設けていないところなど珍しくなくなった。たとえば、あるマンガ専門の出版社で2002年までの7年間に売り上げは40部近くに跳ね上がったという事実にも、そうした《変容》の一端を見て取ることができよう。2005年には、ドイツの出版市場においても最も成長した部門となり、目下年間800を超える新刊が陸続と翻訳されているという。その実、もっぱらマンガの翻訳で食べている知人もいるほどなのだ(マンガの《翻訳》も聞くところ、かなり面白そうな世界なのだが)、80年代『はだしのゲン』に始まったドイツにおけるマンガの翻訳・輸入は90年代『アキラ』や『風の谷のナウシカ』、『スラムダンク』や『ドラゴンボール』といったメジャーな作品の出版を経て、今ではほとんど脈絡もないまま次々に新たなものが市場に出されるようになった感すらある。『子連れ狼』のようないわば《古典》と聞いたこともない最新のマンガの翻訳が書店に並んでいるのである。ドイツ人の心情とはおよそ縁のなさそうな『めぞんー剣』のような作品も割合売れているようだ。そうこうするうちに、ドイツの若者達も自分でマンガを書き 始めたと聞く。しかしである。ここでマンガを読むという行為には、端で見ていて何とも言えぬおさまりの悪い《違和感》が付きまとう。そもそもドイツには、マンガを読むという《伝統》はない。まだちゃんと本の読めない子どものための幼稚な読み物にすぎないというコンセンサスと根強い抵抗感が大人達にはある。マンガを真剣に受け止めようとする事が、だからかえって真剣さの欠如として取られかねない。マンガが持っている文化的位置価値が根本的に違うのだ。日本におけるマンガにしても、他の様々な出版物との相対的な関係の中にその存在が意味を持って現れ、かつ消費されていると思うのだが、目下のドイツでのマンガ・ブームは、そうしたコンテクストに小さな変更を加えようとしているようだ。それも、もはや単なる《輸入品》の消費としてではない。そこにあらかじめあった文脈に割り込んでいって、そこで得た独自の位置価値を通して自らの存在を主張しようとしているように思われるのである。おそらく、先の違和感も実はそうしたズレから来ているのではなかろうかと思った。つまりマンガならぬMangaが生まれつつあるのではないか、ということだ。してみると、ここでも私達は《文化の輸入》に伴う根本的な現象と向き合っていることになる。
(きよなが のぶまさ・ ハンブルグ大学大学院博士課程)
第76回例会報告
野外例会「海の見える杜美術館」見学
大山 智徳
10月14日、第76回広島芸術学会例会は、「海の見える杜美術館」の「京都画壇-師風の継承とその変化-」の観賞旅行でした。
秋晴れの下、会員18名がそれぞれの車に分乗し、目的地「海の見える杜美術館」へ向かいました。宮島の対岸の山の中腹に見える立派な建物です。宮島からのフェリーでは何度となく、見ていたのですが、美術館への道のりは工事中の道もあり、まるで、カフカの「城」のようにわかりづらかったです。
ようやく駐車場へたどり着き、シャトルバスに乗って美術館入口に到着。駐車場から入口まではかなりの急勾配だったので、シャトルバスに感謝です。
さて、観賞開始。今城学芸課長が最初から最後まで丁寧に説明してくださいました。ありがとうございました。すべての作品の感想は無理ですから、私の印象に残った作品を中心に書いていきます。最初の部屋は彫刻のコンペ作品の展示でした。素材と形、構成等個性的な作品ばかりでした。
さて、いよいよ特別展。第一展示室は塩川文麟、幸野楳嶺、竹内栖鳳の作品展示がありました。漠然とした言い方ですが、日本画っていいなあと改めて思いました。それから、いろいろな流派があることも驚きでした。この展示の中では、塩川文麟の「蘭亭曲水之図」がユートピアのようで、ついつい、私の魂が幽体離脱して作品の中に入り込んでいきそうになりました。幸野楳嶺の「鳳凰図」も強く印象に残りました。
第二展示室は動物画でした。この中では、西村五雲の「獅子図」のライオンの静かなたたずまいにもかかわらず、大胆で迫力ある作品に圧倒されました。また、竹内栖鳳の「白猿」も孤高な感じのするすてきな作品でした。
第三展示室は幸野楳嶺門の四天王の作品展示でした。とりわけ、谷口香?の「若竹図」はみごとでした。全作品中、この作品が私はもっとも好きです。金屏風に日本画の特有の光沢を放つ青緑色、葉と竹の交差したデザイン、全体のバランス・・・。すべてがあまりに魅力的だったので饒舌な私もしばし沈黙してしまいました。
第四展示室は師風の継承者の方々の作品がありました。ここでは、上村松園の「紅葉可里図」が印象に残っています。たおやかというか、なんとも言えぬ気品と色気の融合した美人画でした。
第五展示室は池田遙頓邨の展示でした。「ぐるりとまわって枯山 山頭火」はユーモラスで思わず、心温まる作品でした。
あと、前回の特別展の一部として畳の上に置かれた物語絵が貼り付けられた金屏風がありました。漫画の起源のような印象でした。以上、一市民の率直な感想です。
ふと、考えたのですが、作品を観ただけの場合と、作品とその背景を言語で説明するという行為、つまり、作者と鑑賞者と作品という近代の芸術構造と学術的な言説のクロスがあった場合では作品への理解度はずいぶん異なるのだと確信しました。
こうして、館内の展示物をすべて見た後、お茶をするために展望喫茶室へ移動。宮島が一望できるテラスで、テーブルの関係で3グループに分かれて着席。心地よい秋風を受け、立派な椅子に座り、さわやかな気分でさて、飲み物を注文と思って、メニューを見たら、唖然。コーヒーも紅茶も普通の喫茶店の約2倍だったのです。心の中で高いと叫んだと同時に「高い。」と声が出ていました。風景代込みだからしかたないなあと思って味わいながら飲み終わった後、今度は和菓子とお茶が出てきました。これにはびっくり。風景代、椅子代、さわやかな風代と和菓子付き。トータルで、適正価格と納得しました。
駐車場と美術館の行きはシャトルバスでしたが、帰りは庭を散歩しながら下りました。この庭がとても美しく素敵でした。心が洗われ、駐車場で解散。それぞれの道で帰途につきました。
展示物もさることながら、美術館の建物、テラスからの眺望、庭とぜひ、再訪したいと思える美術館でした。まだ、行かれたことのない方は迷いながらでもぜひ、行ってみてください。
寄稿・エッセイ
プリペイドカードの旅
袁 葉
北京に住む親友Dさんの息子は、長年日本のアニメにハマっている。独学で五十音図を習得して、いつの間にか日本の歌も歌えるようになった。息子の影響で、Dさんまで日中辞典を使いこなせるようになったそうだ。
そんな話を聞きながら、しおりにでもどうかなと思って、日本の使用済みテレホンカードやバスカードを見せたら、「酷!」(Cool=かっこいい)「酷!」の連発だった。それ以来、日本からのお土産として欠かせない存在となっている。
昨年春の新学期、里帰りから戻ってきた私に「いつも日本のどんな物をお土産にしていますか?」とある同僚の日本人の先生が尋ねた。「そうですね。以前は日本の物なら何でも良かったのですが、今では大抵の物は中国にもあるので、おまけに、甘い物を気にする人も出てきているし、何にしたらいいのかが悩みの種になりました…。そうそう、意外と使用済みのプリペイドカードがうけるんですよ」と何気なく答えた。
そして夏休みの里帰り前、その先生は「はい、どうぞ!」と私に封筒を手渡した。いっぱいプリペイドカードが入っている。なんと、教え子たちに声をかけたら、たちまち集まったという。
目の前のカードの由来を聞いて、Dさんの目が潤んできた。しばらく沈黙した後、「(!)いいことを思いついた」と言った。一ヵ月後Dさんの職場、中国マスコミ省で文化芸術祭が行われる。日本のプリペイドカードを風景や美術工芸品、アニメ、動植物など、ジャンル別に整理して展示に出そうというアイディアだ。
「小さなカードだけど、日本文化を紹介する一つの切り口にもなる」と言った彼女に、「そこに,見知らぬ日本人からの厚意によって、この展示ができたとも書いてください」と私。
「いいですね」
「そして、日本ではこのカードを国内外の収集家に売って、発展途上国への食料援助や医療支援をしていることも、一筆付け加えてくださいね」
「任せてください!」
さて、夏休みが終わり、後期の授業初日にいつも学生に話す「最新北京情報」に、このエピソードも含まれていた。
秋が過ぎ、年末最後の授業のあと、一人の男子学生が教壇の方にやってきた。恥ずかしそうに、「先生、まだプリペイドカードを集めていますか?」「ええ、集めていますけど」「良かったら、これをどうぞ」と、カバンから百枚近くのカードを取り出した。そのカードは、今年の春休みに「中国マスコミ大学」で講義をしたあとに学生たちに分けてあげた。「二枚いただいてもいいですか?」と尋ねた女子学生の笑顔が忘れられない。
寄稿・イベントリポート
明日の神話について
出原 均
岡本太郎の壁画≪明日の神話≫の落ち着き場所が決まっていない。幅30mもの大作を収容する空間は、既存施設で簡単に対応できるものではないし、新たに器を建てるとなると相当の費用がかかる。太郎の財団が公のところに無償で贈与するという有難い申し出にも、財政的に苦しい多くの県や市は、なかなか手を挙げることができない。広島市も同様である。
そこで、広島市民の中で、誘致準備委員会が設立されたのが今年の7月21日(会長:山本一隆中国新聞副社長)。「準備」とするのは、より大きな組織である誘致会を想定し、その暫定組織だからである。当広島芸術学会も将来、誘致会参加を目指し、大橋啓一事務局長を委員に送り込んだ。また、今年から市役所の文化担当に配属された私は、職務でこの問題を検討する立場上、オブザーバーとして様々な面で協力することになった。
署名活動、イベント開催、ホームページ開設が誘致活動の3本柱であり、誘致会昇格時に市民、市、太郎の財団それぞれにアピールするため、大きなイベントを実施することになった。場所は、準備委員会が設置場所と考える市民球場。で、その内容は?偶々私が思いついたのが、実物大ジグソーパズルを作り、参加者に組み立ててもらおうというもの。パズルの組み立てと誘致活動がともに市民の手になることを願ってである。この提案は委員の心を捉えたようで即OKが出た。こうなると、志を同じくする者の動きは早い。球場の借用、資金集め、パズル作成(経費上、ジグソー型ではなく、矩形に落ち着く)、広報、ボランティア集めと、作業が瞬く間に進められていった。私はたんにきっかけを作ったに過ぎず、実現に漕ぎ着けたのは委員の情熱と献身の賜物である。
10月27日の当日は公式発表で二千人が参加(当学会も何人かが参加)。内野グランドに設けられた壁画と同サイズの枠の中に参加者が順番にパズルを置いていく。6時30分スタートした組み立ては、2時間後に完成し、盛り上がったイベントは、記念撮影で幕となった。翌日のほとんどの新聞にはこのイベントの記事が載り、アピールとしては大成功といってよいだろう(なお、イベントに多大な労力を費やしたため、誘致会昇格は12月に延期)。
最後にひとこと。この春の現代美術館での「“明日の神話”完成への道」の巡回展に、修復中の壁画の実物大複製を追加展示したので、私がかかわった実物大の複製は今回で2つ目である。市民も2つを見たことになる。次は、そろそろ本物が広島に来てほしいものだ!
インフォメーション
■PLANET STREET - 2000年後に発掘された〈駅~まち~美術館〉
柴川敏之 SHIBAKAWA TOSHIYUKI
●日時:2006年11月7日(火)?12月24日(日)
営業時間、定休日は場所により異なります。詳しくは下記のホームページをご覧
ください。(日曜日、月曜日はお休みが多いのでご注意ください)
観覧無料
http://www.wican.org/2006/sakura/
●場所:京成佐倉駅?栄町?佐倉市立美術館
●主催:佐倉市立美術館+Wi-CAN(千葉アートネットワーク・プロジェクト)
●協力:京成佐倉駅前栄町商栄会
●問合せ先:佐倉市立美術館
〒285-0023 千葉県佐倉市新町210
TEL:043-485-7851
http://www.city.sakura.lg.jp/museum/
身の回りのものが2000年後、化石として発掘されたら…?
京成佐倉駅と佐倉市立美術館。そして、それらをつなぐ通り沿いのお店に、柴川敏之さんの作品「2000年後に発掘された現代の化石」が出現します。のぼり旗を目印に「2000年後の化石」を探してみましょう! スタンプラリーやワークショップ等も盛
りだくさん。さて、一体どんな化石に出会えるのでしょうか!?
■自由美術広島からのお知らせ
差し上げます。追悼文集「小間 野生穂 追憶」
2005年9月、自由美術広島で活躍してきた、小間野生穂が亡くなりました。この度、追悼文集「小間 野生穂 追憶」が完成し、好評を得ています(B5判 白黒32ページ 写真・カット24枚)。この文集は、金田晉先生からも原稿を頂き、22名の文章を収録しております。文集を希望される方がいらっしゃいましたら、無料で送付致しますので、下記の連絡先へご連絡下さい。
併せて、小間野生穂の遺作展として、本人に多大な影響を与えた二人を加え、「灰谷正夫・清水勇・小間野生穂 三人展」を企画致しました。戦後自由美術広島の系譜を示す貴重な展覧会になると期待しております。是非ご覧下さい。
会 期:2007年3月27日(火)~4月1日(日)
場 所:広島県立美術館 県民ギャラリー1・2・3室
連絡先:〒732-0026 広島市東区中山中町3-36 西尾 裕
TEL082-280-1420
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